◇
次の日、会社に出社すると今までと変わらぬ凌駕の姿があった。
忍が何をしたのかはわからなかったが、きっと凌駕の心を解きほぐしたのだろう。
あゆりは、なぜか凌駕が元に戻ってくれたことが嬉しかった。
木村も元気になった凌駕を見て、安堵していた。
「麻宮さん」
あゆりはその日のお昼に社員食堂から戻る途中、銀行のCD機に寄って行くからと言って萌子達と別れると忍に声を掛けられた。
「あ、坂詰君」
いつも一緒にいる凌駕の姿は見えなかったから、先に職場に戻ったのだろう。
「ちょっとお話があるんですが、今晩いいですか?」
話?忍があゆりになんの話があると言うのだろうか?
あゆりの怪訝そうな顔を見て、忍が言葉を付け足した。
「すみません。急にこんなことを言ったら、誰だって警戒しますよね。ただ、どうしても麻宮さんに聞いてもらいたいことがあるんです。今ここで理由を言ったら、多分聞いてくれないでしょうから」
「もしかして…佐伯君のこと?」
一瞬、忍の目が見開かれたが、その後黙って頷いた。
その真剣な眼差しにあゆりは断るすべもなく、OKの返事を返していた。
あゆりは定時で仕事を終わらせると、忍と待ち合わせていた場所に向かった。
彼は社内でも目立つ存在なので、あまり人目のつかない駅の裏にある小さな喫茶店。
店の扉を開けると、奥の席には既に来ていた忍の姿があった。
入って来たあゆりを見つけると小さく手を上げる。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「いえ、ぴったりですよ」
忍は時計を見ながら、軽く微笑んでそう言った。
すぐに店員がオーダーを取りに来たので、あゆりと忍はコーヒーを頼む。
「すみません、わざわざ呼び出したりして」
『いいですか?』と一言断って、彼は煙草に火を付けた。
「で、話って何?」
「麻宮さんはあいつのこと、許せないですか?」
「えっ?」
「あんなことしたんですから、当然ですよね」
「どこまで知ってるの?」
「多分、全部だと思います。でも、これは俺がなかなか話そうとしないあいつから無理矢理聞きだしたことですから、それだけは信じてください」
忍が言葉を言い終わると同時に店員がコーヒーを運んで来た。
暫く無言の状態が続く、彼はブラックのまま、あゆりはクリームを少し入れた状態でお互いひとくち口にした。
「どんな理由があったにせよ、佐伯君のことは許せないわね」
「そうでしょうね。俺があなただったとしても、同じだと思いますから」
忍は間を置くと会話を続ける。
「だからこそ俺はあいつのために弁解したいんです。あいつはあんなだから完璧に見えるけど、本当はそうじゃないんです。不器用で好きな相手にも優しくできないし、本当の自分もさらけ出せない」
「坂詰君は、何を言いたいの?」
「あいつは、あなたのことを本気で想っています。今まで本気で人を好きになったことがないから、実際にそうなった時にどうしていいかわからないんですよ」
「そんなはず…」
―――佐伯君が、私を好き?そんなこと信じられるわけがないじゃない。
ずっと、苦手で避けてきたのに…。
「信じられないのもわかります。でも、これは本当のことです。麻宮さんは、あいつのこと好きにはなれませんか?」
あの時、凌駕に『俺のこと、嫌いですよね』と聞かれて、嫌いと言うより苦手だと答えたのを思い出す。
あゆりは凌駕のことを嫌いなわけではなく、完璧さゆえにたまに見せるどこか冷めたような視線、何を考えているのかさっぱりわからない自分を隠しているようなところが苦手だったのだ。
忍がここまで凌駕のことを思っていることや、さっき彼が言っていた本当の自分もさらけ出せないという言葉を当てはめると凌駕の本当の姿が見えてくるのかもしれない。
「麻宮さんに、無理にあいつを好きになってくれとは言いません。ただ、あいつの気持ちだけでも聞いてやってくれませんか?」
『お願いします』そう言って忍は、頭を下げた。
ここまで思ってくれる友人がいる凌駕が、心底羨ましいと感じた。
「佐伯君は、いい友達をもったわね」
あゆりのその言葉を忍が肯定と取ったか否定と取ったかはわからないが、あゆりはそれ以上は何も言わなかった。
多分、肯定と取ったであろう忍は笑みを浮かべていた。
◇
『お前はまだ自分の気持ちを伝えてないんだから、それをきちんと彼女に言ってそれでフラれたら潔く諦めろ。何もしていないうちから諦めるなよ』、凌駕は忍に言われた言葉を思い出していた。
言葉にしなければ、伝えなければ気持ちは通じない。
わかっているけれど、あゆりに声を掛けるタイミングを凌駕は計りかねていた。
前のように怯えさせてしまっては意味がない。
かと言って、まともに誘っても果たして話を聞いてもらえるだろうか?
悶々とした気持ちの中で、凌駕は時を過ごしていた。
同じようにあゆりもまた、『無理にあいつを好きになってくれとは言いません。ただあいつの気持ちだけでも聞いてやってくれませんか?』という忍の言葉を思い出していた。
あれから何日か過ぎていたが、凌駕が何か言ってくるような気配はない。
ふと机の上を見ると、倉庫から持って来てあった資料をまだ戻していなかったことに気がついた。
あゆりはある決意を持って、佐伯に声を掛けた。
「佐伯君、ちょっといい?」
一番声を掛けて欲しかった、でもそれはもう叶わないかもしれないと思っていた相手に不意に声を掛けられた凌駕はあゆりと視線が絡まったまま、まるで金縛りにでもあったように動くことができなかった。
「佐伯君、聞いてる?」
あゆりの二度目の問い掛けにやっと凌駕が反応した。
「はい」
「忙しいところ、ごめんね。これ返しに行こうと思うんだけど、重いから半分持ってくれる?」
あゆりは例の資料を胸元の位置まで掲げると凌駕に見せた。
「それなら俺が…」
『後で返しておきます』という言葉を続けようとして、途中で止めた。
「わかりました」
なぜ、あゆりがあえて凌駕に声を掛けたのかはわからなかったが、これが最後のチャンスになるかもしれないのだから。
あゆりと凌駕は資料を抱えて倉庫に来ていた。
相変わらず周りには人気はなく、薄暗い室内はかび臭い。
「これどこにあったか覚えてる?また使うかもしれないから、わかるようにしておきたいんだけど」
今までになく普通に話しかけてくるあゆりに、凌駕は正直戸惑いを隠せないでいた。
「そうですね。これはここにあったんですけど、わかりにくいですからどこか別の所に移した方がいいかもしれませんね」
あゆりは適当な場所を見つけると、そこに資料をまとめて置くことにした。
他にも関連しそうな資料があったので、ついでに整理したらだいぶ時間が経ってしまった。
「ふぅー、やっと終わったわね。まったく、もう少しこんなの整理したらいいのにって思うわよね」
ちらりと凌駕の方を見ると、彼も同じ意見だったらしく首を何度か縦に振っていた。
「あの…」
部屋を出ようとしていたあゆりに凌駕が何か言いた気に声を発したが、それから先が続かない。
「何?」
振り返ったあゆりは、数歩戻って凌駕の方へ近寄った。
「この間は、あんなことをしてすみませんでした」
凌駕が、深々と頭を下げた。
「本当だったら絶対許せない行為だけど、もう二度としないって誓うなら今回だけは許してあげる」
「はい、もう二度としません。すみませんでした」
もう一度、凌駕は頭を下げた。
いつになく素直な彼の姿を見て、気のせいか今までのワダカマリがどこかへ消えたように感じた。
それに少し可愛いかも、なんて思ったりして…。
「もういいわよ。気にしないで」
凌駕がなかなか顔を上げようとしないので、あゆりは彼の肩に手を置くと彼はゆっくりと顔を上げた。
「俺、麻宮さんが好きです。今更こんなこと言っても遅いかもしれないですけど、俺の気持ちだけはわかっていて欲しいんです」
「佐伯君…」
正直、今のあゆりには凌駕に対してどう対処していいかわかりかねていた。
あゆりが避けていたにも関わらず、こうやって好きだと言う彼の気持ちは嬉しいとさえ思えるけれど…。
「なんで、私なんかが好きなの?」
これは、忍に凌駕が自分を好きだと言われた時から思っていた疑問だった。
あゆりは凌駕よりも4歳も年上で、特に可も無く不可も無くという至って平凡などこにでもいるような女だと自分では思っていたし、凌駕ほどの男ならいくらでもいい子を見つけられそうなものなのに。
「俺を初めて嫌った女性っていうのもありますが、それだけじゃありません。自分のことをそっちのけで人の心配ばかりしているところとか、俺のこと避けてるわりに助けてくれましたよね。それに年上だけど可愛いところとか、数え上げたらきりが無い」
「それって、褒められてるの?」
聞いていると、あゆりを凌駕が好きな理由が益々理解できないような気がするが…。
「俺にとっては、最高の褒め言葉なんですけどね」
「なんか、納得できないわね」
あゆりは、口を尖らせて抗議した。
「あっ」
凌駕の肩に乗せていた手を離した瞬間、彼に腕を捕まれてバランスを崩したあゆりは、彼の腕の中にすっぽりと納まった。
「俺のこと、嫌いなら突き飛ばせばいい。でも、少しでも好きって思ってくれるならこのまま…、暫くの間このままでいさせてください」
耳元で囁くように言うその声に、あゆりの心臓は大きく跳ねた。
凌駕は言葉通り、強くもなく弱くもない力であゆりのことを抱きしめていた。
少し力を入れて突き放せば、彼の腕の中から出ることは容易だろう。
でも、なぜだかあゆりにはそうすることができなかった。
実際は、そうしたくなかったという方が正しいかもしれない。
彼の腕の中は誰よりも心地よくて、ずっとこのままの時間が続けばいいとさえ思わせた。
どれくらいの時間が、過ぎたのだろうか?
「キスしてもいいですか?」
凌駕の真っ直ぐにあゆりのことを見つめる、心の底まで射抜くような視線から目を逸らすことができなかった。
あゆりは何も言わずに瞼を閉じると凌駕はそれを肯定と受け取ったのだろう。
彼の唇が、ゆっくりとあゆりの唇と重なった。
何度も何度も角度を変えて、あの時の強引なものとは違うとても優しいキスにあゆりの全身は溶けてしまいそうで、凌駕に腰を支えられていなかったらすぐにでも崩れ落ちてしまいそうだった。
お互いの唇が離れても、暫くの間は視線を逸らすことができずに見詰め合ったままだった。
「俺のキス、そんなに良かったですか?」
「なっ」
あゆりは恥ずかしさのあまり慌てて凌駕から身体を離そうとしたが、それはあっけなく彼によって阻まれた。
「あなたは俺を拒まなかった。もう離す気はありませんから、そのつもりで」
意地悪気に微笑む凌駕の顔が視界に入る。
なんだか、遊ばれているようでちょっと悔しい。
「知らないわよっ」
「可愛いなあ、赤くなったりして」
―――もう何なのよ!人のこと馬鹿にして。悔しいったらありゃしない。
あゆりは、凌駕を睨みつける。
「そんな怖い顔しないでくださいよ。せっかくの可愛い顔が台無しですよ」
「ちょっとさっきから、可愛い可愛いって言わないでよ」
『だって、可愛いんだからしょうがないでしょ?』っておでこにチュッってキスされた。
――― 一体、何なんだか…。
あゆりはまだ、凌駕には好きだともなんとも言っていないのだ。
なのにこれではまるで想いが通じた恋人同士のようではないか?
それに凌駕のキャラが違ってるように思うのは気のせいだろうか?
「それより佐伯君、席に戻ろう?ね?」
あゆりはこの場をなんとかしたくて、話題を別の方に向けようとする。
「凌駕です」
「え?」
「佐伯君じゃなくて、凌駕って呼んでください」
「そっ、そんなのここで言えるわけないでしょ?」
―――まったく何を言い出すのよ、この子は…。
「言ってくれなきゃ、このままずっとこうしていますか?俺としては、それはそれで嬉しいんですけどね」
凌駕のあゆりを抱く腕が一瞬強まった気がした。
この男のことだから、言う事をきかなければ本気でこのままここでこうしていなければならないだろう。
「わかったわよ、言えばいいんでしょ?言えば」
「人間、素直が一番ですからね」
まったく、この男はさっきからあゆりの感に障るようなことばかり言っている。
「凌駕?」
「う〜ん、なぜそこで疑問符なのかがちょっと気になりますけど、まあこれ以上苛めてお姫様のご機嫌を損ねるのも悪いので今回は許してあげましょう。これから先は長いですから、いくらでも呼んでもらえますしね」
―――いちいちムカつくことばっかり、もう絶対に呼んでなんてやらないんだから。
あゆりは、心の中で叫ぶ。
なんで、こんな性格の悪い男に捕らわれてしまったのか?
凌駕に聞こえないように小さく溜め息を吐いた。
「さあ、行きましょうか?あゆりさん」
「ちょっとっ、名前でなんて呼ばないでよ。誰かに聞かれたらどうするの?」
「その時はその時で、いいじゃないですか?」
「あなたは良くても、私はよくないのよ!」
「凌駕ですよ。今度名前で呼んでくれなかったら、ペナルティとしてキス3回ですからね」
言い終わるか終わらないうちに、唇に軽く触れるようにキスされていた。
――― 先が思いやられる…。
二人は何事も無かったように職場に戻ったが、時折凌駕と視線が合うとにっこりと微笑まれてしまい、その度にさっきのキスを思い出してドキドキするあゆりだった。
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