時刻は午後8時を少し回ったところ、今年入社して配属になったばかりの新人歓迎会の真っ最中。
木野内 澪(きのうち みお)は少しハイペースで飲み過ぎたようで、酔いを醒ますためにひとり隅の方で壁に寄り掛かって座っていた。
「木野内さん、気分でも悪いんですか?」
声のする方を見上げると心配そうな顔で少し屈むような格好で立っているのは、まさに今日の主役である新人の宮本 真矢(みやもと しんや)だった。
「あぁ、宮本君。ううん、そうじゃないの。ただちょっと飲み過ぎたみたいだから酔いを醒ましてるところ」
「そうですか?ならいいんですけど」
真矢はそれを聞いて安心したのか、ゆっくりと澪の隣に腰を下ろした。
「宮本君は、飲んでる?」
「もういっぱい飲んでますよ。っていうか、皆さんに飲まされて参っちゃいましたけどね」
学生時代のノリと社会人のノリでは、大分差があるのだろう。
彼の表情から、少々疲れた様子が伺える。
「それよりいいの?こんなところに居て。主役は、みんなのところに戻った方がいいんじゃないの?」
「それはちょっと… 。俺も酒は強い方なんですけど、さすがにあれにはついていけないですから」
苦笑しながらちらりと背後を振り返りながら、真矢は小さい声でそう言った。
―――だからここに逃げてきたというわけね。
確かにうちのグループの飲み会は、他の飲み会とはわけが違う。
とにかく酒豪揃いだから、つぶれるまで飲まされてしまうのだ。
それが新人となれば尚更だろう。
「でも新人なんだから諦めて洗礼を受けなきゃダメよ」
「そんなっ、勘弁してくださいよ」
本気で嫌だったのだろう。
真矢があまりに情けない顔でそう言うので、澪はなんだかかわいそうになってしまった。
でもそれが可愛いなんて思ってしまうのは、自分が彼よりも5歳も年上だからだろうか?
気が付くとひとり肩を震わせて笑っていた。
「木野内さんっ。そんな笑わなくてもいいじゃないですか」
「だっ、だってっ。宮本君、なんか可愛いんだもの」
「可愛いって… 」
真矢はその甘いマスクのせいか、男っぽいというよりどちらかと言えば、可愛い感じなのだ。
きっと、年下よりも年上の女の子にモテるのではないだろうか?
「言われない?可愛いって」
「まぁ… 」
―――やっぱり言われているのね。
「今は可愛い男の方がいいのよ。マッチョな男なんて、流行らないんだから」
「そうなんですか?」
「そうよ」
「じゃあ、木野内さんもマッチョより可愛い男の方が好きなんですか?」
さっきとは打って変わって、真矢の顔は真剣そのものだ。
そんな真矢に真顔で聞かれて、一瞬なんと答えていいものやら…澪は、躊躇ってしまった。
「そうねえ。どちらかと言えばマッチョよりは、可愛い方がいいかな?」
「本当ですか?」
「まあね」
「よかった〜」
真矢が、心底嬉しそうにそう言った。
何がそんなに嬉しいのか、澪にはさっぱり理解できなかったけれど…。
「実は俺、結構気にしてたんですよね。皆から可愛いって言われてて、それに木野内さん会社のデスクに写真飾ってるじゃないですか。あの俳優、男っぽくてかっこいいタイプだから俺みたいのはダメなのかなって思って」
真矢が言う澪のデスクに飾っている写真というのは、最近人気の俳優の写真だった。
あれは別に澪が好きなのではなくて、同じ部で仲のいい理沙が好きだというのでなぜか澪のデスクにまで飾られていただけ。
「あ〜あれね。あれは私が好きなんじゃなくて、理沙が好きなのよ。 えっと理沙っていうのは、金沢 理沙のことね。それで、私のデスクにまで置いていっただけなの」
「そうなんですか?てっきり木野内さんが好きなんだと思ってました」
「違う違う。私、ああいうのダメだもの」
澪は特に可愛いタイプが好きって言うほどでもなかったが、がっしりした男っぽい人だけはどうも苦手だった。
すると真矢は崩していた足をきちんと揃えて澪の横で正座をすると、低い声で澪の名前を呼んだ。
「木野内さん」
「はい?」
壁に寄り掛かって立てひざをついていた澪も、釣られて真矢の前に正座をする。
「俺と付き合って下さい」
「はぁ?」
一瞬、思考回路が停止した。
今まで聞こえていた周りの声も何もかも、全ての音がなくなってしまったかのように静かだ。
「木野内さんに初めて会った時から好きになりました。俺と付き合って下さい」
続けた彼の言葉に段々と止まっていた回路が動き出し、ふっと我に帰ると目の前に手を着いて頭を下げている真矢がいた。
「ちょっと、何?悪い冗談やめてよ。宮本君、からかってるの?」
澪は、慌てて彼の肩を持って上を向かせた。
「俺、からかってなんていません」
「じゃあ、酔ってるの?」
「全然酔ってないって言ったら嘘になりますけけど、理性を失うほどには酔っていないつもりです」
さっきまでの可愛い彼は、どこかに行ってしまったようだった。
真剣な眼差しで見つめられると何も言えなくなってしまう。
まさか、こんなところで告白されるとは思ってもみなかった。
それも会ってまだ一週間と経っていない人間に好きだと言われても…。
「ごめん」
澪は、わけもなく謝っていた。
「それは、どういう… 」
真矢のブラウンの瞳が、僅かに揺れた。
「えっ?あぁ、宮本君のこと嫌いとかそういうんじゃないの。ただ、びっくりしちゃって。ほら、私達まだお互いのこと何も知らないし、いきなり付き合うとかそういうのは…。それに宮本、私の歳知ってる?今年28歳になるのよ?5歳も年上の女なんて、魅力ないでしょ?」
はっきり断っても良かったのだけど、彼はあまりはっきり言うと落ち込んでしまいそうだったから適当に誤魔化す意味も込めて曖昧な返事を返してしまった。
「歳のこと気になりますか?俺にとっては全然関係ありません。好きな人がたまたま俺より5歳年上だっただけのことですから。でも、俺のこと嫌いじゃないんですよね?だったら、友達以上ってことでどうですか?俺のことを木野内さんに知ってもらいたいし、俺も木野内さんのことをもっと知りたい」
年下だということを抜きにすれば、彼は悪くないと思う。
背も高いし、結構、いやかなりいい男の部類に入るだろう。
それに顔立ちから連想するようにとても人懐っこくて、おまけに素直だ。
今は澪には特定の彼もいなかったし、友達以上ということは、それ以上の関係にならなかったとしてもいいわけで…。
澪は、暫く考えた後にこう言った。
「まぁ、そういうことなら」
「やった!」
真矢の顔が、また元の可愛い顔に戻った。
満面の笑みで小さくガッツポーズをとっている真矢が、本当に可愛いと思う。
「おい、宮本。何が『やった!』なんだ?」
後ろから、不思議そうな顔をした中田さんがやって来た。
「いえ、何でもありませんよ」
真矢がしれっと言うと―――。
「大体、なんだお前ら二人して向かい合って正座なんぞして、見合いじゃないんだから」
確かにこんなところで向かい合って正座している男女を見れば、見合いしているように見えなくもないだろう
けど…。
澪と真矢はお互いを見て、急に可笑しさが込み上げてきて大声で笑い合った。
それを見ていた田中さんだけは、わけがわからないという様子だったけど。
こうして澪と真矢は、友達以上の関係になったのだった。
+++
あの日から澪と真矢に特に変わったことはなかった。
しいて言えば携帯の番号とメールアドレスを交換し、毎晩決まって11時なると澪の携帯が鳴るようになったことだろうか。
特別な会話があるわけでもなく、ただその日会社であったことなどを話すだけなのだけど。
真矢はマメというか律儀というか、やはり真面目な性格なのだろうと思う。
そんな彼がやっぱり可愛いと思うし、それを心待ちにしていることをまだ澪は認めたくなかった。
「もしもし、真矢?」
『澪さん?今、話しても大丈夫ですか?』
「うん。大丈夫」
もう毎日のことだからいちいち確認しなくてもいいと澪は思うのだけど、真矢は決まってこう聞いてくる。
さっき言い忘れたけどもう1つ、二人の時はお互い名前を呼ぶようになったのだった。
澪は敬語もいいと言ったのだけど、それは正式に恋人になれたらやめるからと彼は譲らなかった。
『澪さん。今度の土曜日、空いてますか?』
「土曜日?」
特に予定もなかったけれど、即答するのもなんだから一応間を取ってみたりして。
「何も予定は入れてないけど、なんかあるの?」
『遊園地に行きましょう』
「遊園地?」
なんとまたベタな場所に行こうと言うのだろうか。
まぁ、真矢らしいと言えばそうなのだろうけど… 。
しかし、この歳で遊園地もないと思う…のだが。
『そう、遊園地です』
「他の人、誘ったら?」
即答で断った澪にすがるように真矢が言う。
『澪さ〜ん。そんなこと言わないで行きましょうよ。ねっ?』
この男は知っててこういう言い方をしているのだと最初は思っていたが、これがそうではなく天然ゆえに始末に負えないから厄介だ。
普通の男だったら『なんだこいつ、男の癖にぶりやがって』とか思うのだろうけど、真矢が言うと全部可愛くって嫌と言えなくなってしまうのだ。
おまけに断ろうものなら、ものすごく沈んでしまう。
「わかったわよ。行けばいいんでしょ?行けば」
『そんな、投げやりな言い方しないで下さいよ。澪さんは、遊園地嫌いですか?』
「嫌いじゃないけど…」
『けど?あっ、もしかして絶叫マシーンが怖いとか?』
「・・・・・」
―――うっ、どうしてわかったのだろう?
『図星ですか?』
「そっ、そんなわけっ…ないじゃない!」
思わず、声が裏返ってしまった。
電話の向こうで、真矢のクスクスと笑う声が聞こえる。
『ちょっと、真矢!何笑ってるのよ!』
「だって、澪さんったらすごくわかりやすいから」
『そんなこと言うなら行かないからっ』
「あっ、ごめんなさい。そういうつもりじゃ… 澪さん?」
真矢の顔は見えないけれど、慌てふためく姿が手に取るようにわかる。
こういう言い方をすると真矢は弱いのを澪は知っていて、わざと言ってしまう。
「反省してる?」
『してます』
「じゃあ、行ってもいいわよ」
『やった!』
こんなことではしゃぐ真矢が、澪は羨ましいとさえ思ってしまう。
『じゃあ、詳しい時間は後でまた決めましょう』
「うん、わかったわ。また明日ね」
『はい。澪さん、おやすみなさい』
「おやすみ」
言い終わるとすぐに電話を切った。
澪が先に電話を切らないと真矢はいつまで経っても電話を切ろうとしない。
初めて電話で話した時がそうだったのだ。
澪は相手が電話を切ってから自分が切るようにしていたので、真矢がいつまで経っても切らないのを不信に思って尋ねたら、澪が切るのを待っていたという返事が返ってきた。
それ以来、澪は真矢からの電話だけは先に切るようにしていたのだった。
―――それにしても何で遊園地なのかしら?
初めて真矢と二人で出掛ける場所が遊園地と言うのはどうも微妙だったが、お弁当でも作って行こうかなどと結構楽しみにしている澪なのだった。
+++
約束の土曜日は、見事に快晴の朝だった。
澪は真矢が車で迎えに来ると言っていた時間より2時間早く起きて、お弁当を作っていた。
これを言うとみんなに意外だという顔をされるのだが、結構料理を作るのは得意なのだ。
たらこと鮭のおにぎりと真矢の好きな鶏のから揚げ、出汁巻き卵に野菜の煮物など和風のメニューをいくつか作ってタッパーに詰めた。
なんだか、遠足に行くような気分になってくる。
ようやく準備もできてそろそろ時間だなと思い時計に目を向けると、テーブルの上に置いていた携帯が鳴った。
「もしもし、真矢?」
『澪さん、おはようございます』
「おはよう」
『今、下に着きましたから、準備できたら出てきて下さい』
「うん。準備OKよ。すぐ出るわね」
そう言って電話を切ると、お弁当の入ったトートバックを持って部屋を出た。
外に出ると澪の姿を見てグレーのストリームから真矢が降りてきた。
「澪さん。おはようございます」
「おはよう。真矢」
「どうしたんですか?その荷物は」
澪が手に持っていた大きなバックを見て、真矢が言った。
「あぁ、これ?お弁当作ったんだけど、余計だったかしら」
「えっ?澪さんが作ったんですか?」
驚いたように真矢が目をパチクリさせている。
「そうよ、悪い?」
「いっいえ。そんな意味で言ったわけじゃないんですが… 」
「意外とか思ってるでしょ。いいのよ、本当のこと言ってくれて。そんなの慣れてるんだから」
「俺、すっごく嬉しいです。澪さんの手作りのお弁当が食べられるなんてっ」
嬉しそうに澪からバックを受け取ると、真矢は助手席のドアを開けて澪を先に車に乗せた。
真矢は後部座席にバックを載せてから自分も運転席に乗り込むと、澪がシートベルトをちゃんと着けたかどうか確認してゆっくりと車を走らせる。
そういうところも、なんだか真矢らしいと思ってしまう。
これから行く遊園地は、少し郊外にあるため時間が掛かる。
他愛もない話をしながら、車はひたすら目的地に向かって走っていた。
今日の真矢はと言うとプリント柄のシャツに随分と履き慣らしたジーンズ、インナーにTシャツというスタイル。
スーツ姿に見慣れているせいか、私服になるとついこの間まで学生だった22歳の若者なんだと改めて思い起こさせる。
普段からネクタイの趣味やワイシャツのコーディネートなどセンスがいいと澪は思っていたけど、それは今も同じだと感じた。
澪は自分がそんな真矢の隣に居てもいいのか、正直戸惑っていた。
そんな澪の気持ちを察しているのかいないのか、真矢は横目に澪をちらっと見ながら言った。
「澪さんは、休みの日はそういう感じの服装なんですか?」
「え?あぁ、いつもこんなかな」
「会社でのきりっとした澪さんもいいですけど、今日の澪さんもいいですね」
意外な言葉に澪は思わず真矢の顔を見つめた。
澪は、元来可愛いと言われる洋服が苦手だった。
だから今日もイタリアブランドの個性的なカットソーにワークパンツなんて、男っぽい服装をしていたし。
真矢は可愛い服を着ている子が好きなんじゃないか、そんなふうに思っていたので彼の言葉は正直意外だったし嬉しかった。
「あの… 澪さん?俺がいい男だっていうのはわかるんですけど、そんなに見つめられるとどうしていいか」
「えっ?あっ、ごめん」
澪はずっと真矢の顔を見つめていたのだと、慌てて視線を正面に戻した。
◇
それから暫くして、目的地の遊園地に到着した。
「澪さん。初めに何に乗りますか?」
真っ先に目に飛び込んできたのは、この遊園地一番の売りだというジェットコースターだった。
澪は、はっきり言ってこの手の乗り物は大の苦手だ。
高いところは平気なのだが、そこから急降下するというのがダメだった。
だけど、それを素直に言えないところが可愛くないのだけれど。
「あれに乗ろう」
澪が指をさした先は、苦手なはずのジェットコースター。
「澪さん、いいんですか?」
「いいのっ。行こう」
「でっ、でも。澪さん、嫌いなんじゃっ… 」
真矢の言葉など聞こうともせず、澪は彼の腕を引っ張ってジェットコースターの列に並んだ。
初めは空元気ってやつで、妙にハイになって話していた澪だったが、段々自分達の番が近づくにつれて口数が少なくなってきた。
「澪さん。本当に大丈夫ですか?無理しなくていいんですよ」
心配そうに澪の顔を覗きこんでくる真矢に悪気がないことはわかっているが、それが澪には悔しくてつい意地を張ってしまう。
「大丈夫だって」
無理に微笑んで見せたが、多分澪の顔は引きつっていたであろう。
いよいよ澪達の乗る番が来るとよりによってそこは一番前の席。
つまらないところで意地を張らなければ良かったと後悔してももう遅い。
澪は、覚悟を決めて乗り込んだ。
NEXT
BACK
INDEX
PERANENT ROOM
TOP
Copyright(c)2006-2013 Jun Asahina,All rights reserved.