「憂さん、大丈夫ですか?風邪、ひどそうですね」
さっきからゲホゲホと咳き込んでいる憂を見て、心配した奈々が机の引き出しからのど飴を取り出すとそっと差し出した。
「ありがとう。昨日の夜から、急に喉が痛くなっちゃって。でも、熱はないみたいだから」
昨夜は10時頃まで残って仕事をしていたが、会社を出ると北風にさらされたせいか家についてからどうも喉がいがらっぽい。
念のため、温かくして寝たつもりだったのに今朝は咳でいつもよりずっと早く目覚めたくらいだった。
ここのところ残業続きだったし、体が弱っていたのかもしれない。
大きなマスクが小顔の憂のほとんどを占めてしまう姿が、なんとも痛々しい。
「昨日の夜は、急に気温が下がりましたからね。ひどくならなければ、いいですけど」
「あたしは大丈夫なんだけど、みんなにうつるのがね。奈々ちゃんも、あんまりあたしに近付かない方がいいわよ」
会話をしている最中も憂は咳が止まらず、本当に辛そうだ。
…篠島さんは知ってるのかな?憂さんが風邪ひいちゃったこと。
きっと憂さんのことだから、心配掛けるからと篠島さんには言っていないに違いない。
後で、書類を持って行くついでにこっそり報告しなきゃ。
◇
「篠島さん、こちらお願いします」
奈々がそう言って書類を手渡すと、「了解」と遼哉はそれを受け取る。
「ちょうど良かった。急ぎじゃないんだけど、ついでにこれを永峰のところへ持って行ってくれるかな」
「はい、わかりました。あの、憂さんのことなんですけど」
「ん?永峰が、どうかした?」
憂のことと聞いて遼哉の表情が微妙に変化したが、奈々が「憂さんが風邪をひいちゃったみたいなんですけど、とっても辛そうで」と耳元で叫くように言うと一層神妙な面持ちになった。
「風邪?」
「昨日も帰りが遅かったみたいで。それに夜は気温もぐっと下がったこともあったんじゃないでしょうか。熱はないと言ってましたが、咳がひどいんです」
…ったく、あいつ、無理したんだろ。
昨日の夜、電話で話した時はそんなふうに感じなかったが、きっと既に体調は悪かったのかもしれない。
「真崎さん、ごめん。それ、やっぱり俺が持って行くよ」
すぐにでも様子を見に行きたい気持ちにかられた遼哉は、さっき憂に持って行ってもらおうと奈々に頼んだ書類を自分で持って行くことにする。
篠島の気持ちを察した奈々はニッコリ微笑むと、その書類を彼の手に戻した。
◇
ゲホッゲホッゲホッ
ゲホッゲホッゲホッ
段々、咳はひどくなるばかり。
なんとなく、全身も熱を帯びてきたような気もする。
午後に入って、憂の症状は一段と悪くなってきたような気がした。
それでも、周りに迷惑を掛けるわけにはいかないし、心配掛けまいと気丈に振舞う。
「憂さん、本当に大丈夫ですか?なんだか、さっきよりもひどくなっているようですけど」
「これくらい、平気平気。あたしね、こう見えても丈夫だから」
「でも…」
そうは言われても、こんな彼女を見て誰も信じるはすがない。
奈々はただ、見守るしかなかったが…。
そんな時、救世主が現れた。
「痛っ」
システム開発部のフロアに入って来るなり、遼哉は持っていた書類で憂の頭を小突く。
「ほれ」と渡された書類を受け取りながらも大げさに頭を押さえる憂だったが、こんな姿を彼に見られてしまいバツが悪い。
―――どうして、わざわざこんなところまで来たりするのよ。
見ればこの書類は、遼哉がここまで出向いて持って来たりしなくてもいいもの。
社内便で送れば済むはずなのに…。
『あっ、奈々ちゃん』
さっき、遼哉のところに行って風邪のことを話しちゃったんだわ。
だからといって奈々ちゃんを責めるわけじゃないけれど、遼哉が心配するから…。
「そんなに咳き込んだら、周りに迷惑だぞ」
「わかってるわよ。だったら、篠島こそ離れなさいよ。半径2m以内に近寄らない方がいいんだから」
強がった言い方をしている憂だったが、遼哉が思っていた以上に彼女の症状は重そうだ。
マスクで顔が覆われているせいか表情は良く見えないけれど、目は充血しているし、何より咳がひどい。
…何で、こんなになってんのに仕事してんだよ。
今すぐ家に連れ帰りたかったが、逆にそこまでしてやらなければならないことがあるのだと。
憂が男顔負けに働く姿は、遼哉も嫌いじゃない。
しかし、彼氏という立場から見ればもっと弱い面を見せてもいいと思うし、お願いだから無理だけはして欲しくなかった。
「わかったよ。俺は退散するから、無理すんなよ」
「ありがとう」
心配してきてくれたであろう遼哉に感謝しつつ、余計な気を使わせてしまったことをちょっぴり申し訳なく思う。
でも、彼の顔を見られたことが、こんなにも嬉しいなんて…。
周りの人に気付かれないよう、憂はずっと遼哉の後姿を見送っていた。
◇
「奈々ちゃん、今日はあたしも帰らせてもらうわね」
「ゆっくり休んで、元気になって下さい」
憂のことだから無茶してすんなり定時で帰らないと思ったが、『良かった』と内心ホッとした奈々。
…篠島さんが、言ってくれたんだわ。
実をいうと憂は定時で帰るつもりなどなかったのに、さっき遼哉がここへ来た時に持って来た書類にメモが付いていて『定時に出ること。駅で待ってる』と書いてあったのだ。
今夜だけは素直に言うことを聞いて家に帰ることにしたが、遼哉が側にいてくれるだけで心強い気がした。
急いで会社を出て駅に行くと、先に来ていた遼哉の姿が目に入る。
「ごめんね、待たせて」
「そんなことはいいけど、大丈夫か?」
「うん、なんとか」
ゲホッゲホッと咳き込みながら、『大丈夫』ではなく『なんとか』というあたりからして、かなり辛いのだろう。
遼哉はすぐに憂の肩を抱き寄せたが、全身から熱が伝わってくるようだ。
「少し、熱も出てきたみたいだな」
「これくらいなら、ゆっくり朝まで寝てれば治ると思う。でも、こんなに側にいたら遼哉に風邪がうつっちゃう」
「俺は平気さ、そんなに柔じゃない」
一人だったらすごく心細かったかもしれないけれど、今は遼哉がいてくれる。
彼の肩の頭を凭れると憂は静かに目を瞑った。
憂の家まで送ってくれた遼哉。
パジャマに着替えてベッドに入ると、食欲があまりない憂に玉子酒とおじやまで作ってくれた。
「憂?」
「帰っちゃうの?」
我侭言っているとわかっていても、もう少し側にいて欲しい。
「憂は、俺に帰って欲しくないんだ」
手を握ったまま、うつろな目で訴えられて遼哉が帰れるはずがない。
遼哉はベッドの端に腰掛け、黙って頷く憂の髪を優しく撫でてやる。
熱のせいか、ほんのりと赤く染まった頬に艶やかなピンク色の唇、時折漏れる吐息がなんだか妙に色っぽい。
こんな時に不謹慎だったが、ものすごくソソラレてしまうのだ。
まさか病人に手を出すわけにもいかないし、これ以上ここにいるのは酷というもの。
それに憂だって、ゆっくり休んだ方がいいのだし。
「そうしてあげたいのは山山なんだけど。俺、今の憂を黙って見ていられる自信がないんだ」
「え?」
―――どういう意味?!
黙って見ていられないって…。
「わかってないだろ。今の憂はすっげぇ色っぽくて、ソソってるようにしか見えないんだけど」
「は?遼哉ったら、何えっちなこと言ってるの?」
―――遼哉のえっちぃ。
仮にも病人に向かって、そんなことを言うなんて…。
でも…。
「だから、言っただろ?」
「何かあったら、すぐに来るから」と、立ち上がり際に遼哉は「風邪がうつっちゃうからダメ」という彼女のピンク色の唇にくちづける。
それでも帰って欲しくなかったのか、憂は彼の手を離そうとしない。
「憂?」
「帰らないで」
「我侭言うなって。マジで憂を襲ってしまいそうなのに」
憂に上目遣いに見つめられて、そろそろ遼哉も限界に近付いている。
もう少し理性があれば…。
そうは思っても、欲望がそれを上回ってしまう。
「遼哉が、そうしたいなら」
「あ?熱のせいで…」
…熱のせいで、そんなことを言っているんだよな。
これが元気な時だったら、絶対に口にしないはず。
「違うわよ」
「だけどなぁ」
…明日になってから、文句を言われても困るし。
かといって、こんなに美味しい話もないし。
あとは、俺次第ってことか。
今は彼女の体のことだけを考えなきゃいけないのだから、男なら我慢するしかない。
しかし、拷問だな…。
「わかった。今夜はここにいるから。まぁ、俺のことは気にしないでゆっくり休むこと」
「隣にきて?」
「あ?」
…オイオイ。
俺に添い寝しろっていうのかよ。
それこそ、理性なんて抑える自信は俺には1%だってないんだからな。
そんな遼哉の気持ちなど知ってか知らずか、「早くぅ」と羽布団の端を上に折り曲げると、憂がポンポンってそこを手で叩く。
半ばやけっぱちの遼哉は、スーツを脱いで下着姿のまま彼女の体に完全に密着する形で狭いベッドに横になる。
「遼哉」
「ん?」
「ただ、呼んでみただけ」なんて可愛いことを言うもんだから、危うく組み敷くところだった。
憂は赤ん坊みたいに抱きついてきて、その後にはスースーと寝息をたて始め…。
いつしか、遼哉も心地いい眠りについていた。
+++
「おはよう、奈々ちゃん」
「憂さん、おはようございます。もう、風邪はいいんですか?」
憂はマスクもしていないし、昨日はあんなにひどかった咳もすっかり治まっている。
早く帰ったのが、良かったのだろう。
「うん、バッチリ。でもね」
「でも?」
元気になったというのに何かあったのだろうか。
「ちょっとね」と憂はその時、はっきり理由を言ってくれなかった。
それがわかったのは…。
「篠島さん、こちらお願いします」
奈々が調達部に出向くと、ものすごく咳き込んでいる人が約1名。
「ゲホッゲホッ、あぁ真崎さん。その辺に置いておいてくれる?」
「どうしたんですか?今度は篠島さんが、風邪をひいちゃったんですか?」
昨日の憂と全く同じ、大きなマスクで顔を覆い、咳き込んで苦しそうなくらい。
…あっ、もしかして憂さんの風邪が篠島さんにうつっちゃったの?
「ったく、永峰が俺にうつすから」
あんなふうに抱き合って寝たものだから、すっかり風邪が遼哉にうつってたのだ。
「憂さんが元気になったのは、篠島さんにうつしちゃったからなんですね」
「そうだよ。まぁ、元気になったみたいで良かったけどさ」
憂の我侭を聞いてあげたんだから、俺がもし寝込むようなことになったら今度こそいう通りにさせてもらうからな。
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