麻宮 あゆり(あさみや あゆり)は、昔の資料を参考にしようと誰も居ない倉庫でひとり探し物をしていた。
ここは、古くなった資料で普段は不必要だけど、廃棄するまでいかないものが保管されている場所。
窓もなく薄暗い部屋で、真ん中に小さな机がひとつ置いてあるだけの殺風景な場所。
なんとなく、かび臭い臭いがする。
どこに何があるのかわからないくらい、雑然と積み上げられたファイルは探す前から意欲を無くさせた。
―――まったく、いくらいらないって言ったって、もう少し整理しておいてもいいんじゃないの?
ふうっとあゆりは溜め息を吐くと、仕方なく近くにあるものから順に見ていくことにした。
どれくらいそこで、資料を探していたのだろうか?
ガチャ…。
扉が開き誰かが入って来たようだ、しかし足音は聞こえるが姿は見えない。
こんなところに来る人間はまれだが、自分と同じように何か探しに来たのだろうと特に気にもせず、あゆりは資料探しに没頭していた。
すると背後に気配を感じ振り向くとそこに居たのは、同じグループの佐伯 凌駕(さえき りょうが)だった。
凌駕は去年入社してあゆりと同じグループに配属になって以来、ずっと一緒に仕事をしていたが、どうもあゆりは彼が苦手だった。
凌駕は甘いマスクに長身でまるでモデルのようにいい男だったからそんな彼は社内でも一躍有名人になり、初めの頃は関係ない部署からも彼を目当てに女子社員が見に来たりして、同じグループというだけであゆりは彼のことについて色々聞かれることも多かった。
彼は容姿だけでなく、新人ということをまったく感じさせないくらい仕事もなんなくこなす、誰にでも優しい笑顔を振り撒き正に完璧という言葉がぴったりな男だと思った。
そんな彼だったが、あゆりにはそれが本心ではないように思えてならなかったのだ。
たまに見せるどこか冷めたような視線、何を考えているのかさっぱりわからない、あゆりの中での彼に対する感想だった。
元々、あゆり自身あまりいい男とかそういうたぐいのものに興味がなかったこともあって、凌駕とは仕事以外それも最小限度の会話以外することはなかった。
「何?佐伯君も探し物?」
あゆりはそんな思いを彼に悟られないように薄い笑みを浮かべながら、至って平然と言葉を発した。
「ちょっと麻宮さんに話があって」
「私に?」
話とは一体、なんだろうか?
あゆりは持っていた資料を机の上に置くと怪訝な顔で凌駕を見つめ返した。
相変わらずクールで何を考えているのかわからない。
「麻宮さん、俺のこと嫌いですよね?」
「はぁ?」
この男はいきなり何を言い出すのか?あゆりは半ば呆れ気味で返事を返す。
好きか嫌いかと聞かれれば嫌いの部類に入るかもしれないが、面と向かって嫌いですよね?と言われてもハイそうですとは答えられないだろう。
「どうして、そう思うの?」
あゆりは、あからさまに凌駕を拒絶していたわけではない。
だから、周りから見ればよほど勘の鋭い人間でなければ、気がつかないはずだった。
「俺は、そんなに鈍くないですからね」
凌駕がふっと息を吐くと視線をあゆりから壁へ移動させる。
「嫌いというのは少し語弊があるわね。それよりは、むしろ苦手という言葉の方が合っていると思う。でも、そんなこと佐伯君にはあまり関係ないことじゃないかしら?」
あゆりは休めていた手を再び動かしながら彼に視線を合わせることなく、資料探しを再開させた。
「俺にとっては、重要なことなんですけどね」
凌駕はジリジリとあゆりの方に歩みを進め、彼女の腕を掴むとそのまま壁に身体ごと押し当てた。
「ちょっ、なっ何するのっ!」
いきなりの凌駕の行動に、あゆりは目を見開いて抗議した。
なんとかして掴まれている腕を解こうと力を加えるが、彼の力の方がはるかに上回ってそれを受け付けない。
「こんなことして、いいと思ってるの?大声出すわよっ」
あゆりは、彼を見上げると思いっきり睨み付けた。
「声を出しても、誰も来ませんよ」
ここは、オフィスの中でも最も端に位置する場所にある。
周りには、人気のない空いたフロアがあるだけ…。
「どうして、こんなことするの?」
―――私が佐伯君のことを苦手なのが、気に入らないっていうの?
「俺が、どんな気持ちで毎日あなたと一緒に居るかわかりますか?」
「それは、どういう…」
切なそうな顔であゆりのことを見つめる凌駕の気持ちがわからない。
不意に凌駕の顔が近づいたと思った時には、あゆりの唇は凌駕のそれによって塞がれていた。
あゆりは何が起こっているのかわからず、ただ目を見開いたままだった。
「うっ、やっやめてっ」
全身の力を込めて彼を押しのけようと試みるが、彼の腕を掴む力は益々強くなってそれも叶わない。
あゆりの足の間に凌駕の足が割って入っているため、身動きがとれなかった。
凌駕の段々深くなるくちづけにあゆりの全身の力は抜け、そのせいか唇が少し開きかけているところにすかさず彼の舌が侵入してくる。
あゆりは不覚にも、黙って彼の行為を受け入れるしかなかった。
そんなあゆりの頬をいつしか冷たいものが流れているのを本人よりも先に凌駕の方が気付き、やっと唇を離した。
「…酷い…酷いよ…どうしてこんな…こと…」
あゆりはただ無性に腹が立って、凌駕の胸を押し返すと勢いよく部屋を飛び出した。
近くのトイレに駆け込むが、運良くこのフロアには人が居ないため誰にも会わずに済んだ。
勢いよく水道の蛇口をひねると顔を何度か水で濡らし、鏡に映る自分を見ながら冷静になればなるほど彼の行為が許せなかった。
だけどその反面、彼の切なそうな顔と『俺が、どんな気持ちで毎日あなたと一緒に居るかわかりますか?』という言葉が頭をよぎる。
なぜあんなことを…。
このままずっとここに居るわけにもいかず、あゆりは気を取り直して職場に戻ったが、そこには凌駕の姿はなかった。
―――資料どうしよう?なんか、行きにくいな…。
そんなことを考えていると程なくして昼休みになったため、あゆりは同僚の萌子達と社員食堂へ向かった。
食事中もさっきの出来事が頭から離れず、気が付くと箸が止まっていることに食欲がないと皆に心配させていたようだったけど、さすがにこればかりは話すわけにはいかず曖昧に笑って誤魔化すよりほかなかった。
午後の始業時間ぎりぎりに席に戻ると、机の上にはさっき探していた資料が載っていた。
きっとあの後、凌駕が探して持って来てくれたのだろう。
ふと彼の席の方に目を向けると、真剣にパソコンの画面に向かっているところだった。
礼を言うべきなのだろうけど、普通に何もなかったかのように声を掛ける自信が今のあゆりにはない。
かといって、無視し続けるのも大人気ないという気もする…。
迷っているところへ、後ろの席の山瀬があゆりに声を掛けた。
「麻宮さん、その資料、佐伯が持って来たみたいですよ。なあ、佐伯」
山瀬に名前を呼ばれて振り向いた凌駕と目が合った。
「あっ、はい…」
「そう、わざわざありがとう」
あゆりは微笑を返したが、少し引きつっていたかもしれない。
すぐに視線を凌駕から逸らすと席に着く、しかし思わぬ山瀬の一言でこの場を切り抜けることができた。
山瀬は普段からおせっかいの度が過ぎるのだが、時には役に立つこともあるのだとあゆりは思った。
+++
あゆりは、凌駕の意図が掴めないままに日々を過ごしていた。
あの日から彼の様子がおかしいことはあゆりも気付いていたのだけど、見て見ぬ振りをしていた。
そんな時、普段は大人しい主任の木村が珍しく声を上げた。
皆の視線が、一気に二人に向かう。
「佐伯どうした、お前らしくもない。こんなミス、高校生でもしないだろう」
「すみません」
「なんか悩み事でもあるなら聞いてやるから、ひとりで溜め込むなよ。お前がおかしいとこっちも困るからな、頼りにしてるんだからしっかりしろ」
「本当にすみませんでした」
木村に肩を叩かれ凌駕はふーっとため息を吐くと、自分の犯したミスを挽回すべく仕事に集中した。
「佐伯君がミスするなんて珍しいわね。なんか、あったのかしら?」
今のやり取りを見ていた萌子が、あゆりのところへ来て囁いた。
彼のおかしな原因は少なからずあゆりに関係することなのだとは思うが、だからといってどうすることもできないのが本音である。
あゆりはただ、苦笑を返すしかなかった。
その後は何事もなく、定時を少し過ぎた頃に凌駕の元へ別の部署に所属している坂詰 忍(さかつめしのぶ)が訪れた。
彼は、うちの部と関わりがあるためよくここに現れる。
あゆりも忍とは、顔見知りだった。
忍は、凌駕と同期で社内でも人気を二分するいい男だ。
「木村主任。今日は、こいつを借りてもいいですか?」
「忍、何言ってるんだよ」
忍の言葉に凌駕が反論する。
「あぁ、いいぞ。これ以上やっても、今日の佐伯じゃあどうしようもないだろうからな。その代わり、明日には元に戻して返してくれよ。こいつがこんなだと仕事にならないんだよ」
木村が早く帰れと言わんばかりに手で合図している。
彼は30を少し過ぎたところだが、外見はそれよりも若く見えるだろうか?
仕事には厳しいが相手のことを誰よりもわかっていてちょっとした変化も見逃さない、そういうところが部下からはもちろん上司からも好感を持たれて信頼も厚い。
あゆりは入社以来ずっと木村の下で働いているが、何度もそういう面で心配をかけては助けられていた。
言葉は厳しいが、木村の顔は笑っていた。
「わかりました。任せてください」
「じゃあ、お言葉に甘えてお先に失礼します」
木村の気遣いに、この時ばかりは凌駕も素直に従った。
小さい声でそう言うと、凌駕は忍と共に早々に会社を後にした。
◇
凌駕と忍は、会社の近くにある居酒屋に来ていた。
いつものようにビールのジョッキで乾杯すると、単刀直入に忍は本題に入った。
「お前、何そんなに悩んでるんだよ」
真っ直ぐに見つめる忍の顔を、凌駕はまともに見ることができなかった。
忍とは高校・大学と同じ学校だったが、何の因果か就職した会社まで同じだった。
言葉に出さなくても気持ちがわかってしまうくらい、お互い知り尽くす関係だったのだ。
それでもなかなか話そうとしない凌駕に、痺れを切らした忍が思いもかけない言葉を口にした。
「お前がおかしい原因は、麻宮さんなんだろう?」
「えっ?」
凌駕があゆりのことを忍に話したことはなかった。
なのにどうして忍は知っているのだろうか?
「隠したって無駄だ。お前のことは手に取るようにわかるんだよ。で、どうしたんだ?告って振られたのか?まあ、お前のことだから、強引にことを運んだんだろうけどな」
忍が半分ほど残っていたビールを一気に飲み干した。
凌駕は、何も言えなかった。
というか、返す言葉が見つからなかったのだ。
まるであの場面を見られていたのではないかと思ってしまうくらい、忍の言葉は当たっていたのだから。
「なんだ、図星か」
忍はビールを追加すると、煙草を一本取り出して火を点ける。
「今日のお前は、だんまりか」
ふぅーっと煙を吐き出すと、忍は言葉を続けた。
「お前はいつもそうだよな、ひとりで突っ走って苦しんで。俺はなんなんだよ。お前の友達じゃないのか?そう思ってるのは、俺だけなのか?」
忍の気持ちは、痛いほど伝わってくる。
こんな自分を親身になって心配してくれるのは、こいつしかいないのだとも。
観念したように、凌駕はあの日のことを少しずつ話し始めた。
はっきり言って自分の行動には呆れている部分も多く、あまり話したくはなかったのだが…。
全てを話し終えると、予想したように忍のため息が聞こえてきた。
「まったくお前らしいと言うか、これはもう馬鹿としか言いようがないな」
「馬鹿とはなんだよ」
全てを話せと言うから話しただけなのに、馬鹿呼ばわりされて凌駕も黙ってはいられなかった。
「馬鹿だから、馬鹿と言ったんだ。だいたいな、そんなことして相手がお前のことを一層嫌いになったとしても好きになるわけないだろうに、頭のいいお前なら考えなくてもわかるだろう?」
忍の言っていることは、最もだと凌駕も思う。
だけど、あゆりの前では冷静な判断ができなくなってしまうのだからどうしようもない。
「しょうがないだろう?俺だってどうしてあんなことしたのか、未だにわかんないんだから」
凌駕は、既に温くなっているビールを一気に空にすると忍を睨み返す。
後悔しても遅いことはわかっている。
だからこそ、立ち直れない自分がいることも…。
「お前がこんなに取り乱したの初めて見たよ。本気なんだな麻宮さんのこと。本気だからどうしていいかわからないんだ」
本気…。
知らず知らずのうちにあゆりが凌駕の中を支配していた。
それに気付いたのは、つい最近のことだった。
今までの凌駕は女なんて自分の外見しか見ていない、皆同じだと思っていたから、本気で好きになることなどあり得なかった。
だが、あゆりはそんな誰とも違うタイプだった。
会って早々に凌駕を毛嫌いし、避けた。
好きになられることはあっても嫌われることなど今まで一度もなかった凌駕にとってこれはものすごいカルチャーショックだったのだ。
人間嫌われるとなんとかして好きにならせたいと思う、そんな軽い気持ちからあゆりに近づくようになったけれど、彼女は一向に自分を受け入れる気配はなかった。
それが、あの日の行動に駆り立てた要因だったと今になってみればそう思える。
初めは安易な考えから彼女に近づいたけれど、意識して彼女を見るようになると相手の見えないところでさり気なく気遣うところとか、自分を毛嫌いし避けているにも関わらずやはり困っている時には助けてくれるのだ。
それが上辺だけの優しさでないことを凌駕自身わかっていただけに、もしかして本気で自分のことを嫌ってはいないのではないか、何か他にあるのではないかそう思えてならなかった。
「もうダメだな。ただでさえ嫌われていたのに…決定的だよな」
「なんだよ、お前らしくもない。まだ、ダメだって決まったわけじゃないだろう?」
いつになく弱気な凌駕に、渇を入れるように忍は言う。
「お前はまだ自分の気持ちを伝えてないんだから、それをきちんと彼女に言ってそれでフラれたら潔く諦めろ。何もしていないうちから諦めるなよ」
「忍…」
「まぁ、今夜は思いっきり飲もうや。そうだ、木村主任と約束したんだから、明日までには、今まで通りのお前に戻ってくれないと困るからな。そうでないと俺が文句を言われる」
冗談とも本気とも取れる言い方で、忍は笑った。
忍が本気で好きになった女の話は凌駕も聞いたことはなかったが、こいつが本気になったらどうなるんだろう?
自分に言ったように冷静に行動できるのか、一度見てみたいものだと凌駕は思った。
忍にも木村にも心配をかけた、それ以上にあゆりにも。
これから先は自分でなんとかしなければいけないのだと、凌駕は心に誓ったのだった。
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