「あのっ、ほっ本当に大丈夫ですからっ」
通常より一オクターブほど高い声で梨華が半ば懇願するように言ったのだが、相手は聞く耳をもたない。
―――ちょっとっ、人の話を聞きなさいよ!
と心の中で叫んでみても、無駄なことはわかっている。
崇(たかし)はとにかく真面目で一度こうと決めたら引かない性格なのは、日々の仕事振りを見ていれば一目瞭然だ。
ここで下手に出るより大人しく時が過ぎるのを待った方がいいだろう、黙って崇(たかし)の言うことを聞き入れて予備に用意してあった別室に入ると梨華は勧められた椅子に腰掛ける。
ホテルというのはそういう時には迅速に対応できるように配慮しているわけで、幸いにもドレスに被害はなく済んだが…。
崇(たかし)はその場に跪くようにして用意してもらった固く絞ったタオルでドレスの腰辺りを拭こうとするが、慌てて梨華がそれを静止する。
さすがにそこまでは…。
それにそんなことをしたら、着ている高級そうなスーツが汚れてしまう。
梨華が咄嗟に出した手と崇(たかし)の手が、ほんの微かに触れた―――。
いつもなら見上げる彼を見下ろす形の今、顔がすぐ目の前にあって視線を逸らそうにも体が思うように動かない。
「もうっ、大丈夫ですから」
「本当にすみません」
やっとのことで声を発した梨華に、こちらが恐縮してしまうくらい頭を下げる崇(たかし)。
―――常務、ホストになったらピッタリかも?
ついつい、想像の中でお姫様気分に浸ってしまいそうだったが、今の梨華の姿を見て、例え天と地がひっくり返ったとしても毎日会社で顔を合わせている自分の秘書だなんて気付かないだろう。
「私が悪いんですから。どうか、お気になさらないで下さい」
―――あぁ、もう早くこの場を去りたいのに…。
とは言っても、これ以上長い時間を二人っきりで過ごせば何かのきっかけで気付かれてしまうかもしれない。
そうなったら、大変だぁ。
「あの、失礼ですがお名前は。お詫びにクリーニング代を」
「えっ」
―――こんな時に名前なんか、どうだって…。
だいいち、言ったら私だってバレちゃうじゃないの…どうしよう…偽名を使うべきかしら…困った困った…。
そんな時に開けっ放しになっていた扉のすぐ向こうを通る人影が…。
あっ、長島君!
『長島君っ、こっちぃこっちぃ。気付いてぇ』と祈るように熱い視線を送る梨華。
「ん?森永、どうしたんだ」
「そんなところで」と近付いて来る彼だったが、グルグルと梨華が頭の中で考えを巡らせているとグッドタイミングで現れた。
この時ほど、彼が天使に見えたことはなかっただろう。
「私が、シャンパンをこぼしてしまったの」
「それも、会場を間違えちゃって」と梨華が事情を説明すると「全くお前は、そそっかしいな」と長島は苦笑している梨華のおでこを軽く指で小突く。
―――痛っ〜い、もうっ長島君たらぁ。
そんな梨華を尻目に「すみません、ご迷惑をおかけして」とまるで保護者気取りで謝る彼。
「いえ、そんなことは。こちらこそ、余所見をしていたもので失礼しました」
崇(たかし)も慌てて謝ったが、「もう、気になさらないで下さい」と梨華は引き攣りながらも笑みで返すと長島の腕を取って今度こそ、逃げるようにしてその場を後にした。
―――あぁ…。
どっと疲れが出て、梨華は本来自分がいるべき会場のテーブルの上に並べてあったミネラルウォーターのグラスを手にすると一気に飲み干す。
よりによって、こんなところで常務に会うとは…。
そっと、向かいの会場に目を向けると・・・同窓会という文字が視界に入ったが、どうやらあちらは大学の同窓会のよう。
その名は誰もが知っている、名門中の名門。
こういうものは、時期が重なったりするものなのだろうか?
偶然にしても、ちょっと運が悪過ぎる。
そっと立ち上がると、梨華が入って行ったであろう会場をジッと見つめる崇(たかし)。
…同窓会か。
自分達と同じ同窓会の会場と間違えて入って来た彼女は崇(たかし)のちょうど肩位の身長で、サーモンピンクのやわらかいドレスに身を包み、白い肌が一層際立って見えた。
艶のある黒髪をアップにしていて、本当に美しい…崇(たかし)がこんなふうに思うことは極稀だ。
「どうした。ボーっとして」
一点を見つめたまま動かない崇(たかし)の視線を追ってみると、晴貴好みの綺麗な黒髪の女性…・。
初等部同窓会と書かれた会場案内に自分達よりはいくらか若い男女とすれ違うなとは思ったが、あの中に崇(たかし)の知っている人でもいるのだろうか?
「知り合いでもいるのか?」
「いや、そういうわけじゃないが」
「そうか―――あれ?あれは、蒼井開発の…」
蒼井 巨哉(あおい なおや)…。
忘れもしない崇(たかし)は江上商事のパーティー、そしてあのレストランで食事をしている二人を見て以来、訳のわからぬ悶々とした日々を送っていたのだ。
ちょうど向こうの会場から出て来るところだったが、彼の出身校は―――となるとさっきの彼女も同級生ということになる。
待てよ―――。
『森永、どうしたんだ』
長島という名の彼が彼女に気付いた時、そう言ったように聞こえたのは崇(たかし)の気のせいだろうか…。
そして確か、経歴に書いてあった彼女の出身大学も同じ系列だったはず。
となるとやはり…。
しかし、蒼井 巨哉(あおい なおや)と森永という名前が一致したからといって、今の彼女がという理論が必ずしも成立するとは限らないし、どうしたってあの二人は似ても似つかないのだから。
+++
「まだ、残っていたのか?」
時刻は夜の9時を回ったところ、てっきり崇(たかし)は梨華が帰宅したものとばかり思っていたが、まだ残っていたとは。
「どうしても、これだけは調べておきたかったものですから」
「もう遅いし、俺も帰るから無理することないぞ」
「もう少しだけやっていきます」
「いいから、送るよ」と言われてしまうと、この前の食事の件もあるしそういつもいつも無理には断れない。
―――だけど、送ってもらうのは…。
取り敢えずパソコンをシャットダウンして、デスクの上を素早く片付けると電気を消して二人は部屋を出たが、廊下はすっかり薄暗く物音一つしない、この時間ならまだ誰かは残っているはずの他の役員達も今夜は全員帰宅してしまっていたのだろう。
止まっていたエレベーターに梨華が先に乗ると駐車場のある地下1階のボタンを押し、後に1階のボタンを押そうとしたのだが…。
「送ると言っただろう」
「ですが…」
「今夜くらいは俺に付き合ってくれても、罰は当たらないと思うけど」
「えっ」
―――付き合うって…。
チーンっという音と共に地下1階で止まったエレベーターの扉が開く。
降りて行く崇(たかし)の後を仕方なく付いて行く梨華だった。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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