はっきりと梨華に交際を断られた崇(たかし)は、今までにないほど落ち込んでいた。
自分がいい男だと思ったことはないが、だからといって自信が全くなかったわけでもない。
しかし、蒼井 巨哉(あおい なおや)が側にいてもなびかない女性である。
一筋縄ではいかないと思ってはいたが、どうすれば彼女を自分のモノにできるのか、崇(たかし)にはいくら考えてもその方法が見つからなかった。
というよりも―――。
…俺は、何でこんなに必死に彼女を手に入れようとしているんだ。
追い掛けられることはあっても、追うことは決してないはずの俺が、なぜ―――。
思わず笑いが込み上げてくるほど自分にとってはあり得ないことだったし、この歳になってこんな恋をするとは。
銀縁眼鏡に今時珍しい黒髪を1つに束ねて化粧も最小限しかしない地味な彼女、お世辞にも惹かれるようなことはなかったはず。
なのに…。
きっかけはと聞かれれば、『私は、仕事がしたいんです』と言った、あの強い意思を含んだ瞳だったのかもしれない。
コンっ―――
コンっ―――
そんなことを考えていると、ドアをノックする音が。
いつもならまだ家にいる時間だったが、こんなことがあって昨晩はほとんぞ眠れず妙に早く出勤してしまっていた崇(たかし)。
まだ、オフィス内も真っ暗だったというのに、こんな時間に誰だろう?
「どうぞ」
「おはようございます。今朝は、お早いんですね」
「コーヒーをお持ちしました」と入って来たのは、梨華だった。
…彼女は、毎朝こんなに早く出勤していたのか?
それに―――。
「あっ、おはよう。いや、今朝はたまたま早く目が覚めてしまったから。それより、君は随分と早いんだな。いつもこの時間に?」
「はい。早い方が電車も空いていますし、家に居るより静かでいいんです」
そう話しながら、デスクにカップを置く梨華の指先にも、つい視線がいってしまったが、同窓会で見掛けた時以来のほんのりパールがかったネイル。
黒や紺といったダークなパンツスーツばかりを身に纏っていた彼女が、明るいベージュのスーツに膝が隠れるか隠れないかというタイトなスカートに合わせたヒールというイデタチ、すらっとした足が一段を目を引いていた。
それだけでも驚きだったが、何と!あのトレードマークともいうべき銀縁眼鏡がない!!
濃過ぎず薄過ぎずのメークに艶のある黒髪は、緩くウエーブがかかっている。
「今夜は、どこかに出掛けるのか?」
「いえ、どこにも。どうしてですか?」
「いや、あまりに違うんでそんなふうに思っただけだ。他意はない」
…どこにも出掛けないというわりにこの変わり様は何なんだ。
付き合って欲しいという申し出を断っておきながら…。
そう問いたい気持ちを抑えて崇(たかし)はカップを手に取り、コーヒーの香りで心を落ち着かせる。
「あの…常務のお気持ちに応えることができず、申し訳ありません。秘書を代えていただいても構いませんから」
「君はどうするんだ?秘書は、会社勤めをするための親父(社長)の命令じゃなかったのか」
この前、彼女のことを聞きに実家に帰った時に父親はそういう話をしていたはずだ。
就職するのでさえも反対されたというのに、ここで秘書を代えたりしたら行き場がなくなってしまう。
せっかくの能力を無駄にしてしまうのはもったいないし、崇(たかし)だって一度断られたくらいで諦めるつもりもない。
それより、自分から離れてしまうことの方が問題だった。
もちろん、彼女がそれを望むのであればどうしようもないことだが…。
「それは…」
梨華だって、やっと責任ある仕事を任せてもらえるようになったばかりで、今この場を離れるのは惜しいと思うし、彼の言うように他の部署に異動することは難しいだろう。
あんなことを言ってしまった以上、覚悟の上でのことだったし、彼の方が自分が近くに居ない方がいいのではないか。
「俺は別に気にしない。むしろ、君が居なくなる方が困るんでね。まぁ、俺の顔も見たくないというのであれば、話は違ってくるが」
崇(たかし)はゆっくり席を立つと、窓から外をジッと見つめていた。
その姿はとても寂しそうで、だけどこれは仕事と割り切ってなのか、それとも…。
「顔も見たくないなどということは決して」
「だったら、今のままで問題はないはずだ」
「ですが…」
「どうして、眼鏡を取ったんだ?それと服装や髪型まで。学生時代には、ストーカーまがいのことまでされたと聞いているが」
―――小父様ったら、そんなことまで話していたのね。
とはいっても、息子に聞かれれば話してしまっても仕方がない。
常務に崇(たかし)が就任するとまでは考えていなかったから、これは梨華の誤算だと言っていいだろう。
確かにストーカーとまではいかないが、それに近いことはされたことがある。
地味にしていた方が楽なことはわかっていても敢えて変えたのは、こっちの梨華を好きになったであろう彼への当て付けだったのだから。
「俺への当て付けか?」
「えっ」
心の中が透けて見えているのかと思うほど―――。
そして、いつの間に側に来ていたのだろう、崇(たかし)は梨華の前まで来ると腰に腕を回してあろうことか密着させるように抱き寄せた。
すぐ目の前に彼の顔があったが、その目は鋭く怖いくらいに梨華の奥底まで射抜くようだ。
「…じょっ、常務…止めてください」
「理由を聞かせてくれないか」
「理由と言われましても…」
目を合わせていられなくて逸らそうとしたが、顎に手を副えられて上向かされる。
梨華はギュッと目を閉じると、握り締めた手に力を込めた。
「俺には誘惑しているようにしか思えない。普段の君でも十分魅力的だと感じていたのにこんな…」
「えっ」そう思った時には、既に唇を奪われていた。
ほのかに感じるコーヒーの香り。
25にもなってと言われるかもしれないが、男性と付き合うなどという経験が一度もない梨華にとってみれば、キスすら初めてのことである。
それが、こんな形で訪れるなんて…。
―――私…キスされてる…。
ガッシリとした腕に抱きしめられて、胸を押し返しているつもりでもちっとも力が入らないのは、それが不思議と嫌じゃないから。
あっ…今、常務は『普段の君でも十分魅力的だと感じていたのにこんな…』と。
同窓会での着飾った梨華ではなく、地味な梨華も好きだと言っているのだろうか…。
「そんなに力むなって。ほら、力を抜いて俺に任せて」
「…っ…」
―――力むなって言われても…。
どうしていいかわからない梨華に崇(たかし)は優しく語り掛けるように言う。
小刻みに震える体、それでも嫌がられていないことが救いだったが、だったらどうして断ったのか。
「大丈夫か」
「だっ、大丈夫じゃ…ないです…朝から…ここは、会社なのに…」
「こうでもしないと、君にはわかってもらえそうになかったし」
腰が砕けそうで立っているのもやっとの梨華は、不覚にも彼に支えてもらうしかなかった。
でも、心地よくてずっとそうしていて欲しいと願ってしまうのは…。
「常務…」
「うっとりした顔して、嫌いじゃないよな俺のこと」
「え…」
意地悪な笑みを浮かべる崇(たかし)を睨みつけたところで、何の意味があるだろう。
たった一度のキスで酔わされてしまったなんて思いたくないけれど、二度目はきっと溶けてなくなってしまうかもしれない。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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