会社帰りの雑踏に包まれる駅のホームで、1人の男性に呼び止められた。
振り向いて見ると年齢は自分と同じ20代半ば位で、仕立てのいいスーツに身を包んだどこかの一流企業に勤めるようなサラリーマン。
背は180cm以上あるだろうか?169cmの璃紗でさえも、見上げなければ男の顔を見ることはできない。
そして、かなりのいい男。
そう、今流行りのドラマで人気のなんとかという俳優に似ている。
が、しかし、その男の顔にまったく見覚えはない。
「…何か」
璃紗は眉間を寄せて、不審感丸出しで男性を睨み返す。
「あの…加納…加納 璃紗(かのう りさ)さんですよね?」
見知らぬ男性に自分の名前を言われてナンパとかでないことはわかったが、まだ不審感は拭えない。
「はい?そうですけど。でも、どうして私の名前を…」
どうして、この男性は自分の名前を知っているのだろうか?
尚も怪訝そうに見上げる璃紗に、心底困り果てたような顔で男性は言葉を続けた。
「俺、忘れたのか?三島だよ、三島 旭(みしま あさひ)」
三島 旭?どこかで聞いた覚えはあるが、どうしても思い出せない。
それでもわからないという顔をしている璃紗に三島旭と名乗る男は、慌てて言葉を付け足した。
「おいおい、同期の顔も忘れちゃったのかよ」
呆れ顔の三島の言ったひと言で、璃紗はやっと男のことを思い出すことができた。
「三島?嘘っ、あんた本当にあの三島なの?」
璃紗は驚きの余り大きい目を更に大きく見開いて、三島を見つめ返した。
驚いたなんてもんじゃない、璃紗の中での三島 旭の記憶はと言うと確かに背は高かったけれど、言っちゃ悪いがものすごくダサいヤツだったのだ。
それがどうだろう?目の前に居る三島は、誰が見ても滅茶苦茶カッコイイのだから。
三島と璃紗とは、3年前に今の会社に同期入社した。
2ヶ月の研修期間を経てお互い違う部署に配属され、三島は確か同じ本社でも別地区にあるビルの方に行ったはず。
あれから一度も会う機会などなく、璃紗は三島のことなどすっかり記憶の片隅に追いやっていたのだった。
「何だよ、やっと思い出してくれたのか?俺は、加納さんのことすぐにわかったのにさ」
ちょっと、ふて腐れたように三島が言う。
「だって、あまりに変わっちゃってるから、わからなかったわよ」
「何、俺カッコよくなった?」
「なったなった。びっくりするくらい」
「本当か?」って、自分に自覚はないのだろうか?
「そう言えば、加納さんは今帰り?」
「うん、そうだけど」
「だったらさ、せっかく久しぶりに会ったんだし、どこかで食事でもどう?」
「は?」
意外だった。
三島の口から、こんな言葉が出てくるとは…。
あの時の三島は、話し掛ければきちんと答えてはくれたが、自分からこんなふうに積極的に話をするような人ではなかったのだ。
まして、食事に誘うなんていうことは。
外見だけでなく、内面まで変わってしまった三島に璃紗は驚きを隠せない。
「あっ、用事でもあった?そうだよな、ごめん。俺、勝手なこと言って」
一瞬返事を躊躇した璃紗に三島は、急に誘ったことを迷惑だったのではないかと理解したようだ。
「そうじゃないよ、ちょっと意外だっただけ。どうせ暇だし、帰ってひとりでご飯食べるのもつまらないからいいよ。それより、三島はいいの?」
「何が?」
―――何がって、あたしなんかとご飯食べてる場合じゃないんじゃないの?
結婚したという話は聞いていないけれど、これだけのいい男なのだ、彼女の一人や二人いたっておかしくないだろう。
いくら同期でも、一応男と女なのだから。
「だって…」
「あぁ?大丈夫、俺フリーだからさ」
フリー?これまた意外な言葉に璃紗は驚いたが、三島はそんな璃紗のことなどお構いなしで腕を取ると駅の改札を抜けて、近くにあるという居酒屋に向かって歩き出した。
三島の連れて行ってくれたお店は、居酒屋と言ってもかなりおしゃれで女性好みの内装とインテリア。
璃紗は乗り換え駅であるこの駅ではほとんど降りることがなかったので、こういうお店があること自体知らなかった。
二人は若い女性店員に案内されて、奥のテーブルに向かい合って座る。
「加納さんは、ビールでよかった?」
璃紗が「うん」と返事をすると、『お飲み物が決まっていれば先に伺います』と言う店員に向かって、「生中2つ」と三島が答える。
店員が奥に下がると、三島がメニューを開いて璃紗に渡す。
「何でも、好きなの選んでいいから」
そして「いい?」という言葉と共に煙草の箱を璃紗に見せると、璃紗が首を縦に振ったことを合図に一本取り出してそれに火を点けた。
その姿が妙に様になっていて、璃紗はつい見惚れてしまった。
―――三島、煙草吸うようになったんだ。
璃紗の知っている三島は、煙草は吸っていなかったはずだ。
暫くして店員がビールを持って来たついでにオーダーを取り、璃紗はメニューを適当に指で示してそれを三島が店員に伝えてくれる。
「あたしばっかり頼んでるけど、三島は?」
「俺?俺は、食べたいものを加納さんが言ってくれたからいいよ」
それならいいけど…。
「取り敢えず、以上でいいですから」と三島が言うと、店員は奥の厨房に消えて行った。
「じゃあ、加納さんとの再会を祝して」
互い、ジョッキを手にグラスをカチンと合わせる。
―――あー美味しい。
やっぱり、夏に飲むビールは旨い。
そんな思いが顔に出ていたのだろうか?
「加納さんは、ビールを美味しそうに飲むよな」
「だって、美味しいもの」
即答に、三島の顔が緩む。
「加納さんは、あの頃と全然変わってないな」
変わっていない…そう璃紗は全然変わっていない、自分でもそう思うくらいだから周りもそう思って当然だろう。
でも目の前の三島は、声を掛けられなければ一生気付かないくらい変わってしまった。
それが少し寂しいと思ってしまうのは、なぜだろう?
「それって、褒められてるの?」
「俺は、褒めているつもりだけど」
しれっと言い放った三島が、まるで別人のように見えた。
「三島はあたしの知らないところで、変わっちゃったんだね」
璃紗は自分だけ時間が止まってしまっているようで、自分だけが取り残されてしまった気がして無性に寂しかった。
そんな時、ちょうど頼んでいたいくつかの料理が運ばれてきて、それをつまみながら三島が言う。
「加納さんは、俺が変わらない方がよかった?」
「そういうわけじゃないけど、なんかあたしだけ変わってなくて、取り残されたような気がして寂しいなって思ったの」
「俺は加納さんが変わってなくて、すごく嬉しかったよ。俺は、あの時の加納さんが好きだったから」
「えっ?」
璃紗が箸で掴み上げた中華風揚げ春巻きが箸からこぼれ落ちて、再び皿に戻る。
「入社式で初めて会った時のこと、覚えてるか?」
「入社式?」
「そう、俺さなんだか知らないけど入社式で新入社員の代表挨拶頼まれちゃってさ、滅茶苦茶緊張してたんだよ。あの時の俺って人前で話すのとか苦手でさ、入社試験の面接だってやっとのことで乗り越えたって言うのにな。それであの時、加納さんが俺の隣に座ってて俺が緊張してるのわかったんだろうな、名前を呼ばれて前に出る時に『頑張れ』って声を掛けてくれたんだよ。こんな俺に声を掛けてくれる人なんて今までいなかったし、加納さんすっごく可愛くてその笑顔が今は俺だけに向けられてるって思ったら急に勇気が湧いてきて、すっかり緊張してたのがどこかに飛んでいってた」
そう言えば、そんなことがあったと璃紗は懐かしく思い出していた。
あの時の三島はどこか自信がなさそうでいつも俯いている、こう言っては失礼だが根暗な感じの青年だった。
たまたま入社式で席が隣になって、社長の挨拶や来賓関係者の挨拶の間中ずっとぶつぶつ言っているのが耳に入り変なやつだなと思ったのが、実は新入社員の挨拶で話す言葉を練習していたのだとわかったのは三島 旭と名前を呼ばれて立ち上がった時だったのだ。
璃紗は自分でもわからないが、その時咄嗟に三島に向かって頑張れって言葉を掛けていた。
特に意図はなかったのだが、璃紗はお節介だと自分でもわかっていても、どうしても黙って見ていられなくて三島に限らず声を掛けてしまうのだ。
璃紗にとっては自分が声を掛けたことよりも、無事挨拶が終わって戻って来た三島が、璃紗に向かって『ありがとう』と言った時の笑顔の方が強く印象に残っていたように思う。
この人はこんな笑顔もできるのだと、三島の印象が少し変わった瞬間だった。
「あたしは、別に何もしてないよ」
「それでも俺は、嬉しかったんだ。俺ってすごく暗い人間に思われてて、まあ誰でもあの時の俺を見ればそう思うだろうけどさ。自分でもそういうところは変えたいって思ってはいたけど、どうしていいかわからなかったんだ。でも加納さんはあの後も俺には普通に接してくれてたし、他の同期の女の子なんてあからさまに俺を避けてたっていうのにな」
三島の言う通り、一般的に外見で人を判断してしまう場合が多いから、あの時の彼に自ら声を掛けるような女性はまずいなかった。
でも、璃紗は外見で人を判断するようなことはしたくなかったのだ。
璃紗には、今でもあまり思い出したくない苦い経験がある。
今の璃紗からは想像もつかないことだけれど、中学の頃までとても太っていて、そのことで心無い罵声を浴びせられたことも数え切れないほどあった。
自分は何もしていない、誰にも迷惑を掛けていないのになぜこんなことを言われなければならないのか…。
何度も何度も問い掛けては、自分を責めたのだ。
そんな時に璃紗を変えてくれたのは、心優しい友人の存在だった。
その子は、そんな自分に対しても分け隔てなく接してくれて、璃紗に自信を持たせてくれた。
自分に対する自信のなさが相手に伝わって卑屈になる、それが悪循環となってまた自分に戻ってくる。
璃紗はその友人の助けもあって自分を変えようと努力して、痩せたことがきっかけで自信を持てるようになったし、どんな相手に対しても優しくなることができた。
今はその友人に対して、言葉では言い尽くせないほどの感謝をしている。
「三島は頭もいいし、優しいし、いつだって相手のことを考えてたじゃない。ただちょっと自分に自信がなかっただけでしょう?あたしはどんなにカッコイイ人でも、自分勝手で人のことを考えないようなやつは嫌いだもの」
「俺は、そういう加納さんが好きだったよ。だから、研修が終わってお互い違う部署に配属されて離れ離れになっても加納さんに似合う男になってやろうって、自分を変えてみようって思ったんだ。そうしたら自分に自信が出てきて、加納さんの言う通り相手の見方も変わってきたよ。今までだったら絶対声を掛けてこないような可愛い女の子も、何もしなくても向こうから俺の方に来るようになった。でもそれってやっぱり外見でしか俺のこと見てないんだなって、これでよかったのかって正直迷う部分もあったけどな」
そう言い終ると三島は、残っていたビールを一気に飲み干した。
三島が変わった理由が、璃紗に似合う男になろうと努力した結果だとは思いもしなかった。
正直、嬉しい話ではあるけれど…。
「過去形なんだ」
「え?」
璃紗の言ったひと言に、三島が驚いた様子で見つめている。
「今、好きだったって」
「あ…」
「あたしはあの時の三島も好きだったけど、今目の前にいる三島も同じように好きだけどな」
璃紗も残っていたビールを空にすると、通りかかった男性店員に生中を2つ追加する。
「そりゃあ、外見カッコ悪いよりカッコイイ方がいいんじゃない?中身が、今までの三島と変わってなければね」
笑いながら言った璃紗の顔が、三島にはとても眩しかった。
やっぱり璃紗には、敵わない。
そして、今も彼女のことが好きなのだと。
+++
「俺さ、璃紗を見掛けたのは、駅で声を掛けた時が初めてじゃなかったんだ」
「そうなの?」
あの日駅でばったり出会って、お互いの気持ちを知った旭と璃紗は、3年の月日を埋めるように週末はこうやって彼の家で過ごしベットを共にしていた。
「2ヶ月前に此処に越してから、何度か駅で璃紗を見掛けたんだ。すごく遠くに居たんだけどすぐにわかったよ。相変わらず、いや3年前よりずっと綺麗になったなって思った」
旭はベットにうつ伏せの格好で、肘を付いて上半身だけ起こすと、サイドテーブルに置いてあった煙草に火を点けた。
「どうして、すぐに声を掛けてくれなかったの?」
璃紗は、旭の方に身体を向けると、彼の程よく引き締まった腕に自分の手を上下に這わせる。
一瞬、ピクッと旭の筋肉が収縮したのがわかった。
「なんか璃紗がすごく眩しくてさ、なかなか声を掛けられなかったんだよ」
旭はふーっと煙草の煙を吐き出すと、少し恥ずかしそうにちらりと璃紗の方を見てそう言った。
今の旭は外見は落ち着いていて、自信たっぷりに見えるのに内面は昔と同じ恥ずかしがり屋で臆病で。
そんな旭が璃紗にはとても愛しい存在に思えた。
「なのにあの時だってやっとのことで声を掛けたっていうのにお前ったら俺のこと全然わからないしさ、何この人って感じですごい顔で睨むんだもんな。俺、すげえ凹んだよ」
「だって、旭がこんないい男になってるって思わなかったんだから、絶対変な人だって思ったんだもんしょうがないじゃない」
璃紗は起き上がると、少し拗ねている旭の首に腕を絡めて自分の胸に引き寄せた。
「ちょっと待って煙草っ」旭は、急いで持っていた煙草を灰皿に押し付けると再び璃紗の胸に顔を埋める。
「夢みたいだよ」
「え?」
「璃紗とこうして居ることが、夢みたい。まだ信じられないんだ」
璃紗は、旭の柔らかい髪に自分の指を絡めながら撫でていく。
「あたしね、配属先が決まって旭と離れ離れになるって思った時、すごく寂しかった。なのに旭ったら全然そんなふうでもないし、あたしのことなんて何とも思ってなかったんだなって」
「それは違う。あの時の俺には言葉に出して言う自信がなかったから… 、璃紗に拒絶されるのが何よりも怖かったんだ」
「逃げてたんだ」と璃紗の言葉を遮るように顔を起こした旭が、キスできそうな位の至近距離で言った。
「俺は初めて璃紗に会った時から、もう璃紗に捕らえられてたよ。ずっと璃紗のことが好きだった、そして今も」
旭は、璃紗の頬に手を添えると羽が触れるようなキスをひとつ落とす。
「…旭」
触れるようなキスから今度は啄ばむようにそして段々と深くなっていくキスに、璃紗の口から甘美の声が洩れる。
「璃紗、好きだよ。愛してる」
「あたしも、旭のこと愛してる」
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