「中央商事の社員旅行の件、今回は河村さんにお願いしようと思うんだけど、どうかな?」
月曜日の朝出社すると恒例の業務ミーティーングで、広中課長におもむろに話を切り出された。
中央商事の社員旅行とは、年1回行われる会社行事だったが大規模に行われることで有名だった。
長い間うちの会社が依頼を受けていたのだが、それがまさか自分のところに回って来るとは思ってもみない。
河村 麻耶(かわむら まや)は大手旅行会社ジャパン・トラベル団体旅行課に勤めて7年目のOLで、最近チーフになったばかりだった。
特に仕事に生きる女を目指していたわけではなかったけれど、なぜか知らぬ間にチーフになっていたのだ。
―――しかし、新米チーフの私にこんな大役が務まるのだろうか?
中央商事と言えば誰もが知っている一流企業であり、大口のお得意様だけに失敗は許されない。
そんな会社の社員旅行をこの私が、担当するなんて…。
「あの―――」
「というか、もう部長や本部長にもOKはもらってるんでね。事後報告だから、できませんとかそういうのはナシだよ」
麻耶の言葉を遮るように広中課長は、そう言って微笑んだ。
課長は、確か40を過ぎたばかりだと聞いている。
高校生になる2児の父親とは思えない若々しい外見と共に温厚な人柄と優しい物腰で、社内では非常に人気が高い。
麻耶自身も1年前に課長の下に異動とわかった時は、すごく喜んだものだ。
仕事もできて家庭も大事にする、こんな人の奥様はきっと素敵な人なのだろうといつも女子社員の間では話題になっていた。
「いえ、でも…私には…」
「大丈夫、河村さんならできるよ。僕もついてるし、皆も協力するから」
そう言われて断ることなどできるはずがなく…麻耶は、不安を抱えながらも「はい、頑張ります」と答えざるを得なかった。
+++
中央商事の社員旅行の担当に決まってから初めての打ち合わせの日、顔合わせだからと広中課長も同行していたが、ものすごく緊張している麻耶を他所に一緒に来ていた入社3年目の渡瀬は妙に浮かれているようだ。
「渡瀬君、とても楽しそうね。なんかいいことでもあった?」
「はい。だって、憧れの河村チーフと一緒に仕事ができるんですよ?これを嬉しいと言わずになんと言えばいいんでしょう」
―――憧れの…って、ねぇ。
そういうこと、マジに言わないで欲しいわね。
渡瀬とは彼が入社以来ずっと同じ課だったけれど、今回初めて組んで仕事をすることになった。
長身で今時のイケメンってやつだろうか?それと同時に口もうまくて、若い子達はみんなそれに騙されてしまう。
これは内緒だが、学生時代から付き合っているゾッコンの彼女がいるらしい。
「おいおい、渡瀬。今日は遊びに来てるんじゃないんだぞ。いくら美人の河村さんが一緒だからって、そこは履き違えないでくれよな」
課長もあまりフォローになってないような気がするのは、気のせいだろうか?
―――大体、私のどこが美人だっていうのよね。
二人の会話でさっきまでの緊張は少し落ち着いていたけれど、別の意味で頭が痛いなと思った。
◇
受付で名前を告げるとすぐに若い女性が出迎えて、麻耶達を会議室に案内してくれた。
出されたコーヒーを飲みながら暫く待っているとドアをノックする音が聞こえ、数人の担当者が入って来た。
一人目は、この企画の責任者だろうか?少し白髪の混じった優しそうな紳士、そしてその後ろにいたのは…。
―――え…。
思わず声を出しそうになったのを寸でのところで押さえて麻耶は、席を立った。
―――まさか、奏がここの会社にいたなんて…。
目の前にいる彼の名は手塚 奏(てづか そう)、小中と同じ学校に通っていて家も近所ないわゆる幼馴染だった。
色々あって中学以来一度も顔を合わせることはなかったが、あの時と変わらないガッシリとした体格に整った顔立ちは、年齢を重ねてより一層彼の魅力を引き出しているように見える。
すぐにこの企画の責任者である総務部長代理の野田という初めに入って来た白髪交じりの紳士が自己紹介し、一緒にいた奏ともう1人渡瀬と同じくらいの年齢の矢田という若い女性を紹介した。
一瞬、奏と目が合ったような気がしたが、彼はまったく麻耶のことに気付いていない様子。
10年以上月日が経てば女は変わるもの、奏が知っている麻耶と今ここにいる麻耶とではかなり違っているはずだ。
そしてうちの広中課長が麻耶と渡瀬を紹介し、名刺交換をする。
フルネームを見られてしまえば気付かれるかもしれないが、今となってはどうしようもないわけで…。
仕事の重圧もさることながら、できれば一生会わずに済ませたかった人物にこんなところで会ってしまうとは…人生どこでどうなるかわからないものだなと世間の狭さと運命を感じずにはいられない。
野田総務部長代理との名刺交換の後、奏が麻耶の前に来た。
「河村さんが、担当をされるそうですね。色々大変だと思いますが、よろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ不慣れな部分もあると思いますが、よろしくお願いします」
彼はまったく気付いていないのかあまりに普通に挨拶されて、なんだか拍子抜けという感じだった。
その方がこちらとしても楽だし、できればこの旅行が終わるまで気付かないでいて欲しい。
そう願いながら日程や行き先などを話し合って、無事に会議は終了した。
+++
社員旅行を受け持つ旅行会社の担当の名前を見て、彼女のことを思い出さずにはいられなかった。
名字だけなのにその名を見るだけで反応してしまう自分が、もう29になるというのに未練タラタラだなと苦笑するしかない。
想い人の彼女の名は、河村 麻耶。
実家の近所に住んでいて、小中と同じ学校に通った幼馴染だった。
誰もが目を引くような本当に可愛い子だったし、明るくて何事にも一生懸命で、でも本当はすごく恥ずかしがりやで、そんな自分を隠すようにわざと強がって見せて。
―――俺は、そんな彼女が大好きだった。
だから、いつまでも一緒にいられると思っていたのに…。
◇
初めての顔合わせの日、奏はいつになくそわそわとしていた。
河村という名の女性が、麻耶とは何の関係もないはずなのになぜか気になって仕方がなかったのだ。
会議の始まる時刻である14時近くなるとそれは一層強まって、何度も時計を見てしまう。
そんな時に内線電話が鳴った。
「手塚さん、受付にジャパン・トラベルの方が見えているそうなんですが」
「・・・・・・」
斜め前の席に座っていた女性が電話に出たが、一点を見つめたまま反応のない奏に再び名前を呼ぶ。
「手塚さん?」
「あ…何?」
「どうしたんですか?ボーっとして。それより今、受付にジャパン・トラベルの方が見えているそうなんですけど、どうしますか?」
「ごめん。すぐ迎えに行くからと、それと矢田さんに会議室に案内するように言ってくれる?」
「わかりました」
奏は資料を手に持つと責任者の野田総務部長代理と共に会議室へと向かった。
会議室のドアを開けて中に入ると待っていた旅行会社の担当者が立ち上がる。
すると中央の女性に目がいった。
『麻耶―――』
思わずそう叫びそうになるのをやっとの思いで堪えたが、彼女も少しだけ反応したように思ったのは気のせいだろうか?
あの時の可愛らしさとは打って変わって美しくなった彼女だったが、目の前にいるのは確かに麻耶に間違いなかった。
まさか、こんなところで彼女に会えるとは…。
この14年間、ずっと忘れたことなどなかった。
会いたくて会いたくて仕方がなかった彼女が、今目の前にいる…。
そう思っただけで、奏は会議の内容などまったく頭に入っていなかった。
◇
「手塚さん、これ河村さんが忘れていったみたいなんですけど」
会議が終わって職場に戻ると片づけを終えて後から戻って来た矢田が手に持っていたのは、オレンジ色の革の小さなシステム手帳だった。
それは、麻耶のもの…。
この色のせいもあって、奏もしっかりと覚えていた。
「まだ追いつくかもしれないから、俺が渡してくるよ」
奏は手帳を受け取るとエレベーターなど待っていられず、10階から一気に階段を下りて麻耶の後を追い掛けた。
一方麻耶はというと会議が無事終わってホッとした気持ちで中央商事を後にしたが、ふと会議室に手帳を忘れたことに気がついた。
「すみません、課長。私、忘れ物をしたようで取りに戻りますから、先に会社に戻っていてくれますか?」
―――私としたことが、何やってんのよね。
麻耶は、踵を返すともう一度中央商事に向かって歩き出した。
「麻耶っ」
懐かしい声と共に向こうから走って来る奏の姿が、目に飛び込んで来た。
片手には、オレンジ色の手帳を振りかざしている。
―――やっぱり、彼は私のことわかっていたのね…。
『奏―――』
「良かった」
手帳を麻耶の方に差し出しながらも、もう片方の手は膝について呼吸を荒げているが、わざわざ追いかけて会社から走って来たのだろうか?
「ありがとうございます。わざわざ届けてくれたんですか?」
なぜか、敬語で話してしまう。
そんな麻耶を少し寂しげに見つめる奏。
――― 一応顧客なわけだし、いくら幼馴染とはいってももう10年以上も会っていないのだから…。
「相変わらず麻耶は、おっちょこちょいだよな」
それでも奏はめげずにあの時と変わらぬ態度で、麻耶に話し掛ける。
奏の言うように麻耶はしっかりしている反面、どこか抜けているところがあって、よくこんなふうに言われていたのだ。
「29にもなるってのにどうせ、おっちょこいですよ」
ついそれに釣られて、麻耶までいつもの口調で返してしまった。
「おっ、やっと俺が知ってる麻耶に戻ったな」
嬉しそうに微笑む奏に麻耶まで、嬉しくなってくる。
―――でも、もう仲の良かった頃の奏と私じゃない。
だって奏は私のことなんか本当はうざったいだけだったんだもの…無理に優しく接していてくれただけ…。
それを私は本当の優しさだって、勘違いしていただけなんだから。
「すみません。私のために手間を掛けさせてしまって」
もう一度「ありがとうございました」と礼を言って去ろうとしたのだが、奏の声によってそれを遮られた。
「麻耶、待って。ゆっくり話がしたいんだ。今夜、空いてないか?」
―――奏は、ただ幼馴染の私に会えたことが懐かしいだけなんだと思う。
私だってそんなふうに思えたら…こんなに苦しい思いをしないで済んだはずなのに…。
「ごめんなさい。今日は、仕事が立て込んでますので」
「じゃあ、いつなら空いてる?」
これから当分の間、奏とは仕事でも関わらなければならないのにこれ以上関わってしまったら…。
もう、あの時みたいな辛い思いはしたくなかった。
「ごめんなさい」
「麻耶っ、明日の7時にS駅で待ってる。来るまで、ずっと待ってるから」
背後から奏の声が聞こえたが、麻耶はそれには答えずに足早にその場を後にした。
+++
中学3年のある時まで、私達は永遠に一緒にいられるって信じていた。
それが崩れたのは、あの出来事があってからだった。
奏と私はいつも一緒に学校に行っていたし、帰りはお互い部活や委員会がない時は一緒に帰るという、とにかくいつも一緒だった。
それが当たり前だったし、周りも認めていたから別段不思議なことでもなかったんだけど。
そんなある日、私はたまたまクラスの女の子達の話している会話を聞いてしまって…。
「手塚君と河村さんって、付き合ってるのかな?」
「二人とも仲いいもんね」
「でもさ、手塚君優しいから、河村さんのこと嫌って言えないだけなんじゃないの?」
「そうかも」
『手塚君優しいから、河村さんのこと嫌って言えないだけなんじゃないの?』
この言葉が、何度も何度も私の頭の中でリフレインする。
私は、奏の優さに甘えていただけなのかもしれない…。
考え始めると今までの奏に対しての行動全てが、実は奏にとっては迷惑なことだったんじゃないかと思えるようになって、今までのようには接することができなくなっていた。
ちょうど高校受験を控えてそれどころではなくなっていたというのを理由にして、奏を避けた。
奏は勉強も良くできたから地元で一番の公立高校を狙っていて、私もなんとか彼に追いついて同じ高校に行こうと約束していたけれど、黙って大学まである私立の女子校に変更した。
それを結果が出てから知った奏は、同じ学校に通えないことをひどく残念がっていたのを今でも覚えている。
傷心の思いで通う女子校なんてと思っていたが、これが思いの外楽しい世界で、すっかり奏のことなど頭から薄れていった。
そのまま併設の女子大まで進んだけれど、奏は都内の国立大学にストレートで入ったとママから聞かされた。
自宅からの通学は少し不便だったから、奏は大学入学と共に家を出ていた。
そして私も大学までは自宅通学していたけれど、奏と同じ理由で就職と同時に家を出た。
それから何人かの男性とも付き合ったが、どこかで奏と比べていたのかもしれない。
だから皆、長続きしなかった。
それでもいいって思う自分がいて、いつか本気で付き合うっていうことを忘れてしまっていたのかもしれない。
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