夜の蝶
4


はっくしょん!!
     はっくしょぉん!!

ずるずる―――

「百合さん、大丈夫かい?」

「はい、ティッシュ」とここまでは開店前の状況と全く同じだが、シルクタッチと書かれた店ならではのティッシュの箱を隣で持っていてくれるのは松原さんではなく山岸さん…。
―――はっ、マズイ…。
突然襲われた花粉症の発作に我を忘れていたけれど、自分が花粉症だということが彼にバレてしまった。
とはいえ、マスクにメガネを掛けていなければ、自分が川原 美沙だということはわからない、はず?
ここは、冷静に対処しなければ。
しかし、あんな綺麗なお花なのにこんなに反応するとは思わなかったけれど、せっかく持って来てくれたお客様と華さんには悪いが、今夜だけは持って来て欲しくなかったかも…。

「すみません、お客様を不快にさせてしまって」
「そんなことはないけど、百合さんが花粉症だったなんてね。会社にも大きなマスクをしていた子がいて、僕にはその辛さがわからないから」

―――会社?って、もしかして私のことだったり。
でも、この時期花粉症でマスクをしている人なんてたくさんいるもの。

「専務さんの会社の方も、花粉症なんですか?」
「そうらしいよ。総務の子なんだけど、ちょうど君と年齢的には同じくらいかな?」

―――げっ。
やっぱり、やっぱり、もしかして、もしかしなくても私のことじゃ…。
マスクなんてしていったから、余計に印象付けちゃったのかも。
あぁ、話題を何か別の方へ持っていって、話を逸らさなきゃ。
なのに…。

はっくしょぉん!!

こんなんじゃ、山岸さんだけでなく、他のお客様にも迷惑を掛けてしまう。
無残にも化粧は剥げ落ちて、とても人前で接客できる状況でもないし、今夜は早々に退散しなくちゃ。

+++

…う〜ん。
腕を組んで、さっきから難しい顔をしている山岸。
どうして、彼女は店以外で会ってくれないんだろうか。

まさか、既に男が。
いや、それはないはず。
だったら、どうして。

自身がクラブのホステスだということを気にしているなら、確かに今の山岸の立場で彼女と付き合うということは、周りから見れば彼女の言葉じゃないけれど、一時の気の迷いと思われても仕方ないのかもしれない。
でも、単に美しいだけの女性なら世の中にはたくさんいるし、現に山岸だってそういう女性を嫌というほど目にしてきているのだ。
なのに彼女に惹かれてしまうのは、やはり只者ではない何かを本能的に感じるからだろうか。
あの、クラブにいる女性はみんな才女だと聞いているし、彼女もきっと。

そう言えば、あの時はまた名前を聞きそびれたな。
彼女と同じ名の花のおかげで。

山岸はふっと笑みを浮かべると席を立って、専務室を出て行った。

「ちょっと、総務へ行って来る。すぐに戻るから」

手に書類をかざしながら受付の女性にそう告げると、即座に返ってきた「私がお持ちします」という言葉に「たまには自分で行くよ」と答える。
実を言うと時々、自分のところへ来る総務の彼女のことが気になっていたからだ。
さっきまで百合のことを考えていたのにもう総務の女性に心変わりして…決して、そういうつもりではないが、なぜかまるで接点のない二人が重なって見えてしまう。

山岸が自ら職場へ足を運ぶことはほとんどないが、一歩、総務部内に入ると入社当時の頃の懐かしい思い出が蘇る。
今でこそ、専務という地位に就いているが、新人の頃は社内の色々な部署で基礎を叩き込まれたものだ。
…残念、彼女は離席中か。
さっと辺りを見回してみたが、お目当ての彼女の姿はない。

「すまないけど、これお願いするよ」

近くにいた女子社員に持っていた書類を渡す。
彼女はだいぶベテランだったから、山岸の顔を見るや否や、「はい、すぐに」とハっとした表情でそれを受け取った。
さすがにあの女性のことを聞くわけにもいかず、そのまま退散かと思われたが、ある物に目が留まる。

「あれ?このティッシュ」

デスクの上に置いてあったのは、シルクタッチと書かれたあの見覚えのあるティシュの箱。

「それですか、私も初めて見たんですけど、すご〜く柔らかいんです。普通には売っていないみたいですね。何方かにいただいたそうで、彼女、この席の人なんですが、花粉症がひどくて手放せないと言ってましたよ」
「失礼だけど、この席の女性の名前は?」
「川原、川原 美沙さんと言います」

「えっと、今は」とその女子社員は、行き先明示板に目を向ける。

「経理に行ってますね。専務も花粉症なんですか?よろしければ、そのティッシュのことを聞いておきましょうか?」
「いや、いいんだ。ありがとう」

彼女には会えなかったけれど、いい情報は手に入ったなと山岸は専務室に戻るとパソコンの画面に向かったのだった。



相変わらず、花粉症に悩まされる日々を過ごしていた美沙だが、幸いなことに会社では専務室に呼ばれることもなく、その点に関しては救われていたかもしれない。

「あっ、川原さん。さっき専務が来てね、そのティッシュのことが気になるみたい。専務も花粉症なのかしらね?教えてあげたら?お近付になれるかもね」

「今日は、ラッキーデーかも」なんて、嬉しそうに話す先輩女子社員。
滅多に顔を拝むことなどできない専務に会えたことが余程いいことだったのだろう。
しかし、美沙にとってはその逆。

「えっ」

―――なんですって!!
専務がここへ?それも、このティッシュに目を付けるとは…。
箱を常に持ち歩いていたのは迂闊だったと思いつつ、席にいなくって良かった。
顔を合わせたら誤魔化せなかったかもしれないし、だからといって店で会えばティッシュのことを聞かれるに決まってる。
やっぱり、隠し通せないということなのかしらねぇ。

「川原さん、この書類を専務のところへ持って行ってくれないかな」
「え…」
「何か、問題でも?」
「いえ、そんなことは」

「じゃあ、頼んだよ」と部長に手渡された書類を受け取ると、気付かれないように溜め息を吐く美沙。
―――私にとっては、今日はアンラッキーデーだわ。

「ちょうど良かったじゃない。専務にティッシュのこと、教えてあげなさいよ」
「はぁ」

他人事だと思って…。
重い腰を上げると専務室に向かう美沙だったが、その足取りは今まで以上に重かった。


※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。


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