「おい、柏木、起きろよ」
柏木 綾乃は誰かに自分の名前を耳元で囁かれた後に何度か身体を揺すられて、薄っすらと瞼を開ける。
焦点が定まらない視界に黒い人影が映る。
「うぅ〜ん、もうちょっと寝かせてよ」
それでもまだ完全には働いていない脳がもう一度眠りへと引き戻されて瞼を閉じようとした時、再び耳元で囁かれた。
「柏木、起きろって」
その声にハっとして、跳ねるように起き上がると自分の顔を覗き込む1人の男がいた。
見覚えのある鼻筋の通った端正な顔立ちにいつもはメガネを掛けているそのはっきりとした二重瞼の瞳はよく見ると男にしては睫毛が長い。
―――大辻。
その男の名は、大辻 裕樹。
同じ会社に勤める同期社員だった。
でも、どうしてここに大辻が?
意識がはっきりすると次から次へと疑問が沸いてきて、一気に彼に問い詰める。
「ここ何処?なんで大辻が居るの?」
「お前、覚えていないのか?」
『しょうがねえなあ』ってネクタイを締めながら呆れた様子で聞いてくる。
―――覚えていないのかって言われても、覚えていないものはしょうがないじゃない。
「悪いけど説明は後でするから、俺、今から会社なんだよ。まったく休みの日まで人を働かせるなってんだよな。でも、昼過ぎには帰って来るから」
「・・・・・・」
「あっ、シャワー使うなら玄関の脇だから、タオルはそこら辺にあるの適当に使っていいからな。あと冷蔵庫になんか入ってると思うから勝手に食べていいぞ」
―――ちょっと待ってよ。何がなんだか、さっぱりわからないんだけど。
「鍵はここに置いておくから、それとお前その格好さっきから俺を誘ってるのか?そんなの見せられたら会社に行けないだろうが」
え?言われて見ると見事に何も身につけていない素っ裸の自分がいるわけで…。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁーーー」
慌ててシーツで隠したけどもう遅い。
―――もうやだ…。
穴があったら入りたいくらい恥ずかしい。
その場に突っ伏しているとベットの端が沈んだかと思ったら、不意に背後から肩を抱き寄せられた。
「柏木、顔見せて」
そっと顔を上げると大辻の顔が目の前にあって、一瞬ドキッとした。
―――大辻って、こんな優しい顔するんだ。
「ごめんな。すぐ帰ってくるから、大人しく待ってるんだぞ」
額に熱いものが触れる。
それが大辻の唇だということに気づいたのは、彼が立ち上がって部屋を出て行った後だった。
―――もうなんなのよ…。
一人になってベットに仰向けに横たわるとそっと瞼を閉じる。
昨晩は久しぶりに同期で飲もうということになって、行きつけの居酒屋にみんなで行ったことまでは覚えているが、はっきり言ってその後のことはよく覚えていない。
メンバーの中に大辻はいたけど席も離れていたし、飲んでいる最中は会話もしなかったと思う。
記憶はないけど、間違いなく身体はそれを覚えていた。
彼はあの容姿から社内でも知らないものはいない。
女関係もそれなりに派手だということも噂に聞いている。
そんな男がなぜ自分に手を出したのかもまったくもって理解不能である。
魔が差したとしか言いようがない。
なぜこんなことになってしまったのか…。
いくら考えても答えなど出てくるはずがなかった。
すぐに思考を現実に戻すと、さっきの大辻の言葉が頭をよぎる。
このままここで待っていろと言われても、大辻が帰ってきたらどういう顔をすればいいのだろう?
かと言って鍵を預かってしまった以上ここを出るわけにもいかないし、大体ここがどこなのかもわからないのだから自分の家に帰ることもできない。
普通こういうことは、なかったことにしたいはずじゃないの?
それに今のキスはなんだったのか…。
―――はぁ…。
大きく溜め息をつくと、ベットから起き上がってシャワーを浴びるためにバスルームへ向かった。
◇
シャワーを浴びてソファーに腰掛けると、今日はやはり同じ会社の同期で一番仲がいい千津と映画を観た後、ショッピングをする約束をしていたのを思い出した。
―――マズイ、電話しなきゃ。
バッグから携帯を取り出すと千津に電話を掛ける。
スリーコール目で千津の明るい声が聞こえてくる。
『もしもし〜』
「あっ、千津?あたし、綾乃だけど」
『うん、どうしたの?』
「ごめん、今日行けなくなっちゃった」
『え〜』
千津の落胆の声が聞こえてくる。
「ほんとごめんね。ちょっと急用ができちゃって、この埋め合わせは必ずするから」
『そっか、じゃあ夕食一回で許してあげる。それより、昨日はちゃんと帰れたの?』
「え?うっうん、でもどうして?」
『だってさ、綾乃珍しく酔ってたみたいだし、送っていったのがあの大辻でしょ?お持ち帰りされたんじゃないか心配だったのよ』
「そっ、そんなわけないじゃない。大辻があたしなんかをお持ち帰りするわけないわよ。千津、変なこと言わないでくれる?」
図星だっただけにうまく誤魔化せたかどうか少し不安だった。
『そうなの?あたしはてっきり、そうだと思ってたのに。だって、昨日の大辻いつもと全然違うからびっくりしたわよ。帰りに坂本が酔って綾乃をホテルに誘ったの覚えてる?まぁ、綾乃も調子に乗って行く行く〜とか言ってて、みんな冗談だってわかってたから放っておいたんだけど、そしたら大辻がすごい怒って俺が送るからって綾乃のことさっさと連れて行っちゃうんだもん。かわいそうに坂本も大辻が相手じゃあ敵わないしね』
―――あの大辻が、怒った?信じられない。
いつだって冷静沈着なあの男がそれもあたしのことで怒るなんて、まったくもって考えられないこと。
黙ったまま何も言わない綾乃に、千津が突然変なことを言い出した。
『綾乃、急用なんて言って実は今も大辻の家に居るんじゃないの?』
「ちっ違うって、そんな訳ないでしょ?千津、考え過ぎだって」
ゲっ、どうして千津はこう鋭いんだろう?まるで、近くで見ているようだわ。
『まぁ、いいわ。大辻とのことは、今度ゆっくり聞かせてもらうから。用事あるんでしょ?長話してる場合じゃないわよね』
「千津、ごめんね」
『いいって、じゃあ切るね』
「うん」
千津が電話を切った少し後に自分も電話を切った。
千津に嘘をつくのは正直後ろめたいけど、さすがに今回のことは言えないわよね。
―――はぁ…。
また、大きく溜め息を吐くとソファーにゴロンと横になった。
大辻の部屋を落ち着いて辺りを見回すと、1人暮らしにしてはやけに広いリビングだった。
そう言えば、バスルームにはジャグジーなんかも付いていた気がする。
うちの会社の給料なんて高が知れているし、大辻って実はお金持ちのお坊ちゃんだったりするのだろうか?
入社して3年一緒にいるけど、そんな話も聞いたことがなかったと今更ながら彼のことを何も知らなかったのだと思った。
そんなことを考えていると、なんだかお腹が空いたなと冷蔵庫を開ける。
案外食材なんかも入っていたし(あいつのことだから、ビールしか入っていないと思っていたけど…)、調理器具もそこそこ揃っているようだ。
大辻はお昼過ぎには戻ってくると言っていたし、何か作ってあげるかぁ。
と言っても、たいしたものはできないから、冷凍ものを使って綾乃特製炊き込みピラフ。
暫くして、部屋の中にいい匂いが漂い始めた頃、玄関のブザーが鳴った。
ドアホンを取ると、大辻の声。
『柏木、俺』
「うん、ちょっと待って今開けるから」
綾乃は、結構長い廊下を走るようにして玄関まで行くとドアを開けた。
「ただいま」
「おっ、お帰り」
いきなり『ただいま』なんて言われて、一瞬なんと返していいかわからなかった。
だって、この状況はどう考えても彼氏と彼女、または夫婦って感じだものね。
「なんか、すげぇいい匂い」
「えっ?あっ、ちょうどお昼を作ったから」
「マジ?俺、腹ペコなんだよ」
目を輝かせて部屋の奥へ入って行く大辻、綾乃は慌てて彼の後を追ってキッチンへ向かった。
彼が部屋で着替えている間にピラフと一緒に作っておいた、オニオンスープをテーブルに用意した。
「うわっ、マジ美味そう。いただきま〜す」
余程お腹が空いていたのか、大辻は椅子に座るや否やピラフに手をつけた。
味に自信はあったけれど、あまり他人には作ったことがないのでやはり反応が気になった。
ましてや、相手が大辻となれば尚更で…。
「どう?」
「美味い!お世辞抜きで美味い。柏木って、見掛けによらず料理が上手いんだな」
見掛けによらずっていうのは余計だけど、美味しいって言ってもらえるのはやっぱり嬉しいと思う。
「見掛けは、余計よ」
綾乃の言葉に『あはは』って笑う大辻が、今までの彼とはまるで違う雰囲気。
―――この人、こんなふうに笑ったりするのね。
思わず見惚れてしまう自分に気付き、慌てて誤魔化すようにあたしはピラフにスプーンをつけた。
食事をしている間も大辻は、笑みを絶やさずにあたしに話し掛けてきた。
それで、すっかり忘れてかけていた昨日の晩のこと。
聞きたいけれど、きっと大辻だって一夜の過ちとしてなかったことにしたいに決まってる。
「せっかくの休みなのに邪魔してごめんね。あたし帰るね」
これ以上大辻の側にいるのはなんとなく気まずくて、綾乃は食器を片付けるとバッグを持って部屋を出ようとした。
「なんだよ、もう帰るのか?」
大辻の投げかけた一言に綾乃は足を止めた。
―――もう帰るのかって言われても、あたしがここにいる理由の方がいくら考えたって思いつかないっていうのに…。
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