はっくしょん!!
はっくしょぉん!!
ずるずる―――
「百合さん、大丈夫ですか?」
「はい、ティッシュをどうぞ」と松原さんから渡されたティッシュの箱は、シルクタッチと書かれた店ならではの高級品。
街頭で配られているポケットティッシュばかり使っていた美沙だったが、厚手の素材がより一層鼻を刺激してくしゃみを引き起こしていたのだ。
「ごめんなさい、松原さん。お店の備品をこんなに使っちゃって」
「去年までは花粉症なんて他人事だったのに」と鼻をきゅ〜っとかむ美沙。
突然花粉症になったという話は聞いたことがあったが、まさか自分がそうだったとは。
「いいんですよ、これくらい。なんなら、一箱お持ちしますか?」
「えっ、ほんと?嬉しいわ。このティシュは、普通じゃ手に入らないから」
今の美沙にとっては高級ブランドのバックやジュエリーよりも、こっちのティッシュをいただく方が数倍嬉しかった。
「ありがとう。でも、こんな顔じゃお店に出られないわね」
マスクにメガネをしてお店に出るわけにもいかず、かといって今夜も彼は来店するであろう。
さっき、予約が入っていると松原さんも言っていたし…。
外で会う誘いをことごとく避けていた美沙と、唯一会えるのはこの店しかなかったのだから。
「そうですね。でも、山岸様が、がっかりします。百合さんがいなければ」
―――あぁ、やっぱり…。
だけど、こんな姿じゃ、彼だけじゃなくって他のお客様にも不快な思いをさせてしまう。
今夜は申し訳ないけど、このまま帰って休ませてもらった方がいい。
「私から山岸様には連絡を入れておくから、今夜は休ませてもらってもいいかしら」
「わかりました。じきに華さんも来られると思うので、私の方から話しておきます」
「早く花粉の季節が過ぎるといいですね」と新しいティッシュの箱を用意してくれた松原さんにお礼を言うと、美沙は店を出た。
自分から彼に電話を掛けるのはこれが初めてだった美沙は、携帯電話をじっと見つめながら通話ボタンを押す。
『百合さん?』
「やっ、山岸さんですか?少し、お話してもいいでしょうか」
携帯のメモリに登録してあったのだろうが、第一声が名前で呼ばれたことに驚いて、またまた声が上ずってしまう。
『もちろん。君から電話をもらえるなんて。でも、どうしたの?今から店に行くところだったんだけど』
「実は体調が悪くて、今夜はお店をお休みさせていただくことになったんです。そのご連絡をと」
『えっ、そうなんだ』
間に合って良かったと美沙は思ったが、彼の声がどことなく残念そうだ。
彼女自身も、そうでないと言ったら嘘になるが、できるだけ顔を合わせる機会を減らした方が…そんな気がしていたから。
「すみません。またの機会に是非、いらして下さいね」
『いや。だけど、体調が悪いって外にいるみたいだけど、大丈夫なのか?』
「えっ、えぇ…一度、お店の方へ寄ったんです。これから家に帰るところですし、それに大したことでも―――」
車の通り過ぎる音や、ざわめきが電話越しに彼の耳に届いたのだろう。
『まだ、店の近くにいるの?』
「はい。前ですが」
『少し待ってて、すぐに行くから。君は店の中で待ってるんだよ、いいね』
「は?」
―――行くからって…えぇぇっ?!
ダメダメっ、こんな姿を見られたら、一発で総務の川原ってバレちゃうじゃない!!
「ちょっ、専務さん。山岸さんっ」
プチっ。
―――あぁ〜あ、切れちゃった。
でもでも、どうするのよ。
ここで、このまま待ってるわけにはいかないわよね。
かといって、逃げ出したら大事なお客様の信用をなくしてしまう。
困った…。
えぇ〜いっ、いっそのこと全部をぶちまけて。
でもでも、そうしたらもう、会社には行けなくなってしまうし…お店一本でなんて考えてもみなかったけど、それしか残される道はなく…。
◇
「ごめん。体調が悪いのに待たせたりして」
車を走らせたのだろうか?30分ほどでお店に到着した山岸。
「いいえ。私こそ、ご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ありません」
今、ここにいる美沙は、いつもお店に出ている百合と変わりない。
30分の間にできる限りの処置をして何とか花粉症であることを隠したのだが、いつ特有の症状が現れるか。
「あれ?体調が悪かったんじゃ」
「大したことではなくて。せっかく専務さんがいらして下さったんですもの」
「さぁ、どうぞ」と席に案内する。
こうなったら、松原さんにも協力してもらって頑張るしかない。
「本当にいいの?」
「えぇ、単なる花―――」
「か?」
「かっ、肩こり?がひどくって」
首を回しながらも、どこから肩こりが出てきたんだと我ながらもっと他の言い訳はできなかったのかと思ったが、山岸は「ただの肩こりだからって、甘くみない方がいいよ」と真剣だ。
―――そんな、優しい言葉を掛けないで。
体調が悪いと言っただけで、すっ飛んで来てくれたり…。
勘違いしてしまいそうになるじゃない。
「そう言えば、君の本当の名前をまだ聞かせてもらってないな」
「え…」
―――本当の名前って、そんなこと言えるはずない。
えっと、えっと、何でもいいから考えなきゃ。
そんな時だろうか、お店のドアが開いてお客様が入って来た。
「いらっしゃいませ」
「華さん、これは僕からのプレゼント」
「まぁ、綺麗なカサブランカ」
「いつもありがとうございます」と受け取る華さんに大きなカサブランカの花束を渡したのは、常連客の某有名企業の社長さんだ。
いつも綺麗な花束を持ってくる、とても紳士な男性(ひと)。
一瞬にして、店内に甘い香りが広がり、そして…。
はっくしょん!!
はっくしょぉん!!
はっくしょぉぉん!!
どこからともなく、大きなくしゃみの3連発。
気付いた松原さんが、急いでティッシュの箱を引っさげて美沙の前にそれを差し出した。
「松原さん、ありがと」
はっくしょぉん!!
ずるずる―――
美沙は、山岸の目など気に掛ける間もなくティッシュできゅ〜んっと鼻をかむ。
はぁ…。
そんな彼女を見つめていた彼の視線など、気付くはずもなく。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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