恋はすぐそこに
1


「うわぁ〜寒っ」

吐く息も白く思わず声に出してしまうほど、今朝の天気予報でこの冬一番の寒さと言っていたのも頷ける。
玄関の鍵を掛けると体をブルっと震わせながら首元に捲いたレオパード柄のショールを手で押さえ、観月 らら(みづき らら)は一人暮らしのアパートの階段を軽快に下りて都内の勤め先へと向かう。
今年も早いもので、もう師走。
年末ともなればもちろん仕事も忙しいが、何より恋人たちのイベントが目白押しだということ。
とはいっても、27歳、恋人いない暦うん年のららにはそんな季節も悲しいか、段々慣れつつあったことにちょっぴり寂しさを覚えながらも、いつか素敵な人が現れることを願わずにはいられない。

勤め先の白桐出版までは、徒歩と電車で約40分。
業界では中堅どころの出版社で、海外書籍の翻訳本を主に扱っている。
ららは入社5年目になるが、いつもラッシュの時間より少し早めに家を出ているせいか、車内はそれ程混んでいない。
今日はたまたま座れたものの、ほとんどこの時間をお気に入りの音楽を聴いて過ごしているが、車両と車両の連結部分の手すりに凭れて本を読んでいる男性に視線が止まる。
出版社に勤めている以上本を読んでいないと体裁が悪いのはわかっているけれど、どうもお堅い本ばかり扱っているせいか、朝からあれを見ると頭が痛くなってしまうのだ。
おっと、こんなことは大っぴらに口はできないけれど…。

―――あれ、白桐課長。

朝からスマートに本を読んでいるのは、ららの所属する営業部の課長をしている白桐 実(しらぎり まこと)。
確か年齢は30歳と聞いていたが、名前からわかる通り、勤め先の現白桐出版社長の息子でいわゆる御曹司というやつだ。
だからなのか、部を点々と異動しているらしく、営業部に来たのは今年に入ってからと、ららが職場を共にしてまだ1年になっていないが、長身で誰もが目を留めてしまうほどのいい男に加え細いフレームの眼鏡が妙に似合っていた。
ほとんど口をきいたこともないし、ある意味、部長より偉い気がして、なかなかお近付きにになれない存在。
しかし、同じ時間の同じ車両に乗っているららだったが、今まで一度も会ったことはない。
これは偶然なのか、はたまた何かの暗示なのか…。
―――まぁ、私があの人とどうこうなるってことは、絶対ないけどっ。

御曹司であれだけの魅力を放っている彼が独身なのは、将来の社長夫人を決めるにはそれなりに時間も掛かるということなんだろう。
既に決まった人はいるのかもしれないが。

あまりに穴が開くほどジッと見つめていたからか、白桐が気付いてららに会釈する。
慌ててららも小さく頭を下げたが、変なふうに思われなければいいけど…。
途中駅からほどよく車内が混み出し、彼の姿は視界から消え去ったのがせめてもの救いだったかもしれない。

会社の最寄り駅で降りると、冷たい空気が頬を掠めた。

「おはよう」

掛けられた声と共に、そこには白桐がニッコリ微笑んで立っていた。
まさか…ららが降りるのを待っていたのだろうか。

「はっ…かっ、かちょー…おっ、おはようございます」

いきなりのことで、思いっきりどもった挙句、声が上ずって余計に不審がられてしまうかも。
―――だってぇ…てっきり、先に行ってると思ってたんだもん。
わざわざ、待ってなくてもいいのにぃ…。

「今朝は寒いね」
「そっ、そうですね。天気予報では、この冬一番の寒さだと言ってました」

「だろうね、吐く息も白かったし」と話す白桐と肩を並べて歩くのは、なんだか無性に居心地が悪く、胸が苦しくて息苦しささえ覚えた。
―――こんなところをみんなに見られたら、大変っ!!
変な噂でも立てられたら、どうしよう…。
ららの考え過ぎかもしれないが、一応部下ということと、たまたま電車で一緒になっただけとはいっても、彼はそれだけ注目の人物ということなのだから。

「観月さんは、いつもこの電車なの?」
「えっ、はい」
「そっか。僕はこれより1本遅い電車で来てたんだけど、随分空いてるんだね。明日から、これにするよ」

―――げっ…。
明日から、同じ電車に乗るんですって?!
改札口に一番近い車両を選んで乗っていたから会ってしまったわけで、同じ電車に乗るということは、ららが車両を変えない限り同じことが今後も続く可能性があるということ。

「はぁ」

こんな時、どう答えるのが一番いいのか。
嬉しくないと言えば嘘になるが…。

「そうそう。今週末の飲み会には君も来るのかな?」

―――今週末の飲み会?
なんだっけ…。
すっかり忘れて思い出せないが、こぶたちゃんに誘われたような…いないような…。
ちなみにこぶたちゃんとは、ららの同期でなぜかそういうあだ名で呼ばれていた可愛い女性のこと。

「ほら、駅の裏に新しくできた和食の店を今年の忘年会の場所にするかどうかで、下見に行こうと深森(みもり)が言ってなかったか?」

「あいつは、人の懐をアテにしやがって」と白桐はわざと怒ったような言い方をしているが、反して顔は笑っている。
深森 譲(みもり ゆずる)は入社3年目の若者でかなりのお調子者だったが、確か今年の忘年会の幹事になっていたはず。
そう言えば…。
女性の好みの店にしようと、ららも誘われていたことを今になって思い出したが、そこに白桐も来ることになっていたというのは初耳だ。
上の空で聞いていたけれど、だからいつになく、こぶたちゃんが騒いでいたのかも。

「はい。取り敢えず、行くと返事はしてました」
「僕みたいのが一緒でつまらないと思うけど、普段あまりそういう機会もないし」

「色々、仕事以外の話なんかも聞かせてもらえると嬉しいから」と、そこは将来の社長となる彼の本音でもあった。
厳しい時代を乗り切っていかなければならないこれからの出版業界をどう変えていくか。
本来ならそういう場を積極的に設けなければいけないのかもしれないが、社員の、特に若手の気持ちを察するには、これはいい機会になると白桐は思っていた。

「いえ、課長と一緒なら、みんな喜びますよ」
「君も?」

立ち止まって見上げると、微笑むというよりニヤニヤしていると言った方が正しい白桐とバッチリ目が合った。

「へっ…私は…」

―――課長は何をっ。
そりゃぁ、私だって…って、言えるはずないでしょうがっ。

「ごめん、ごめん。それ以上は、聞かないことにするよ」

視線をあっちこっちに泳がせている、ららを他所に、はははっ、と綺麗な歯を見せて笑う白桐。
…今朝は、なんていい日なんだろう。
営業に異動してからずっと話をしてみたいと思っていた彼女と、幸運にもたった1本早い電車の同じ車両に乗り合わせたことで、こうして笑えるなんて。
そして、今週末にはもっと楽しいことが待っているかもしれないのだから。


お名前提供:観月 らら(Rara Mizuki)/深森 譲(Yuzuru Mimori) … 雨芽−あめ− さま
お名前提供:白桐 実(Makoto Shiragiri) … こちらのお名前を考えて下さった方、是非ご一報よろしくお願いします。

※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。


NEXT
BACK
INDEX
PERANENT ROOM
TOP


Copyright(c)2006-2013 Jun Asahina,All rights reserved.