Memory
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どうして、あんなことを―――。

してしまったのだろう…。
後悔だけが、美鈴の心の中に残る。
―――あぁ…彼氏でもない、ましてや塾の教え子とヤッてしまうなんて…。
これには深〜い事情があるとはいっても、そんな事情など世間一般では道理が通らないことは重々承知。

「美鈴さん、ここなんですけど」
「え?ちょっ、広瀬君っ。そんな名前で、呼ばないでよっ!」

あの日から翔(カケル)は、美鈴のことをこう呼ぶようになった。
もちろんお互い、想いを寄せる人がいることも変わらない。
というか、美鈴にとっては人生最大の罪深いことであるにも関わらず、彼はどこ吹く風という様子。

「いいじゃないですか。誰も聞いてませんよ」
「聞いていないからって、止めてよ。先生って呼びなさい。先生って」
「はぁ〜い。じゃあ、先生。ここ、教えてもらえますか?」
「ん?どれどれ」

別にあのことで美鈴の気持ちが翔(カケル)に傾いたわけでもなければ、その逆もない。
翔(カケル)が彼女である里奈と上手くいったのかも聞いていないし、聞こうとも思わない。
二人の関係は、あくまでも講師と生徒のまま。
のはずだったが、少しずつ気付かないところで歯車が狂い始めていたのかもしれなかった。

+++

そのまま、秋が過ぎて受験シーズン本番がやって来たが、彼の成績は下がることなく上位をキープし続け、見事志望大学に合格。
あの出来事で、彼の将来に関わるようなことにならなくて良かった。
それだけが、救いだったかもしれない。

「美鈴さん。もう、堂々と呼んでもいいですよね」
「あんまり、堂々とは呼んで欲しくないけど」
「短い間でしたが、お世話になりました。お陰で志望校にも、無事合格できました」

こんなふうに面と向かってお礼を言われると、なんだか恥ずかしい。
これは美鈴の力というよりは、彼の努力があったからこその結果。

「ううん、こちらこそ至らない講師でごめんね」
「そんなこと。美鈴さんには、本当にお世話になりました。僕にとって、忘れられない時間です」
「翔(カケル)君」

あの日以来だった、彼をこう呼んだのは。
もう、二度と逢うこともないのかもしれない。
そう思ったら、寂しさが込み上げてくるが、お互い別々の道を歩んで行く門出なのだから。

「美鈴さんは、これから就職活動ですね。大変でしょうけど、頑張って下さい」
「翔(カケル)君が大学に合格したのに私も負けていられないわ」
「僕が社長なら、絶対採用しますよ」
「じゃあ、翔(カケル)君の会社に入社させてもらおうかしら?」

二人の笑い声が、塾の廊下に響き渡る。
そんな和んだ雰囲気が一変したのは、翔(カケル)の発したひと言だった。

「僕、彼女とは別れました」

―――まさか、私のせい?
上手くいっているとばかり思っていたのに…。
そんな素振りは、一度も見せなかった翔(カケル)。
二人の間に一体何が…。

「えっ、別れたって…」
「美鈴さんのせいじゃないんです。彼女のことは本気で好きだったし、一つになれた時も幸せでした。でも、何かが違うって気付いて」
「そう…」

彼の言葉を信じるしかないけれど、少なからず美鈴のやったことが、彼と彼女の間に亀裂を生むようなことになったのではないか?
だとしたら…。

「そんな顔しないで下さい。美鈴さんには、本当のことを知っていてもらいたかっただけなんです。最後は、笑って見送って欲しいんですよ」
「翔(カケル)君…」
「美鈴さんのことは、一生忘れません」

これが、翔(カケル)の最後の言葉だった。

自分のデスクに戻った美鈴は、彼にもらったメモをじっと見つめる。
あれから5年、実を言うと高校時代から付き合っていた彼氏とは就職活動を機に別れていた。
翔(カケル)と同じ理由だったのかどうか、今思えば彼と体を合わせてしまったことが別れの原因だったのかもしれない。
社会人になってからも、何人かの男性と付き合ったがいずれも長続きしない。
愛情があったわけでもないはずの翔(カケル)が、どうして今も美鈴の胸の奥底に生き続けるのだろう…。

―――連絡をくれと言われても、できないわよね。
今度逢ったら、気持ちが彼に傾いてしまいそうで怖い。

美鈴はそのメモを小さく折りたたむと、手帳の隅に挟み込んだ。

+++

彼のことを忘れていたわけではないが、美鈴から連絡するようなことはなかったし、会社内で偶然逢うようなこともなかった。
それでよかったのか、悪かったのか…。

「今日から、新人君が配属ね。今年は、かなりのイケメンよ?」

美鈴に耳打ちしたのは、一期上の成美(ナルミ)。
彼女はいい男に目がなかったから、早速うちの部に配属される新人のチェックをしたのだろう。
視線の先に目を向けると、そこにいたのは…。

―――翔(カケル)君…。

同じ会社に勤めている以上、全く逢わないことは難しいかもしれないが、同じ部に配属されるとは考えてもいなかった。

運命―――。

彼は言っていたが、そんなことが実際あるのだとしたら、今はそう思いたい。

「美鈴さん、これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」

冷静に返したが、声は上ずっていたかもしれない。
美鈴の前に来て挨拶した翔(カケル)に成美は、驚いた様子で二人を交互に見つめている。

「どうして、連絡くれなかったんですか?僕はずっと待ってたんですよ」
「あぁ、ごめんね。せっかくもらったメモをなくしちゃって」

―――嘘…。
なくしてなんかいない。
大事に手帳に挟んでいるのだから。

「何だ、そうだったんですか?まぁ、いいですけど。じゃあ、今夜どうですか?話したいことがいっぱいあるんです」
「考えておくわ」
「考えておくわじゃなくて、ここで約束して下さい」
「そうよ。誘いを断るなんて、どうせ美鈴は彼氏がいないんだから予定なんてないでしょ?」
「なっ、成美」

―――全く、余計なことを…。
どうして、成美は何でもかんでも素直にしゃべっちゃうのよ。

「美鈴さんは、彼氏がいないんですか?」
「そうよ。こんな美人なのにね」
「もうっ、成美ったら余計なこと言わないでっ!自分の席に戻りなさいよ」

「はいはい、お邪魔虫は退散しますよ」、名残惜しそうに成美は自分の席に戻って行った。

「定時後、駅で待ってますから」
「え?でも…」

遠くから、挨拶するようにと翔(カケル)を呼ぶ部長の声が聞こえる。

「美鈴さんが来るまで、ずっと待ってます」

言い残して行ってしまった彼に、『仕方ないな』と言葉を投げかけた。



美鈴は、成美に散々冷やかされて駅に向かう。
―――翔(カケル)君も翔(カケル)君よね?何も彼女の前であんなこと言わなくても。
明日、早速聞かれるに決まってる。

「ごめんね、待った?」

首を横に振る翔(カケル)に『嘘ばっかり』と毒づいてみるのは、定時から30分は過ぎているから。

「どうする?ご飯でも食べに行く?」
「お勧めのところがあれば、是非」
「じゃあ」

会社近くだと誰に会うかわからないから、少し離れたところに場所を移す。
こうして並んでいると彼はやっぱり背が高い。
あの時は水泳で鍛えていたと言っていたけど、今はどうなんだろう?
体型はそう変わっていないようだけど。

美鈴が選んだのは、雰囲気の全くない居酒屋。
カウンター席に二人並んで座る。
変に素敵な場所に彼と一緒だと、特にお酒が入ったりしたら、自分がどうなるかわからないし。

「美鈴さんらしいですね」
「いいのよ。もっと、雰囲気のある店を知らないのか?って、言ってくれて」

―――あぁ、何でこんな可愛くない言葉しか、出てこないのかしら?
自分で自分が嫌になる。

「でも、こうしてお酒が飲める年になったんですね?なんだか、不思議です。僕の中では、ずっと高校生のままだったんで」
「そうね。私も教え子と飲むようになるなんて、思ってもみなかったわ」

再会を祝して、ビールのジョッキで乾杯する。
なにはともあれ、仕事の後の一杯は格別だ。

「さっき、彼氏がいないって言ってましたけど、あの時付き合っていた彼とは」
「とっくに別れちゃった」
「そうですか」
「そう言う、翔(カケル)君はどうなの?彼女いるんでしょ?いくら塾の講師でも、私と逢ってたりしたらマズイんじゃない?」

彼が別れた話は聞いていたが、その後のことはわからない。
知りたいと思わないし、強がっていると言われても。

「僕も彼女はいません。あれからずっと」
「え…あれからって…。大学4年間、誰とも付き合ってないの?」

―――信じられない。
彼なら黙ってたって、女の子の方から寄ってくるでしょうに。
それとも、お眼鏡に叶う彼女が見つからなかったのかしら?

「おかしいですか?」
「おかしくはないけど…何でかなって。翔(カケル)君、モテるでしょ?」
「確かに相変わらず告白はされました。でも、ある人のことが忘れられなくて」
「ある人?」

高校生の時、別れてから誰とも付き合っていない。
ある人のことが忘れられないから…。

「わかりませんか?」
「わからないわ」
「嘘、わかってるくせに」

お酒が強いのか、翔(カケル)はビールを飲み干すと新しいものを追加注文する。
わかってるくせにと言われても、ちゃんと言ってくれないとわからない。

「ちゃんと言ってもらわないとわからないわ」
「あなたです。美鈴さんが、ずっと僕の心の中に住み着いて離れない。あの日から」

―――同じ…。
彼の目は、懇願してきたあの時と同じ。
そして、想いまで美鈴と同じだというのか…。

「それは、初めての―――」
「今となってみればそうなのかもしれませんが、でも違うんです。あなたと過ごした時間が、忘れられない」
「翔(カケル)君…」

体を合わせたことは、ほんのきっかけにすぎない。
それまで過ごした時間の中で、お互いが想いを抱き始めていた。
気付かないうちに…。

「好きなんです、美鈴さんが。この会社に入ったのも、同じ部に配属されるよう頼んだのも、全部あなたの側にいたいから」
「えっ、嘘。ほんとなの?それ」

好きな人を追いかけて、同じ会社を選ぶなんて…。
―――馬鹿ねぇ、翔(カケル)君は。

「馬鹿」
「なんとでも、言って下さい」

新しいジョッキを半分まで飲み干す翔(カケル)。

「とか言いながら、私も人のことは言えないのよね」
「え?」
「ある人のことが忘れられなくて、恋が全然長続きしないのよ。4歳も年下で、塾の教え子なのによ?どう思う?翔(カケル)君」

美鈴も負けじと残っていたジョッキを空にすると、通りがかった店員に同じものを注文する。
活きのいい刺身や焼き魚など、この店は魚介類がとても美味しい。
翔(カケル)と目を合わせるのが恥ずかしくて、ワザとそんな言い方をすると料理に箸を向けた。

「美鈴さん、それって」
「降参。私も好きよ」
「美鈴さ―――」
「言っておくけど、多分成美にもバレちゃうだろうし。同じ部にいて付き合うっていうことは、それなりの覚悟がいると思うの」

言葉を遮るようにして言ったのには、軽い気持ちで付き合って欲しくないから。
もちろん、彼がそんなはずないけど。

「わかってます」

カウンターの下で、美鈴の手をしっかりと握る翔(カケル)。
この温もりをずっと待っていたのかも…。
ゴツゴツとした手は変わらない、あの日と同じだった。


ひとまず、おしまい。


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福助


※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。


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