「ごめんね、遅くなって」
「俺こそ。ごめんな、忙しかったんじゃないのか?」
「まぁ、ちょっとね」と梨華が巨哉(なおや)と待ち合わせていた場所に着いたのは、約束より15分ほど過ぎてのこと。
車で会社まで迎えに来ると言った彼の申し出を断ったのは、どこで誰に見られているかわからないし、車内という密室に敏感に反応してしまったから。
ずっと子供の頃から一緒で、それこそ兄弟みたいに思っていた巨哉(なおや)が一人の男性なんだと感じたのは初めてだった。
今はもう怖いという気持ちはないが、どこかぎこちない態度に巨哉(なおや)も何かを感じたのかもしれない。
「大丈夫だよ。とはいっても無理だよな」
「どうする?飯でも食ってくか?」と巨哉(なおや)は梨華のことを思ってか、一定の距離を置いて歩いてくれた。
そんな彼の気遣いが、今はなぜか痛かった。
美味しいものを食べながらの方が穏やかな気持ちで話せると思ったし、実はとってもお腹が空いていた梨華。
いつも彼に奢ってもらってばかりなのでたまには梨華がと二人が入ったのは明るい雰囲気で女性が好みそうな南仏料理のお店。
一OLの彼女が入るにはちょうどいいところだが、舌の肥えた彼にはどうだろう。
「へぇ、梨華ってこういう店に来てるのか」
店内は仕事帰りのOL達でいっぱいだったからか、巨哉(なおや)は普段あまり立ち入らない場所だけにどうにも落ち着かない。
そして、目の前にはあの地味な彼女の姿は今はどこにもなくて。
いつだって巨哉(なおや)にとっての彼女は、世界で一番輝いている存在だったはずなのに…。
「会社のお友達とよく来るんだけど、とっても美味しいの。でも、巨哉(なおや)にはどうかな?」
メニューを開くと真っ先にワインリストに目がいく梨華だったが、今夜はそんな気分になれないのか、それとも警戒しているのか、すぐにメインディッシュのページに移動してしまう。
「どういう意味だ?俺だって、いつもいつも豪華なものばかり食べているわけじゃないんだぞ。そう言えば、昼に梨華の会社に行って食べたなめこおろし蕎麦。あれは美味かったな」
なめこおろし蕎麦と言えば、お弁当をキャンセルした代わりにお昼を崇(たかし)に誘われてロビーを出ようとしていたところで梨華を誘いに来た巨哉(なおや)と鉢合わせ、二日酔いだった崇(たかし)を気遣ってパスタや揚げ物は胃にもたれるんじゃないかと提案したのが老舗の手打ち蕎麦屋だった。
―――確かに美味しかったけど、あのキマヅイ空気の中でよく味わっている余裕があったわね。
「前の常務によく連れて行ってもらってたの。なめこおろし蕎麦は絶品よ?」
「そうか」
「前の常務とね」と続けようとして、巨哉(なおや)はグラスを口元へ持っていき、その言葉を急いでミネラルウォーターと一緒に流し込む。
いちいち嫌味なやつだと自分でも思う。
あの男さえ彼女の前に現れなければ、恐らくきっと…。
いや、例えそうならなかったとしても、彼女の瞳が一生自分を見つめ続けることなどないのかもしれない。
梨華はメニューを指でなぞりながら、「ブイヤベースが、この店一番人気ですっごく美味しいの。食べなきゃ絶対、後悔するわよ?あとはね、こっちの―――」と真剣に説明してくれる彼女はいつもと変わらない。
絶対、後悔する…か。
この距離が縮まらないのなら、せめてもう少しだけ。
「ねぇ、聞いてるの?」
「あっあぁ、ブイヤベースが美味いんだろ?後悔しないようにそれ食っとくよ。後は梨華に任せる」
「もうっ、適当なんだから」
ちょうどオーダーを取りに来たウエイター(若くてなかなかのイケメン?)にここに来たら必ず梨華が注文するブイヤベースと、季節のホワイトアスパラガスを使ったオムレツなどなど…。
―――あぁ〜やっぱり、ワインが飲みた〜い。
「ほら、梨華。ワインはいいのか?」
「えっ、でも…」
「安心しろ。いくらなんでも、酔った女性に手を出したりしないさ」
「なっ巨哉ったら!!」
ウエイターが口元に手をあてて、ニヤつき顔を無理矢理堪えているのがわかる。
―――そういうこと、他人の前で言わないでよぉ。
恥ずかしいからっ。
俯いたままでワインリストを一通り眺めると選んだのはシャルドネ。
軽く受け流せばいいものをまともに取ってしまうあたり、まだまだ梨華は純粋なのかもしれない。
アルコールも入っていないのにピンク色にほんのり染まった頬が余計に魅力的だったが、巨哉にはそんな彼女を堪能している余裕はもはやなかった。
「あの時は、ごめんな。大人気無かったと反省してる」
「まったく、ガキ以下だよ俺は…。ごめん」と、梨華を真っ直ぐに見つめる巨哉(なおや)の瞳は少しだけ揺れていた。
右京 崇(うきょう たかし)の名前が出ると平常心でいられなくなるのは、彼もまた同じように一人の女性を想っているからだろう。
「もう、いいの。そんなに深刻にならないで」
「嫌いになっただろ。俺のこと」
「ならないわよ」
「なるわけないでしょ」と口を尖らせて言う梨華。
「梨華はどこまでも優しいんだな。あのまま、強引に連れ出して押し倒したかもしれないのに?」
「えっ」
さっきのウェイターがアルミ製のワインクーラーとフルボトルのシャルドネを持ってきたが、お互い手をつけないまま時間が過ぎていく。
―――巨哉(なおや)が私を…。
「そんなこと」
「絶対ないって、言い切れるか?」
「それは…」
「梨華にとっては俺なんかただの幼馴染でしかないんだろうけどさ、俺にはいつだって一人の女性だったよ」
本心を知ってしまうとやり切れない思いで胸が詰まる。
―――私は幼馴染という理由をこじつけて、巨哉(なおや)の気持ちに気付かないフリをしていただけなんだろうか…。
「俺のこと、好きだって思ってたんだ。思い込みに近いけどな。だから、そんな無防備な顔で見ないでくれよ」
「私は―――」
「その先は聞きたくない」
「巨哉(なおや)」
巨哉(なおや)はワインを手に取ると梨華の前に置いてあるグラスにそれをゆっくりと注ぎ、自分のグラスにも同様に注ぐとワインクーラーに入れる。
「梨華の言いたいことはわかってる。だけど、それを聞いたら俺、明日からどうすればいいんだよ」
梨華には気の利いた言葉を何一つ掛けてあげられなかった。
時には意地悪なことも言うけど、いつだって優しくて頼りになって、何よりもカッコいい巨哉(なおや)。
そんな彼をどうして、今まで好きにならなかったのだろう…。
彼だけは、ずっと本当の自分を見てくれていたはずなのに。
「取り敢えず、乾杯しようか」とワイングラスを持ち上げて前に出す巨哉(なおや)。
躊躇いがちにグラスを持つ梨華に彼は「乾杯」とだけ言うと、カチンと合わせて静かに口に含む。
「梨華も飲んだら?」
「うん」
美味しい料理とワインのはずだったが、梨華の味覚はどうにかなってしまったみたいにちっとも味がしなかった。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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