「マネージャー、社長がお呼びですが」
「今、手が離せないの。後にしてって言ってくれる?」
イタリアはミラノに本拠地を置く有名ブランド、ジョゼッティ社の秋冬コレクションを前に営業・企画担当のセリーニは大忙しだ。
いくら、社長が呼んでいるからといって、この場を離れるわけにはいかない。
「相変わらずだね。僕だったら、何を置いても社長のところにすっ飛んで行くのに」
セリーニの行動には、いつも驚かされてばかりいたスタッフ達。
それもそのはず、彼女の名はセリーニ・ジョゼッティ、社長であるジャン・マルコ・ジョゼッティを父に持つブランド界の帝王を築いた名門の娘なのだから。
「みんなも、父に気遣うことなんてないのよ?今、自分が何をすべきか、それが大事なんだから」
「年寄りのお小言に付き合ってなんていられないわ」とさっぱりとした物言いが、彼女のチャームポイントだろうか。
そして、何より自身がモデルになってもいいほどのスタイルと美貌の持ち主だ。
「マネージャー、社長から催促の電話が」
「はいはい、今行きますって」
―――コレクション前で一番忙しい時だっていうのに一体、何の用かしら?
セリーニは仕方なく仕事を中断させると社長室へと足を向けた。
「やっと来たか」
ノックをして中へ入ると第一声は彼女の予想通り。
「待ちくたびれたぞ」と恰幅のいい紳士はいつもの厳しい表情から一変して、娘には甘い顔を見せた。
「何の用?忙しいんだけど」
「まぁ、そう言うな」
父にしてみれば、家を出ている娘とはたまにオフィスで会う程度、滅多に話す機会もなかった。
年頃の娘が彼氏も作らず仕事一筋というのは、何よりも心配の種だったのだ。
「今夜なんだが、久し振りに食事でもどうかと思ってな。お母さんもセリーニに会いたがってる」
「ママは、元気にしてる?」
「あぁ、早く孫の顔が見たいってな」
「そんな話なら、行かないわよ?」
親の気持ちはわからないでもないが、セリーニは結婚を考えていない。
まだというより、今後もと言った方がいいかもしれないが、一生を一人の男性のために尽くすのは嫌だったから。
若くして家庭に入った母を決して軽蔑しているわけではなく、父とは幸せだと思うし、歩む道は人それぞれ、自分には向かないと思っているだけ。
「セリーニ」
「わかったわよ。じゃあ、今夜ね」
父娘の対面は時間にしてわずか数分、やれやれと溜息を吐く父を他所に慌しく会話を完結させるとセリーニは自分の持ち場に戻って行った。
◇
『約束の時間に30分も遅れちゃった』
待ち合わせたのは、5つ★ホテル内にある高級レストラン。
「みなさま、既にお揃いですよ」とボーイに案内されて奥の席に着いたが、両親の他に見知らぬ男性が…。
―――ひどい、お客様を連れて来るなんて。
そんな話、ひと言も言ってなかったじゃない。
だったら、ちゃんと時間通りに来たのに。
「ごめんなさい、遅れて」
「まぁ、セリーニったら、もう少しおしゃれに気遣ったら?せっかくのジョゼッティの服が台無しよ?」
仕事柄ジョゼッティのスーツは定番だったが、髪型や化粧にまでは手が行き届かないというか、変に色目を使われても困るからと敢えて、そういう”フリ“をしていたのだが…。
「それより、私。お腹ペコペコなの」
「この子ったら」という母の嘆きが聞こえてきたが、そんなことはお構いなしのセリーニに父は近くのボーイを呼び寄せるとワインと料理を運ばせた。
その間、家族の様子を微笑ましく思って見ていた男性が気になって仕方がない。
―――誰なのかしら?
年齢は30代前半という感じでブラウンの髪によく見ないと気付かないほど濃いグリーンの瞳が印象的だ。
そして、仕立てのいいスーツは偶然なのか、ジョゼッティ社製。
ボタンに特徴があるからすぐにわかるのと、ネクタイやワイシャツも全部そうだろう。
座っていても背が高いことは想像できるし、何より最近では稀に見るいい男だった。
「男性には興味のないセリーニも、彼のことは気になるようだな」
「はっ、そんなことっ」
動揺している様子が余計にそう思わせてしまったかもしれないが、誰だってこの男性(ひと)を前にしたら平常でなんていられない。
「彼を紹介しよう。次期、ジョゼッティ社の社長に就任予定のジョルジオ・サンチェ君だ」
「ジョルジオ・サンチェです。あなたにお会いできて光栄です」と会釈されたが、セリーニにとってはそれどころではない。
―――今、次期社長って…。
自分は早く引退したいというのが口癖になっていた父ではあったが、こんなにも早く、そして突然にその日が来るとは思いもしなかった。
「社長って…パパはどうするの?」
「そのことなんだが、私は早々に退くことにするよ。これからはお母さんと旅行にでも行って、ゆっくり過ごそうと思ってな」
「旅行って…まだ、そんな歳じゃないでしょ?それに」
ちらっとセリーニはジョルジオに視線を向けたが、すぐに逸らす。
父にはまだまだ第一線で活躍して欲しいと願っているけれど、その後継として実の娘のセリーニではなく、どこの馬の骨ともわからないジョルジオ・サンチェという人物にあっさりと譲ってしまったということ。
―――パパは私でなく、この男性(ひと)にジョゼッティ社を任せるというの?
「彼は、経営のセンスは素晴らしいものを持っている優秀な青年だ。セリーニの営業能力も高く評価してくれているし、もちろんお前のやりたいように今の地位は保証すると言ってくれているんだ」
その言い方は、まるで彼自身の支配下にされたような錯覚さえ覚えた。
「ジョルジオとセリーニが協力し合って、このジョゼッティ社を発展させていって欲しい」
「できれば、公私共に」という父のひと言に何かがパっと弾けたような気がした。
初めから、そのつもりだったのだ。
ジョルジオを社長に向かえ、セリーニと結婚させる。
何もかもが、父や母、そしてこの男の思い描いたシナリオ通り。
ジョゼッティ家の一人娘として、自覚と誇りを持って生きてきたつもりだったのに単なるお飾りでしかなかったということ。
女に生まれてきたことをこれほど恨んだことはないだろう。
ジョゼッティという名と子孫を残すためだけの人形だったなんて…。
「ママも、いつまでもセリーニが一人でいるのを見ていられないの。ジョルジオは、あなたをきっと幸せにしてくれると信じてるわ」
―――この人は、どう思っているのだろうか?
社長のポストとジョゼッティという名を手に入れられれば、知らない女とも結婚できる。
本当にそう…。
「サンチェさんも、そう思っていらっしゃるの?」
「ジョゼッティ氏の言う通り、あなたとはいいパートナーになれると信じています」
やっぱり、所詮は地位と名声なんだろう。
男なんてみんなそうだ、好きでもない女性と結婚しても、他所に別の女性を作ればいい。
そうやって、割り切れる。
「はははっ、滑稽ね」
「セリーニ」
「だって、そうでしょ?私の気持ちなんて、どこにもない。全部、見えないところで決まってるんだもの」
全てが、ガラガラと音を立てて崩れていく。
過去も未来も何もかもが、そして最後に残るのは現実だけ。
「でも、安心して。パパとママに心配を掛けるような真似はしないから」
いつもの明るいセリーニの笑顔に両親は安堵したが、ジョルジオだけは違っていたことなど気付くはずもなかった。
+++
暫くして新社長にジョルジオが就任すると、世間はこぞっておもしろおかしく騒ぎ立てた。
彼はどういう人物なのか、それはセリーニも知りたいくらいだったが、謎のベールに包まれたまま。
ただ、影で様々な企業を操ってきた大物だということは確かなようだ。
「セリーニ、今夜こそディナーを一緒にしてもらうからね」
「ごめんなさい。コレクションが大詰めなの。優雅にディナーを楽しむ時間なんてないわ」
ジョルジオの誘いをことごとく断り続けるセリーニ。
社長の椅子もジョゼッティ家も彼の思うが侭だと知ったら、とても心穏やかにディナーを楽しめるほど彼女には余裕などなかったからだ。
「君は働き過ぎだよ。婚約者とのディナーの時間も取れないなんて」
―――婚約者?聞いて呆れるわ。
誰が、あなたなんか。
「大丈夫、契約はちゃんと守るから。あなたは私のことなんか気にせず、どうぞお好きなように」
「きちんと言っておくけど、僕は君との結婚を契約だなんて思ってないんだ。こんな形でなく、もっと別の出会い方をしていれば…。でも、こうして君と出会えたことを神に感謝してる」
―――大げさな。
下手な俳優より迫真の演技だとセリーニは思ったが、彼の言うように別の出会い方をしていたら…。
恋に堕ちただろうか…。
「本当にごめんなさい。今はコレクションのことで頭がいっぱいなの。あなたとのことを考える余裕なんてないわ」
セリーニがこのコレクションに賭ける思いには、並々ならぬものがあった。
それは、ジョゼッティブランドとして自身が手掛ける最後となる覚悟を決めていたのだから。
+++
突然の社長交代劇にジョゼッティ社の動向が注目されたが、さすが帝王としての名に恥じない最高のコレクションに誰もが魅了され、ショーは大絶賛のうちに幕を下ろした。
―――これで、私の役目も終わり。
全てを捧げ、思い残すことはないはずなのになぜか、心の中にぽっかりと開いた穴。
「セリーニ、君は本当に素晴らしい。ジョゼッティの未来は、君なしではありえないよ」
経営者としての手腕を買われて社長に就任したジョルジオだったが、ファッション界を常にリードしてきたジョゼッティを支えてきたのはセリーニの並々ならぬ努力と才能に他ならない。
彼女なくしては、ブランドの繁栄はありえないだろう。
「ありがとう。私の我侭を聞いてくれて、全てを任せてくれたことに感謝しているわ」
もっと傲慢な男性(ひと)だと思っていたが、良い方に彼は期待を裏切ってくれた。
ジョルジオが言ったことが本心ならば、お互い良きパートナーとしてこのジョゼッティを盛り上げていけるかもしれない。
だが、セリーニにはそのつもりはこれっぽっちもなかった。
なぜなら、例えジョルジオがジョゼッティを名乗っても、彼の下で使われるのは耐えられそうになかったから。
「次の春夏コレクションも、この調子で頼むよ」
「それはないわね」
「えっ」
ジョルジオは、自分の耳を疑った。
彼女は、時季コレクションを手掛けないと言っているように聞こえたからだ。
「私は、今季限りで外させていただくわ」
「それはどういう」
「だって、私はあなたの妻になるんでしょ?家庭と仕事は両立できないもの」
「私の役目は終わり。今後は、社長であるあなたに全てを任せるわ」とこんなにもあっさり身を引くとは…ジョルジオの計算外だった。
いや、彼女は初めからそのつもりだったのだろう。
だから、一切誘いにも乗らずに全身全霊を傾けて。
しかし、それはジョルジオにとっては計算外だけでなく、非常に困ったことでもあった。
経営に関しては稀にみる才能の持ち主も、ことファッションに関しては無知と言っていい、この絶頂期にセリーニに退かれてはブランド自体の存続すら危うくなるのは必至だからだ。
「それは困る。今、君がいなくなったらジョゼッティは終わりだ」
「何を言うの?社長たる人の口からそんな言葉が出るなんて」
セリーニはこうなることがわかっていて、敢えて退くことを決意したのだ。
一種の賭けといってもいい。
「新しいコーディネーターを探すのはそう簡単なことじゃないけど、私がいなくてもジョゼッティは永遠よ。だって、あなたという力強い社長がいるんですもの」
自分の存在がどれだけ重要か、見せ付けるために。
「セリーニ」
「お待たせしてしまったけど、これからはいくらでもディナーにお付き合いするわ」
「もちろん、ディナーだけじゃなくってよ」と笑いを堪えて部屋を出るセリーニとは正反対にその場に崩れ落ちるようにしてジョルジオは座り込んでしまった。
パタンと閉まるドアの音。
内と外の世界が、あまりにも違っていた。
2/Eにつづく
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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