「乾杯」
ウィスキーの入ったグラスを顔の辺りまで掲げると、社長はそれを飲み干した。
ここは会員制の華というクラブで、ホステスは美人なうえに才女揃いで有名だったが、佐脇が来るのは初めてだった。
相手をしてくれている女性の名は百合さんと言ったけれど、綺麗なだけでなく控えめながらも空気を読んで接してくれるあたりは噂以上だ。
佐脇が今まで付き合ってきた女性と違うのは一目瞭然だろう。
いつもは決まった客にしか接客しないそうだが、今日は特別。
彼女を見ていると自分の秘書を思い出してしまうから不思議だった。
彼は社長に続いてグラスに口を付けた。
「娘は何で、ミス東城への出場を急に止めたのかな」
「私は楽しみにしていたんだが」新しく作られたウィスキーのグラスを手の上でゆっくりを転がすとカラカラと氷が音を立てる。
今夜、彼を誘った目的はこれだったのだが、香に聞いても自分に向いていないからだの一点張り。
「僕が少し調子に乗り過ぎました。香さんを怒らせてしまったようです」
秘書を辞めるとまで言われるほど、彼女を怒らせてしまった。
初めて会った時を思えば、手が飛んでこなかっただけ、良しとしなければ。
「いい写真だったのに。おかげでイベントが盛り下がったと広報からの残念だという声が私のところまで来ているよ」
「申し訳ありません」
返す言葉がないが、だからといって彼女にもう一度出るようにと佐脇が言える立場ではない。
「いっそ、君が出たらどうかね」
「役員は出られないことを社長が一番ご存じだと思いますが」
役員の出場を制限したのはここにいる社長の考えだ。
今更、出ることになっても彼女が辞退した今となってはその意味もない。
仮にミスター東城に選ばれたとしても、他の女性とほんの少しでも行動を共にする気にはなれなかった。
「そこなんだよ。私が変えてしまえばいいなら、そうするつもりだが」
社長が決めたことであれば社員も納得するかもしれないが、そうとはいっても自分がホイホイ出るかというと、そこはやはり彼女の気が変わらない限りどうすることもできない。
「僕が出るより、香さんにもう一度考え直してもらう方がいいのではないですか?」
「いいのかい?君はそれで。他の男が香と一緒に一年間、会社の広報活動をすることになるんだよ。私は君の方から出場させて欲しいと言ってくれるのを期待して待っていたんだが」
例え、佐脇がそう思っていても自分の我儘を通すわけにはいかないし、だいいち、それで彼女が考え直すとは限らないのだから。
「仕方ないでしょう。僕からもう一度、彼女に頼んでみますよ。会社の声を聞けば考え直してくれるかもしれません」
佐脇はグラスを飲み干したが、頑固な彼女に対し、初めから負けとわかっている戦を仕掛けることは、今まで誰にも負けたことなどない彼にとって到底無理のことに思えてならなかった。
「おはようございます」
香がいつものように出勤すると何やら秘書室が騒がしい。
「あっ、おはよう香さん。ちょっとこれ見て」
吉崎にパソコンの画面を指さされて覗いてみると、そこには副社長の社内向けのインタビュー記事が、そして。
えっ…ミスター東城に佐脇副社長が立候補!!
今まで役員の立候補は認めなかったはずなのにどうして。
「副社長がミスター東城に立候補するんですか?」
「まだ、決まったわけじゃないわよ。それは香さん次第」
「私、次第って?」
「それは、香さんが再出場したらの話よ」
「は?どうして、私が」
「ほら、ここを見て」再び指さす場所にもう一度目を向けると、確かに香がもう一度ミス東城に出るのであれば、自分も規定を変えてでも出るつもりだと書いてある。
自分だけならまだしも、そこになぜ私まで。
「こんなふうに出ちゃったら、みんなも、前以上に期待を持つと思うの。もちろん私もだけど」
誰もが後継者といわれている副社長と社長令嬢のセレブの恋を夢見ているから。
「副社長はどうしてこんなことを」
「香さんが辞退した理由が自分にあるから、それともう一度この企画を盛り上げる使命があるからね」
元々、ミス東城に出たかったわけじゃないし、あのキスを口実にして都合よく逃げただけ。
「私は別に」
「少なからず、香さんにもこの東城を担う責任はあると思うの。これはお祭りなんだもの、そう深く考えないで乗せられてみたら?」
「他人事だと思ってません?」
「見ている方は楽しいもの」
あぁ…一難去ってまた一難。
よりによって、彼がミスター東城に出ると言いだすなんて。
幸か不幸か、副社長は名古屋まで日帰りの出張に出てて今日は出社しない。
なのに一日顔を合わせないと何となく寂しいと思ってしまう自分、これは上司と部下の間に生まれた信頼関係のせいだと言い聞かせた。
特に問題もなく定時になろうとしていたが、一言会社に連絡して来てもいいのに。
不意に浮かんだ馬鹿げた考えに香はふるふると首を振った。
「ただいま」
背後から、たった今ほんの少しでも聞きたかった声が。
とうとう幻聴まで聞こえるようになったのか、そこまで彼の存在が自分の中に住み着いていたことがショックだった。
「俺の優秀な秘書は、お帰りなさいの言葉くらい掛けてくれるものだけどな」
はっと振り向くとお土産だろうか、「はい」と紙袋を顔の前に差し出されて受け取った。
名物の“ゆかり”は香も大好きだ。
「お帰りなさい。今日はもう戻らないと思ってました」
なんだか、夫婦の会話みたいで恥ずかしい。
顔が赤くなっていないか心配だったが、ほんの一瞬でも顔が見られたことがこんなにも嬉しく思うなんて。
「その予定だったけど、一日君の顔を見ないと落ち着かなくてね。定時ギリギリで間に合って良かった」
副社長も同じように思っていてくれたの?
不意の言葉に香の心臓はわけもなく鼓動を速めた。
いや、女性なら誰でもこういう言葉を口にするのかもしれない。
疲労の色は隠せないが、誰もがその笑みに心を奪われる。
「これから、またお仕事ですか?」
「いや、これから君と食事に行こうと思って。ほら、もう終業時間だ。片付けて帰るぞ。昼も忙しくてまともに食事をする暇がなかったんだ」
「え…」
香の予定など聞かずに勝手に仕切る佐脇。
聞かれたからといって断る予定がないことがもどかしい。
パソコンの電源を切られて、小さく溜息を吐くとなく席を立った。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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