「木下さん」
もえが別室でコピーを取っていると、探していたのか「ここにいたんだ」と言いながら上司でもあり彼氏でもある和也が入って来た。
例え誰もいなくても、会社では名前で呼ばないことと敬語で話すというのが二人の間での決まりごと。
これが、会社だけでなく普段でもそうだから、もえはいっつも和也にペナルティーを科せられているのだが…。
「コピーでしょうか?」
「いや、そうじゃないんだ。あのね、急なんだけど、明日から通信事業部の人が二人、1ヶ月ほどうちの部に応援に来ることになったんだ。それで、木下さんにも手伝ってもらいたいんだけど、いいかな?少し、忙しくなるかもしれないんだけどね。あと、事業部の人は当面ホテル住まいになると思うから、そういう手配も頼むよ」
そう言えば、さっき課長や和也達が集まって、工程が遅れているとかで少し離れた所にある別の事業部の人にも応援を頼んでなんとかするという話をしていたのをもえも耳にしていた。
「はい。わかりました」
「俺も忙しくなるから、休みの日もあんまり会えなくなるかもしれないけど、でも電話はするよ」
周りを確認しながら小さな声で、耳打ちするように和也は言う。
彼とは付き合い始めてまだ日が浅かったけれど、週末は一緒にいることが多かったから、会えなくなるのはちょっぴり寂しいかもしれない。
それでも、和也に心配かけないために大丈夫だと答えておく。
「私なら、大丈夫ですよ」
「もえが大丈夫でも俺がダメなの。もえの声を聞かないとね」
『今、名前で呼んだっ!』って思ったけど、こんなふうに言われて嬉しくないはずがない。
すっかり顔を赤らめたもえだったが、それがまた和也には可愛くて…。
会社でなかったらすかさずキスしているところだが、これも仕方がない。
+++
次の日の午後、早速通信事業部の人がもえ達の部に訪れた。
犬丸さんという和也と同年代の主任の男性と、花村さんというもえより少しお姉さんかなという女性の二人だったが、これまた雑誌から抜け出したのではないかと疑うほどの美男美女。
―――道理で、真理が騒いでいたわけね?
いい男には目がない真理が、いち早く犬丸さんのことを見つけてもえに教えてくれたのだ。
「はじめまして、花村 美好です。1ヶ月間、お世話になります」
「こちらこそはじめまして、木下 もえです。私はまだ入社したばかりで、あまりお役に立てないと思いますが、よろしくお願いします」
女性同士ということもあって、まず初めに挨拶を交わす。
美好は顔もさることながら、声も綺麗で思わず聞き惚れてしまったというのが、もえの第一印象だった。
「いいえ、私もそんなに仕事ができるわけじゃないのよ?なのになんだか連れて来られちゃって。まぁ、他に人がいなかったのだと思うけど」
と、ちらっと美好は自分の上司である犬丸 雄斗の方に視線を向ける。
昨日、いきなり雄斗に一緒に行って欲しいと言われて戸惑いを覚えなかったわけではない。
美好も関わっていたプロジェクトの工程がだいぶ遅れていて、それを取り戻すために本社へ行って手伝うという話はわからないでもないが、そこへなぜ自分が選ばれたのか?もっと他にも適任者がいるのに…。
どう考えても、そこに雄斗の私情が入っているとしか思えないのは、美好の気のせいだろうか?
「そんなことないと思います。芹沢主任が、すごくデキル人が来るからって言ってましたよ?」
通信事業部の人が来ると和也に聞いた時、二人ともすごくデキル人だからプロジェクトの遅れもすぐに取り戻せると言っていたからだ。
「少なくとも犬丸主任は、そうだと私も思うけど…」
もう一度、美好はちらっと雄斗に視線を向ける。
既に仕事モードに入っている雄斗と和也だったが、美好には少々荷が重かった。
◇
すぐに仕事を根詰めてやるのもなんだからとその日の夜、急遽二人を迎えて顔合わせの飲み会が行われることになった。
こういうことが好きなのは、上原課長なのだけど…。
もえはお酒が飲めなかったが、今回は和也が側にいてくれるから安心だし、他の二人のメンバーは若いけどしっかり彼女持ちだとこれも真理からの情報で知っていた。
「都会は、おしゃれなお店がたくさんあっていいわね」
場所は会社近くに最近できた和食のお店、全て個室になっていて隠れ家っぽいところに人気がある。
美好は都会から少し離れた場所に住んでいるため周りにはこういうお店が少なく、飲み会といえばいつもお決まりの座敷のある昔ながらの料理屋さん。
たまに出張で本社に来ることもあるが、大抵が日帰りだから食事をして帰る暇もなかった。
美好ともえは、二人並んで掘りごたつ式になっている席に腰をおろす。
すぐにお店の人が持ってきたビールを二人は、順にグラスに注いでいく。
「花村さんは―――」
「美好で、いいわよ?あと敬語もね。これから1ヶ月一緒に仕事をするんだから、堅苦しいのはナシ。私ももえちゃんって、呼んでいい?」
―――え?
なんだか、和也に言われているようだが…。
「あっ、はい。えっと、美好さんはこれからホテル住まいになっちゃうと、週末しか彼氏さんには会えませんね」
「えっ…」
何気なく言ったもえに、一瞬固まってしまった美好。
「まぁね?っていうか、私には彼氏さんはいるような、いないような…」
「いるような、いないような?」
美好の曖昧な返事に首を傾げるもえ。
実を言うと美好はもえとは反対側の自分のすぐ隣に座っている雄斗と付き合っているというか、いないというか…なのである。
その辺には、色々と事情があるのだが…。
とその時、タイミングよく和也が挨拶を始めた。
「それでは、私芹沢が、僭越ながら乾杯の音頭を取らせていただきます。通信事業部の犬丸主任と花村さんに加わってもらい、みなさんと共にプロジェクトの遅れを取り戻すために頑張りましょう」
「乾杯」と口々に言って、ビールのグラスをカチンと合わせる。
もえはひと口だけ口にすると、何も言わなくても和也がウーロン茶を頼んでくれた。
それを見た美好はピンときたのか、自分の話を逸らすためにもえにそれとなく聞いてみる。
「ねぇ、芹沢主任って素敵よね?」
「え?あっ、えぇ。そうですね」
ちょっとだけ動揺してしまう、もえ。
「指輪はないところを見ると独身かしら?でも、あんなに素敵なら彼女はいるわよねぇ」
「さっ、さぁ…私は、そういうことは…」
そんなもえを見て、美好はクスクスと笑っている。
―――こんなにわかりやすい子は、いないんじゃないかしら?
だけど、初心なもえちゃんじゃあ芹沢主任も大変ねぇ。
「いいわよ、もえちゃん隠さなくっても。今度、ゆっくり聞かせてもらうわね?」
もえは、美好が言った言葉の意味さえもよくわかっていない。
しかし、そういう美好の隣の犬丸主任もすごく素敵だが、やはり和也同様に手に指輪はない。
「あの、犬丸主任はどうなんですか?初めてお二人を見た時、モデルさんかと思いましたよ?素敵で。それにすっごくお似合いだから」
お酒の弱くない美好は、飲んでいたビールを思わず吹き出しそうになった。
もえは鈍感なのか鋭いのかわからないところがあって、さっきから痛いところをついてくる。
でもそこはお姉さん、こういうところは誤魔化すのが上手い。
「さぁ〜犬丸主任のことは、私にもわからないわ。そうだ、いい機会だし、聞いてみようかしら」
「え?」
もえを他所に美好は、雄斗に声を掛けようとしているところだった。
「犬丸主任。もえちゃんが、彼女はいるんですか?って」
「なっ、なんだよ急に」
さすがに雄斗も美好からこの質問を受けるとは思っていなかったので、飲んでいたビールを気管に詰まらせた。
ゲホゲホッと咳き込んでいる。
「私もそれ、聞きたかったんですよねぇ。どうなんですか?主任」
「え…」
何食わぬ顔で、美好は雄斗のグラスにビールを注ぐ。
―――なんだよ…それを俺に聞くのか?
美好は雄斗の気持ちを知っていて、わざと意地悪く言っているのだ。
それは彼女の目を見ればわかるわけで…。
「俺はいるって思ってるんだけど、彼女の方がなんでなのかそう思ってくれないんだよ。意地っ張りっていうのかさ、俺のこと本当は好きなクセに」
―――何よっ!それ。
クセにって何?クセにって!
私は別に意地なんて張ってないしっ。
「そうなんですか?主任って、随分自信家なんですねぇ。でもそう思ってるのは、主任だけだったりして」
「あっ…」
こう美好に切り返されて、さすがの雄斗も返す言葉がない。
そんな二人のやり取りを側で微笑ましく思うもえだった。
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