「じゃあ、俺は帰るよ」
「外にタクシー待たせてるから、後は頼むな」と言って巨哉(なおや)は玄関先へと足を向けようとする。
本当は巨哉だって、できることならエプロン姿の梨華をもう少し拝んでいたかったのは山山。
…どうせ、あいつは寝てて起きてこないんだから。
心の片隅にあった悪の部分が、意思とは裏腹に顔を出す。
「待って、私も一緒に帰る」
―――だったら、酔っ払いの常務を置いて私も一緒に帰る。
慌ててエプロンを外し、身支度を整える梨華。
彼のために夕食を作って待っていたが、勝手に来たのは自分だし、今夜は運が悪かったと諦めるしかないだろう。
「あ?何、言ってんだよ。梨華まで一緒に帰ったら、意味がないだろう」
「だって、酔っ払いの常務の側にいたってしょうがないもん」
確かに言われてみれば、そうなんだが…。
朝起きて彼女が来ていたとわかった時の崇の顔を思い浮かべると、なんだかものすごく気の毒だ。
神様の悪戯なのか…このまま、二人の恋はどこまでも平行線のままなのだろうか…。
「一晩中、愛しい右京さんの寝顔でも見てればいいだろ?いっそ、ベッドの中に潜り込ん―――」
バシっ。
「痛ってぇなぁ、冗談だって」
「本気でぶつやつがあるか」思いっきり、背中を平手で叩かれ、海老反る巨哉。
考えてみれば、男の部屋で待つことすら初めての梨華が驚かせようと密かに食事まで作って…相当、勇気がいったに違いない。
その上、愛して止まない彼女が来ていることすら知らなずにのん気に酔っ払って寝ている崇のベッドに潜り込もうなどと…。
「だけどさ、梨華がこのまま帰ったら右京さん、残念がるぞ。きっと」
「そんなことを言われたって…泊まるわけには、いかないじゃない」
―――外泊なんて…それも、男の人の部屋によ?お母様に何て言うのよ…。
泊まるつもりなど、これっぽっちも考えていなかったのに…。
「友達が酔っ払って家に送って行くとか何とか、言えばいいさ。どうせ、こんな時間までいたんだし、ご両親も梨華がもう子供じゃないって、わかってるさ」
「でも…」
「俺は帰るから」
「じゃあ」と、梨華の気持ちなどお構いなしにさっさと出て行ってしまった巨哉。
―――ちょっと冷たくない?
とは思っても、これは彼なりの優しさなのだとわかってる。
ふっと息を吐き出し、梨華はそっと崇が眠っている寝室へ入ると、静かにベッドの傍らに両膝を付く。
無防備な寝顔は、普段のキリっと引き締まった表情とは打って変わって可愛いかも。
一緒に夕食を共に出来なかったのは残念だけど、こうしてひと時でも彼の寝顔を独り占めできたのだから。
柔らかそうな髪、すっと通った鼻に初めてキスされた唇。
「うっ、ううっ…」
「常務、大丈夫ですか?苦しいんですか」
いきなり寝返りを打つ崇に声を掛けたが、表情は苦しそう。
「お水、持ってきますね」
「あぁ、梨華?」
朦朧とした意識の中で、崇は夢を見ているのではないかと思った。
梨華の声を聞いたような…とうとう、幻想まで。
…俺は一体、ここは。
また、倒れて病院にでも運ばれたのかと錯覚さえ覚えたが、どうやら見覚えのある部屋にホッと安堵する。
しかし、咄嗟に掴んだ手には温もりが感じられ。
「常務、気分が悪いんですか?」
「いや。梨華、どうして…」
胸のむかつきに巨哉を誘って寿司屋に行き、次にクラブで飲んだことを思い出したが、その後のことは…。
でも、どうして梨華がここにいるのだろうか?
「ごめんなさい。勝手にマンションまで来てしまって」
崇はゆっくりと上半身を起こす。
前回、飲み過ぎて二日酔いで会社を休むハメになった時ほどの酔いは感じられなかったが、記憶はやや曖昧だ。
…確か、珍しく梨華は定時ですぐに家に帰ったはず、どこかに出掛けるのか?と聞こうとしてやめたが、『ちょっと行くところがありまして』と…ということは、もしかして。
「ずっと待っていたのか?」
「驚かせようとしたんです、常務のこと」
申し訳なさそうに言う梨華に十分驚いたが、それ以上に巨哉を誘ったことを今更ながら後悔せずにはいられない。
待ちに待った、この日を…。
クっそぉ、俺はなんてツイてないんだ。
「俺こそ、ごめん。知っていたら、蒼井君を誘ったりしなかったのに」
「いえ、常務の寝顔も見られましたし」
「え?」
―――はっ、私ったら何てことを…。
それより、帰らなきゃ。
今からタクシー呼んだら、来てくれるかしら?
「あのっ。私、もう帰りますね」
「あ?帰るって、せっかく来たのに。っていうか、この時間なら泊まっていった方が」
「とっ、泊まる?!そっ、そんな。家にも連絡していないしっ」
こうして話もできたんだから、帰ったって。
「俺から、ご両親に話すよ。梨華がここへ来てくれたって事は、俺達はもう常務と秘書という関係じゃなくなったってことだろう?」
「違うか?」崇の言う通り、梨華自身の彼への気持ちを話すために今夜、ここへ来たのだから。
「いいんですか?」
「いいに決まってる」
酔いなど、すっかりどこかに飛んでいってしまうほど、崇は嬉しさのあまり梨華を腕の中に抱き寄せた。
この日をこの瞬間を、どれだけ待ち望んでいたことか。
「常務、好きです」
「それを言いたくて」と、はにかんで頬を赤く染める彼女が薄明かりの部屋の中でもわかるほど。
お酒臭いとは思ったが、彼女の柔らかな唇を奪わずにはいられない。
…ここまできて、あぁ、やっぱり夢なんてことはないだろうな。
こっそり、自分の太腿を指で抓ってみたが―――痛っ。
夢じゃない。
「好きだよ、梨華」
この瞬間から、二人だけの甘い時間(とき)が始まる。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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