「嶋崎課長、三谷社長がすぐに来て欲しいとのことですが」
「社長が?」
あからさまに怪訝な顔をした伊万里に電話を受けた女の子が苦笑する。
―――また、何かあったに違いない。
どうも嫌な予感がするわ。
うちの若き社長は気が短い性格だから、すぐに行かないといちいち煩い。
即フロアを出るとちょうどこの階で停まっていたエレベーターに乗って降りた先は、ビルの3階にある社長室。
「社長、機嫌はどう?」
「こんにちは、嶋崎課長。そうですね、ちょっと何かあったみたいですが」
受付の子に社長の様子を尋ねると微妙な表情を見せる。
伊万里を呼びつける時は大抵、何かトラブルがあった時と相場が決まっている。
憂鬱な気持ちを抑えながら、社長室のドアをノックする。
「嶋崎ですが」
「どうぞ」
ドアを開けて中に入ると、待ってましたとばかりに三谷が立ち上がって伊万里の方へ歩いて来た。
無駄にデカイデスクの前に置いてある、これまた伊万里の家にあるセミダブルのベットよりも大きなソファーに腰を降ろす。
「早速だが、今夜セルフォンの重役と会食する。伊万里、悪いけど通訳と交渉を頼むよ」
「はぁ?」
唐突に言われてなんのことやらさっぱりわからなかったのだが、話を聞くとどうやらお忍びでフランスに本社のある高級食料品店セルフォンの重役が日本に来ているらしい。
どこでかぎつけたのか三谷は早速会食の約束を取り付けて、その通訳と交渉を伊万里にやって欲しいのだと言う。
伊万里は父親の仕事の関係で、小さい時にヨーロッパを転々としていたから英語はもちろんフランス語にイタリア語、ドイツ語も話せるマルチリンガルだった。
社長の三谷とは大学時代の友人という関係から、周りに人がいないと会社であっても彼は伊万里と名前を呼ぶ。
入社試験を受けるまで三谷がこの会社の後継者だということは知らなかったからコネでもなんでもないのだが、彼はことある事に伊万里を頼り信頼していたからか、この年齢で異例の課長昇進を果たしていた。
「嫌よ、今日はジムの日だもの」
海外生活が長かったせいか伊万里は、余程のことがなければ残業もしないしプライベートな時間をとても大事にする。
今日は、週に一回欠かさず通っているジムの日だった。
専門のトレーナーを付けての本格的なレッスンだから、そう簡単にはキャンセルできない。
「そう言うなよ。社運が、かかってるんだぞ」
セルフォンというのはフランスでも有名な高級食材を扱うメーカーだが、品質第一がモットーで大量生産は一切しない。
まして、国外に出すなど問題外だった。
日本でもなんとか輸入契約を結ぼうと各社が交渉しているが、話しさえ聞いてもらえないのが実情だ。
それが、今回話をする機会を得ただけでも奇跡と言えるだろう。
三谷が、社運をかけているのも頷けるが…。
「フランス語なら私でなくても、それに交渉なんて無理。だったらほら、木村部長がいるじゃない」
木村と言うのは50を過ぎた部長だったが、フランス語も話せるし伊万里のような若輩ものの一課長よりも経験を積んだ部長の方が話は纏まりやすいだろう。
「これは正式な交渉じゃないから、社内の誰にも言っていないんだ。それにセルフォンのデュボワ氏は、大の日本女性贔屓(ひいき)だからな」
「何、それ。私に女を武器にしろって言うの?冗談じゃないわよ。社運だかなんだか知らないけど、大体ねぇ私は食品担当じゃないんだから」
伊万里の所属する部署は自動車の輸入であって、食品とはまったく関係ない。
それに相手が日本女性が好みだからという理由で、自分を当てにするのは納得できないのだ。
「そこをなんとか頼む。このとおりだ」
三谷が、伊万里に頭を下げた。
切羽詰ってのことだとは思うが、話はできても交渉までは無理だろう。
「そこまで言うなら力になってあげたいけど、私に交渉なんて無理。話がこじれたら大変よ?」
「それは重々承知してる。でも、せっかくの機会を逃すわけにはいかないんだ。俺は、伊万里ならやってくれるって思ってる。もし、失敗しても一切の責任は俺が取る。伊万里には迷惑かけないよ」
三谷が、言い出したら聞かないことを長年の付き合いである伊万里は知っているだけにここは聞き入れるしかない。
「わかったわよ。何とかやってみる」
「そうか、良かった。伊万里に断られたら、どうしようって思ってた」
心底ホッとしている三谷だったが、伊万里が引き受けたからといってうまくいくという保証はどこにもないのだ。
「嘘ばっかり、断るはずないって思ってたくせに」
「バレタ?」
ぺロッと舌を出した三谷は、とても30過ぎとは思えない可愛らしさが感じられる。
日本を代表する大手貿易会社で、一万人近い社員数を抱えてトップに立つというのは並大抵のことではない。
長身でまるでモデルのような容姿は、経済誌や今はファッション誌などの取材も多い。
彼より年配の者はあまりいい顔をしないが、それでも着実に利益を延ばしているのは彼の実力と言えるだろう。
「可愛く言っても、ダメなんだからね」
「それにしても、相変わらずの格好だな」
三谷は、伊万里を上から下まで眺めて溜め息を吐いた。
「あら、カジュアル化を推進したのは誰かしら?」
「俺だけどさ、それにしてもなぁ」
この会社は、数年前からカジュアル化を推進している。
無理にスーツを着て会社に来る必要もないだろうということと、現社長の交代を機に企業のイメージを一新する目的もあった。
が、伊万里はその中でも一際目を引いていた。
さすがにカジュアル化と言っても、課長職以上はスーツを着ている者が多い。
今日の伊万里は帰りにジムに行くことを考えて、D&Gのデニムにプリントシャツという、これからクラブにでも行くのかという服装だった。
「会食は18時からだから、それまでにもう少しきちんとしたのに着替えて来てくれよ」
「はいはい」
伊万里は、すぐに自分のデスクに戻るとセルフォンについてネットなどで片っ端から情報を集めた。
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