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Chapter1


川瀬 瑞希(かわせ みずき)は、フロア横の誰もいないカフェスペースで、退職願と書かれた白い封筒を見つめながらそう呟いていた。
この会社に入社して2年、特に仕事に生きる女を目指しているわけでもなかったし、彼氏がいるわけでもない、けれどまだ辞めたくはなかった。
瑞希が東京に出てきて6年、本当なら大学を卒業したらすぐに実家に戻る約束だったが、それを両親になんとか理由をつけてここまで延ばしてもらっていたのだ。
昨夜の母親からの電話の会話を思い出す。

『瑞希、わかってるわよね。お父さんは、これ以上瑞希が東京で暮らすのを認められないって。いい縁談の話もいくつか来ているし、だからすぐに帰ってらっしゃい』
「縁談って、そんなまだ早いわよ」
『あら、何言ってるの?あなたもう25歳なのよ?遅すぎるくらいなのに。それとも、そっちに誰かいい人でもいるの?』
「え…?」
『いるなら、すぐにでも連れてらっしゃい。いいわね』

そう言って、一方的に切られたのだった。
これ以上東京に居続ける理由が、今の瑞希には見当たらない。
―――仕方ないわよね、早くこれを出さなきゃ。
そう自分に言い聞かせると気を取り直して瑞希は、職場に戻って行った。

+++

「川瀬。今日、飲み行くぞ」

それだけ言って立ち去ってしまったのは、高沢 慎之介(たかざわ しんのすけ)。
瑞希と2年前に一緒に入社した同期社員だ。
高沢はいつもこうやって突然、瑞希を飲みに誘う。
それも少し落ち込んでいたり、悩み事がある時に限ってだ。
まあ彼のことだからそこまで気付いているのかはわからないけれど、それがすごく嬉しかったりもする。

「川瀬さん、いいなあ」

隣で瑞希と高沢のやり取りを聞いていた一期下の木村 恵子(きむら けいこ)が呟いた。

「何が?」
「高沢さんと一緒に飲みに行くんですよね?高沢さん、私が誘っても『木村さんには、俺なんかもったいないよって』遠回しに断ってくるんですよ?」

―――そんなこと初めて聞いた。
高沢は、誰にでも声を掛けているのだとばかり思っていたから。

「そうね、高沢が言ったこと当たってると思うわよ?恵ちゃん可愛いんだから、あいつなんかよりもっといい男いっぱいいるじゃない」

恵ちゃんは、女の瑞希から見ても可愛いと思う。
ちっちゃくてふわふわした感じ、狙ってる男もきっと多いはずだ。

「ええ?それ、本気で言ってるんですか?高沢さん、すごくかっこいいじゃないですか。同期の女の子の間でも、人気なんですよ?」

―――そうなの?あの高沢が…。
確かに面白いし、優しいと言えば優しい、顔だって…悪くはないと思う。
だけど、そんな人気があるとは初耳だった。

「川瀬さん、高沢さんと付き合ってないんですか?」
「えっ、何言ってるの?そんなわけないじゃない。私と高沢は、同期ってだけよ。それに飲みに誘うのは単に私が同じ部で酒豪だし、手近なところで手を打ってるだけよ」

―――この子は、何を言い出すのやら…。
まさか、みんなもそんなふうに思ってるんじゃないでしょうね。

「本当なんですか?ほとんどの人は、きっと付き合ってるって思ってますよ」

―――やっぱり…。
そんなんじゃ、ないのに。

「今度、みんなに言っておいてくれる?付き合ってないからって」
「わかりました。でも逆に川瀬さんには高沢さんがいるから、川瀬さんのこと諦めてる人だって多いんですからね?」

―――何それ?どこをどう間違ったら、そういう話になるのだろうか。

はぁ…瑞希は、小さく溜め息を吐いた。
高沢とは、入社した時から気が合って一緒に居ることが多かった。
だからといって恋愛感情を抱くようなそんな関係でもなくて、ただの飲み友達だと思っていたから、そんなふうに見られると正直困る。
高沢自身だって、きっとそう思っているに決まってる。
瑞希は取りあえず、定時で帰れるように仕事を終わらせることだけを考えた。



瑞希は、高沢といつもの馴染みの居酒屋に来ていた。
恋人同士なら、絶対来ないような店。
だけど、瑞希はここが好きだった。

―――もう、ここにも来ることは、ないのかな…。

そんな思いを巡らせている瑞希を高沢が、じっと見つめていたことに瑞希は気付かなかった。
取り敢えずビールを頼んで乾杯する、これもいつものパターンだ。

「川瀬とこうやって飲むの、久しぶりだな」
「そう言われてみれば、そうかもね」

高沢は重要なプロジェクトのメンバーに選ばれていたから、毎日のように夜遅くまで残業しているという話を聞いていた。
―――そう言えば、今こんなところに居ていいのだろうか?

「それより高沢、仕事よかったの?私と飲んでる場合じゃないんじゃないの?」
「いいんだよ。仕事より、大切なことなんだから」

ここでこうやって飲むことが、仕事より大切なことだと言うのだろうか?
なんだか高沢らしいと言えば高沢らしい考えだと思ったら、知らぬ間に笑いがこみ上げて来た。


「何、笑ってんだよ」

高沢が、少し怒ったように言う。

「別に〜高沢らしいなって、思っただけ」

―――こうやって高沢と飲むことも、もうないんだわ…。

何もかもが、楽しい思い出となって蘇ってくる。
高沢とこのまま離れる―――。
敢えて自分の中でこのことだけは、触れないようにしてきたことかもしれない。
今まで感じなかった切ない思いが、瑞希の心の中を駆け巡る。
お酒が入ったせいか、涙腺が少し弱くなったみたいだ。
瑞希は、それを高沢に悟られないようにぐっと胸の奥底にしまい込んだ。

「川瀬、今何を考えていた?」
「え?」

思っていることを見透かされたようで、戸惑いを隠せない。
こういう時の高沢は、鋭い。
瑞希は、そんな自分の気持ちを誤魔化すように話題を変えた。

「あぁ。そう言えば高沢って、恵ちゃんの誘いを断ってるんだって?恵ちゃん可愛いのに何で?」
「川瀬、俺の質問に答えてない」
「別に何も考えてなんかないよ。どうしてそんなこと聞くの?」

今日の高沢は、いつもと違う。
いつもは、こんなふうに聞いてきたりしない。

「お前、今にも泣きそうな顔してる。見てられないんだよ」

高沢の言葉が痛い。
高沢にだけは、こんな顔を見せてはいけなかったのに。

「何、独りで抱え込んでるんだよ。俺じゃ、力になれないのか?」
「・・・・・」
「俺は、そんなに頼りないか?」

瑞希は、どう返事を返していいかわからなかった。
だけど、瑞希が話すまで高沢は引かないつもりだろう。
そんな高沢の性格を知っているから、このまま黙っているわけにはいかないことも…。

「私ね、近いうちに会社を辞めて山梨の実家に帰ることにしたの。まだ、課長には言ってないけどね。両親との約束で、本当は大学の4年間という期限で東京に出てきたのをここまで延ばしてもらってたんだもの。昨日、母から電話があって縁談がいくつか来てるらしいから、きっとその中の誰かと結婚するのかな」

高沢は、あまりに突然だった瑞希の言葉に驚いた。

「川瀬は、それでいいのか?」
「私だって、まだここに居てやりたいこともいっぱいある、結婚相手だって自分で決めたかったけど仕方ないもの約束だから」
「なんとか、ならないのか?」
「そういう相手が居ればすぐにでも連れて来いって言われたけど、生憎そんな人もいないしね。うちの両親心配性なのよ、子離れができないっていうか。私も、もう25なのにまったく子供扱いもいいところよね」

瑞希には上に2人の兄がいるが、3人目に生まれた女の子を両親は溺愛した。
特に父の可愛がりようったら、目に余るものがあった。
だから、東京の大学に行きたいと行った時の両親の反対っぷりは異常なものだったのだ。
それを2人の兄がなんとか説得したのが大学4年間だったというわけで、それを2年も延長したのだからこれ以上は両親に心配かけるわけにもいかないし、やっぱりしょうがないことなんだと諦めるしかない。

「俺が、相手じゃダメなのか?」
「どういうこと?」

瑞希は、首を傾げて高沢の顔をじっと見つめた。

「俺が、川瀬の結婚相手になるってこと」

瑞希は、高沢の言葉の意味がすぐには理解できなかった。
高沢が、瑞希の結婚相手?!

「高沢の気持ちは嬉しいけど、そんな嘘すぐに両親にバレちゃうわよ」

瑞希は、高沢の優しさだと思った。
高沢は瑞希の両親に結婚相手だと嘘をついて、実家に帰らなくてもいいようにしようとしているのだと。

「川瀬、お前何か勘違いしてるぞ?俺は、嘘で結婚相手になろうっていうんじゃない。本気で、お前の結婚相手になると言ってるんだけど」
「悪い冗談…よし…てよ」
「俺は、本気だよ。川瀬のこと好きだから、このまま離れたくないんだ」
「え―――」
「川瀬は、俺のこと…。お前は、俺と離れても平気なのか?」

こういう質問は、ズルイ。
瑞希だって、高沢と離れるのは正直辛かった。
だけど、それが高沢の瑞希を好きだという気持ちと同じかどうかはわからなかったけど…。

「私だって、高沢と離れたくないよ。離れたくないけど、それと結婚は別でしょ?」
「川瀬は、俺のことどう思ってるんだ?」
「どうって…」

瑞希は、高沢のことを好きだと思う。
だけど、これは友達や両親を好きと同じ気持ちであって、一人の男として好きというのとは少し違う気がしていた。

「私も高沢のこと好きだけど、ごめんそういうふうに考えたことないもの」

一瞬、高沢の表情が曇ったのが瑞希にもわかった。

「俺は、川瀬のことを初めから一人の女として見てたよ。ずっと好きだった」
「えっ?」

―――高沢が、瑞希を好き?!
高沢が瑞希のことをそんなふうに見ていたとは、思いもしなかった。

「川瀬は、俺のことをそういう対象には見られないのか?」

高沢の問いに瑞希は、どう答えていいのかわからなかった。
目の前にいる男をマジマジと見てみると切れ長の目にすっと伸びた鼻筋、意外に整った顔立ちをしていて笑うと目尻に皺が出るところが可愛いなんて思ったりして…。
さっきの恵ちゃんじゃないが結構いや、実際かなりいい男なのだ。
初めからこんな関係だったし長く一緒にいたせいか、そんなふうに彼のことを見ていなかったのだと改めて思った。
でも高沢は、ずっと瑞希を一人の女として見ていたのだと言った。
落ち込んでいたり悩み事があるとさり気なく飲みに誘って愚痴を聞いてくれる。
仕事で困っている時も、自分のことは二の次で黙って手伝ってくれた。
今だって、自分と結婚してもいいとまで言ってくれているのだ。
多分、高沢以外に瑞希のことを理解している男など他にいないだろう。
でも…高沢にこのまま甘えてしまっても、いいのだろうか?
高沢の言葉を受け入れたら、自分は高沢を一人の男として愛することができるのだろうか?

「私は…」

瑞希の言葉を遮るように高沢が言う。

「どうせ、どこの奴ともわからない男と結婚するのなら俺にしておけ。俺は、次男だから姑問題もないしな。それにいい男だし、仕事もそこそこできる。かなり、お買い得だと思うぞ?」
「自分で、いい男とか言わないでよ」
「さっき、俺に見惚れてただろ?だいいち、お前の顔にそう書いてあるぞ」
「え?嘘っ」

瑞希は、慌てて頬に手を当てた。

「お前って、ほんとわかりやすいのな。まあ、そういう所も可愛いと思うし、好きなところでもあるんだけどさ」

―――どうして、こう恥ずかしくもなく言えるのかしら?聞いてるこっちが、恥ずかしいっていうのに…。

「私は、全然可愛くなんかないわよ。素直じゃないし、我侭だし、顔だって…」
「そんなの初めから、わかってるよ」

―――何よ、それ!ちょっとは、フォローしてくれてもいいじゃないの!

「悪かったわね」

瑞希はプイッと口を尖らせて、横を向いた。

「でも、俺にはそんな川瀬が全部可愛いって思えるんだ。素直じゃないところも我侭なところも何でも自分で抱え込んで無理するところも、顔だってすっごく可愛いのにそれを認めないところもさ」

―――やっぱりこの人はズルイ。
何でも自分ばっかりわかってて、そんなふうに言われて嫌だって思う人なんかいるわけないもの。

「うちの父親、私のこととなると見境がなくなるの。高沢が私と結婚したいなんて言ったら、何されるかわからないわよ?」

瑞希が笑いながら冗談のつもりでそう言うと高沢も笑いながら、でも目は真剣な表情でこう答えた。

「大丈夫だよ。俺、親の年代の人達には受けがいいらしいからさ」
「私を絶対幸せにするって、約束してくれる?」
「あぁ、絶対幸せにする。約束するよ」

高沢が、そっと瑞希の手を握る。
そして、真っ直ぐに瑞希の瞳を見つめるとはっきり言った。

「瑞希、俺と結婚しよう」

瑞希は、黙って頷くと高沢の手を強く握り返した。


※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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