「何だよ、急にもう会えないなんてさ。そんなの、俺は納得できねえよ」
週末の金曜日、電話で付き合っていた彼にもう会えないと伝えたところ、納得できないと藍の会社の前まで乗り込んで来た。
「初めに言ったでしょう?私は本気で付き合うつもりはないけど、それでもいいの?って」
目の前にいる男とは、2ヶ月前に大学時代の友達に付き合って行った合コンで知り合った。
同い年で話も合ったことからなんとなく付き合い始めたけれど、彼は中規模だが父親の経営しているIT関連の会社の跡継ぎ、お金も持っている。
何でも欲しいものは買ってくれたし、色々な所にも連れて行ってくれた、もちろん顔だっていい、それでも何かが満たされなかったのは、お金で心までは自由にならないのだということを藍(あい)自身が一番よく知っていたからかもしれない。
藍は中学まで父が外資系の銀行に勤めていた関係で、ロンドンに住んでいた、いわゆる帰国子女。
いまだ両親はロンドン在住だが、大学入学のために一足先に日本に帰国していた3歳年上の兄の元から高校は、超がつくようなお嬢様学校と呼ばれるところに通った。
そのままエスカレーターで大学まで進学し、語学力を生かして今勤めている日本でも有数の商社に就職したのだった。
藍はとにかく生まれた時から可愛かったのと長身で抜群にスタイルも良かったことから、帰国直後から雑誌のモデルにもスカウトされた。
女子校に通っていたが、そんな藍を放っておくはずもなく学校にまで押し寄せる始末、そして当然のように何人もの男性と付き合った。
初めの頃はちやほやされて有頂天になっていたところもあったと思う、しかしどの相手もみんなお金持ちのお坊ちゃま、彼らの目的は藍の申し分のない容姿と学歴、誰も藍の心まで欲しかったわけではなかった。
藍もそれはわかっていたし、ずっとそれでいいと思っていたのだが、段々虚しいだけなのだと知ってからは本気で付き合うことをやめた。
そして、今に至っているのだが…。
だから、初めに本気では付き合えないと断っておいたのに、それがいきなり両親に会ってくれと言い出すとは…自業自得とは言え、こうにもこの男が後腐れのある人だとは思ってもみなかった。
───まいったなぁ。
「理由は何なんだよ。俺のどこが悪いって言うんだ」
頑として引こうとしない男に手を焼いていた時、ふと前を歩く見知った人物が目に入る。
「笠原っ」
思わず、藍はそう叫んでいた。
「神谷…さん?」
笠原と呼ばれた男は、目が悪いせいか分厚いレンズの眼鏡のフレームを右手で少し持ち上げて、目を細めながらも驚いた顔でこちらを見ている。
藍は急いで笠原の元へ駆け寄ると彼の腕にしがみついて、追い掛けて来た男に向かってこう言い放った。
「私、この人と結婚することになったの。だから、もうあなたとは付き合えない」
まさか、藍がこんなことを言い出すとは思いもしなかったのだろう。
二人の男は、ものすごく驚いた顔で藍を見つめている。
「藍、本当なのか?本当にこいつと結婚するって言うのか?」
男は笠原を上から下まで舐めまわすように見ている。
言っちゃ悪いが、笠原はお世辞にもいい男とは言えないだろう。
背は男よりも少し高かったけれど、分厚い眼鏡に綺麗に洗われているがなぜかいつもボサボサの髪、都内にある私立最高峰といわれる大学院を卒業し、世間に名が知られた大企業に勤めてはいるけれど、そこは一介のサラリーマンだ、中規模でも社長の息子のように外車を乗り回したり、高級なスーツに見を纏うこともできない。
「そうよ。悪い?」
と藍がいくら強く言ってみても、男を納得させるだけの効力はなさそうだ。
「こんなダサいやつより俺の方が絶対、藍を幸せにできる。なぁ藍、目を覚ませよ」
この男は頭もいいはずなのに自分のこととなると見境がつかなくなるようだ。
───だから、お金持ちのお坊ちゃんは嫌なの。
そう心の中で呟いて、尚も言い寄ってくる男にさすがの藍もとうとうキレた。
「あなたに笠原の何がわかるって言うの?この人は確かにダサいわよ、あなたみたいにお金も持っていないしね。でも、あなたより笠原の方が私にはよっぽどカッコよくて素敵に見える。それがなぜだかわかる?あなたは相手の外見しか見ていないでしょ?お金を持っていれば何でも手に入るって思ってる。でもね、人の心はお金じゃ買えないの、笠原は人を外見で判断したりしない。ちゃんと中身で判断してくれるもの」
藍はずっと心の中に燻っていた思いを一気に吐き出すと、「行こうっ、笠原」と勢い良く彼の腕を取って歩き出した。
一度も後ろは振り向かなかったけれど、もう男は追い掛けて来ることはなかった。
これで、あの男も少しは懲りただろう。
藍は、すっきりした気分だったけれど、何の関係もない笠原を巻き込んでしまったことに今更ながら気付いてその場に立ち止まった。
「神谷さん、どうしたの?」
不思議に思った笠原が、藍の顔を覗き込むように見ている。
背が高いこともあったけれど、笠原は目が悪いせいか話す時に人の顔を覗き込む癖があった。
「ごめんね、笠原。勝手に結婚相手なんて言って、変なことに巻き込で」
「俺のことはいいけど…。でも、神谷さんはあれで良かったの?」
笠原はいつものように優しい笑みを浮かべているが、あんなことを言われても藍とあの男とのことを気にしているようだ。
いつだってそうだ、笠原は自分のことより相手のことばかり気にするところがある。
笠原 智之(かさはら ともゆき)と神谷 藍は、2年前に今勤めている会社に入社した同期だった。
笠原は大学院卒で、藍は大学卒だったから同期だが彼の方が2歳年上、だけどタメ口に名前を呼び捨てにするのは、彼にだけは飾らない本当の自分を見せられていたからかもしれない。
彼は人見知りが激しいところもあってあまり自分から話し掛けるタイプではなかったけれど、研修中ずっと席が隣だったこともあってか、わからないことを聞いたり日常の他愛もない会話をしているうちに少しずつ話をするようになっていた。
配属先はお互い違う部署だったので、それからはたまに社内で会えば話をする程度のごくごく普通の関係だったが、藍はどこか異性というよりも同性という感覚で彼を見ていたのかもしれない。
結構悩みなんかも真剣に聞いてくれたから、つい込み入ったことまで話してしまうこともあった。
そんな笠原をこんなことに巻き込んでしまったというのに、彼は藍とあの男の心配をしている。
───まったく、どうしてこの男はいつもこうなんだろう?
でも、それが笠原らしいと言えばそうなのかもしれないが…。
「いいわよ、あんな男。初めから、まともに付き合う気なんてなかったんだから」
「神谷さんがいいなら、俺は何も言わないよ」
笠原のいいところは、絶対自分からは相手の深い部分まで立ち入らないところ、そんな彼の心遣いが今はとても嬉しいと思う。
「そうだ。ねぇ、私勝手に引き止めちゃったけど、笠原はどこか行く予定とかあったんじゃないの?」
「俺?俺は、別に家に帰るだけだったから何もないよ」
「そうなの?」
藍は少し考えてから、ちらっと自分の腕時計を見た。
時刻は、19時を少し過ぎたところ。
「笠原、夕食は?」
「行きつけのコンビニ」
「じゃあ。お詫びといっちゃなんだけど、私奢るからご飯食べに行こう?」
「え?いいよ、そんなの。俺、何もしてないし」
確かに笠原は何もしていないかもしれないが、気分を悪くさせたことは確か、酷いことを言って少なからず彼を傷つけたことに変わりはない。
「そんなことないわよ。酷いこと言って、笠原のこと傷つけたでしょう?ごめんね。だから、ご飯食べに行こう?私、あの男と話してたら、もうなんかお腹空いちゃって」
藍は、笠原の返事など聞かないうちにまた腕をとって歩き出してしまった。
笠原も強引な藍に苦笑しながらも、付き合わざるを得ないと諦めたようだった。
藍が連れて行ったのは、カジュアルだけど洗練されている今流行のイタリアンのお店。
予約を入れていなかったが、混んでいたもののちょうど入れ替わりで席が空いたこともあって運良く並ばずに入ることができた。
若い男性店員に案内されて、二人は奥の席に向かい合って座る。
「何でも好きなの頼んでいいからね。笠原はワインは大丈夫?ここでしか飲めないワインとかあってね、すごく美味しいの」
「酒は何でもいけるけど、俺はあんまりこういうところには来ないから神谷さんに任せるよ」
笠原がそう言うので、藍はいつもここに来ると頼んでいるディナーセットに決めた。
日替わりでアペタイザーにパスタやピザ、メインディッシュも数種類の中から選べて、最後にデザートとエスプレッソも付いてくる。
これなら、笠原も自分の好きなものを選べるだろう。
それと、さっき言っていたここでしか飲めないというワインをフルボトルでオーダーした。
「こういう、おしゃれな店を知ってるのは、さすが神谷さんだな」
笠原は店内を見回しながら、えらく感心しているようだ。
藍は前に雑誌のモデルをしていたことから、いまだにそういう関係者との付き合いもあった。
だから、流行の店や新しくできた店の情報はいち早く入手できるのだ。
「そんなことないと思うけど?笠原は、いつもどういうところに行ってるの?」
「俺?俺は、周りがオヤジしかいない居酒屋」
なんとなく藍には笠原の言っている、客がオジサンばかりの居酒屋が想像できた。
───笠原らしいかも。
藍は思わず笑みをこぼしていた。
「じゃあ、今度は笠原が私をそのお店に連れて行ってくれる?」
「えっ、神谷さんを?」
藍は何の意図もなく言ったことだったけれど、それが笠原にはひどく意外だったようだ。
パチパチと何度も瞬きしているのが、分厚いレンズの奥からも確認できる。
「駄目?」
「駄目じゃないけど、神谷さんにはものすごく似合わないと思うよ?」
笠原のよく行くという居酒屋は、お世辞にもおしゃれとは言いがたい古ぼけた店構えで、店内はいつも魚や焼き鳥を焼いている煙に混じって煙草の煙が立ち込めている。
客といえばオヤジか若くても男ばかり、たまに女性も混じってはいるけれど、藍のように小奇麗な衣装を纏う可愛い子など今まで見たことがない。
「いいじゃない。今度、連れて行ってよ」
「まぁ、神谷さんがいいなら」
藍にこう言われると、笠原は断ることができなくなってしまう。
「じゃあ、決まりね」
ニコっと笑った藍の笑顔がとても印象的で、笠原は知らず知らずのうちに釘付けになっていた。
そんなことを話しているとすぐにワインが運ばれてきて、お互いのグラスに赤くてきれいなワインが注がれる。
「今日は、ほんとごめんね。迷惑かけちゃって」
「いいよ。そのおかげで、こうやって神谷さんと食事ができてるわけだし」
「えー。笠原って、そういうことも言えるの?」
二人は笑いながら、カチンとグラスを合わせた。
料理も美味しかったけれど、笠原との他愛のない会話が藍にはなぜかとても温かで心地良かった。
今まで、こんなふうに穏やかな気持ちで誰かと話をしたことがあっただろうか?
藍は、久しぶりに感じた幸せにしばし浸っていた。
「そう言えば、笠原は休みの日って何してるの?」
今まで藍の方が一方的に会話をしていたせいか、あまり笠原のプライベートな部分を聞いたり話したりしたことはなかったような気がする。
「あぁ。最近は周りも忙しくて回数は減ったけど、友達と釣りとかキャンプとか」
「えっ?釣りにキャンプ?」
「今、神谷さん。意外とか思ってただろう?」
───バレた?
だって、笠原は誰が見てもインドア派なんだもの。
絶対、部屋にこもってパソコンでネットとかしていると思ってた。
それなのに釣りにキャンプだなんて意外過ぎるじゃない。
「だって、全然そんなふうに見えないわよ?」
「こう見えても、俺はアウトドア派なんだぞ?」
少し膨れた顔で言う笠原が、なんだか少年に戻ったみたいでとても可愛いかった。
「私、そういうの全然やったとことないなぁ」
藍は逆に見た目と違ってあまり休みの日は外に出ないことが多い。
DVDを見たり本を読んだりCDを聴いたりして、部屋でゆっくり過ごすことがほとんだだった。
友達との約束もデートも会社帰りにすることが多く、改まって休みの日に出掛けることもなかったのだ。
「やってみると結構面白いよ、テントに寝袋でサバイバルって感じだし。そうだ、来週末久し振りに友達とキャンプに行く約束をしているんだけど、神谷さんも一緒に行く?」
「え?」
まさか、笠原に誘われると思わなかった藍は口に近付けていたグラスを持ったまま固まった。
「あぁ、ごめん。急に言っても駄目だよな。神谷さんの予定もあるのに」
「そんなことないけど、笠原のお友達なんでしょう?そんなところに私が行ったりしたら迷惑じゃないの?それに私、初めてだから邪魔になるだけだと思うし」
「あぁ、それは大丈夫。俺の友達っていうのは野郎ばっかりなんだけど、それぞれ彼女を連れて来るんだ。毎回違う子を連れてくるやつもいるしさ。俺なんていつも一人だから結構、寂しい思いしてんだよ。彼女達は釣りはしないから近くの温泉に行ったり、ティールームでおしゃべりに花を咲かせてる。それに女性にはテントじゃなくてちゃんとコテージを予約してるから、心配しなくても平気だよ。夜は決まって河原でバーベキューなんだけど、あれってアメリカじゃあ男の役目だろう?だから、神谷さんは何もしなくてもいいんだよ」
───寂しい思いしてるって…笠原って、付き合っている人いないの?
「それなら、行ってもいいかな…でもさ、笠原って彼女いないの?」
触れてはいけない部分に触れられて、笠原は飲んでいたワインを思いっきり吹き出しそうになった。
「俺?いるように見える?」
「う〜ん」
暫く天井を見上げて考え込んでしまった藍を見つめて、笠原は苦笑している。
「おいおい、だからそこで真剣に考え込むなって。さらっと流してくれよ、落ち込むだろう?」
「ごめんごめん、特に意味はなかったんだけど…。じゃあ、キャンプ楽しみにしてるから」
「あぁ、でも本当にいいのか?」
「いいわよ」
笠原が満面の笑みを浮かべて笑っている。
なぜか笠原とその友達とキャンプに行くことになってしまったけれど、この展開にものすごくワクワクしている自分がいることに藍は驚きを隠せなかった。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
NEXT
BACK
INDEX
PERANENT ROOM
TOP
Copyright(c)2006-2013 Jun Asahina,All rights reserved.