偽りの向こうに
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「あの…副社長、どうしてここに?」

「この時間は大事な会議なのでは?」女子社員からの痛いほどの視線を浴びながら、香はこっそり佐脇に話し掛けた。
重要な会議のはずなのにどうしてこんなところへ、それもエスコート役になど自ら買って出たのだろうか?
それにしても、毎日顔を合わせているはずなのに何て彼は素敵なのだろうか?
って、見惚れている場合じゃない。
副社長の隣でにっこりなんて微笑むことなんてできるわけがない、むしろ引きつった最悪の写真になってしまうに違いないのだ。

「ん?会議は明日に延期したよ。大事な秘書がミス東城に出場するっていうのに上司の俺が知らんふりってわけにもいかないからね」

「僕はどうすればいいのかな?」佐脇が広報課の男性に尋ねると「東城さんの隣に寄り添っていただけますか?恋人同士のように」調子に乗ってとんでもないことを言っているが、彼もまんざらではない様子、どころか香のすぐ目の前に近付いて来て、わけもなく心臓の鼓動が速くなった。

「副社長、近付き過ぎですよ」
「え?こうしろって言われてるからにはね」

佐脇は香の横に立つと左腕をそっと彼女の腰に回す。
そして、愛し合う恋人たちのように彼女の目を捉えて離さなかった。

「ちょっ、副社長!!くっ付き過ぎですって」

香の激しい抗議など全く耳に入っていない彼は、早く写真を撮るようにカメラマンを促した。
初めて触れる彼女はとても繊細なガラス細工のようで、力を込めればすぐにでも粉々に壊れてしまいそうだったが、それでいてとても柔らかく、微かな彼女の香に佐脇は我を忘れて酔いしれてしまいそうだった。
この役を自分以外の男がやると考えただけでも腸が煮え繰り返り、平常心でなどいられない。
それだけ、彼女は美しかったし、例え東城の一人娘でなかったとしても佐脇がなんとしてでも手に入れたいと思う女性だった。

「はい。二人とも笑って」

「そうそう、いいですよ」その気になり過ぎのカメラマンは時間も忘れて写真を撮りまくっていたが、香は腰に触れる彼の力強い腕を、寄り添う引き締まった体から伝わる熱を感じて全身が燃え上がって溶けてしまいそうなくらい熱くなるのを感じていた。
親密な男性との付き合いがない彼女にとって、机上の空論でしかなかった心とは相反する肉体的な感情。
服を脱ぎ捨て生まれたままの姿で彼に抱かれたとしたら、一体…。
私ったら、真昼間から何を考えているのっ!!
今までの自分なら、心の奥底に押し留めていた絶対に表面には出さない思いだったはず。
それが、彼と出会ってからというもの、わけもなく湧きあがってくるのだ。
体の中心が熱くなって、冷静沈着な自分がどこかに消えてなくなってしまいそう。

「香、どうしたんだい?」

耳元で囁かれ、はっとして佐脇を見つめる香。
初めて名前を呼ばれ、それだけで思考回路がマヒしてしまう。

「そんな目で見つめられたら、自分を抑えられなくなる」

不意に重なる唇、香の腰に回されていた彼の腕の力が強まって抱き寄せられる。
もう何が起きているのかわからなかったが、ただ彼のキスを受け入れていたい、このまま時が止まってしまえばいいとさえ思えるほど、身も心も満たされた思いでいっぱいだった。
すかさず、カメラマンは二人のキスシーンを写真に収めていた。
時間にして数秒のことだったが、香にとっては何時間にも感じられるほど、濃厚で充実したものだった。
唇が離れた時、喪失感にさいなまれたが、その瞬間、周りを取り囲む視線と歓喜の声を一気に浴びて香はようやく我に返った。
あぁ、私は今、何をしていたの?

「素敵な写真が撮れましたよ。ご苦労様でした」

広報課の人たちは、顔を突き合わせてカメラの画像をチェックしている。
香はまだ佐脇が体に触れていることを意識して、慌てて体を離すと彼の顔を睨みつけた。
何食わぬ顔でこっちを見つめる佐脇の瞳はとても優しく、たった今の屈辱的な行為を考えれば当然許せないはずなのになぜか、全てを許して引き込まれそうになってしまう。

「さぁ、俺たちも戻ろうか。次の人が待ってるからね」

さっさと行ってしまう佐脇の背中を見つめながら、香は5分前の出来事を記憶から消してくれる魔法使いがいないかどうか、真剣に考えていた。



「そんなに怒らなくても」

「軽い冗談なんだから」美しく頭が良くて完璧な秘書を一生懸命なだめているものの、口をへの字に曲げたまま、大きくて魅力的な瞳で佐脇を睨みつける。
それもそうだ。
ミス東城に出るだけでも厄介事を引き受けたと思っていたのにそれだけでは済まず、よりによって女タラシの副社長とキスしたところを多数の社員に見られた上に写真に撮られたなんて。
画像が全社員の目に留まるのも時間の問題。
東城家始まって以来の汚点を残すことになってしまった。
もしも、これがネットに流出するようなことがあれば、今度はマスコミも黙ってはいないだろう。
平穏な日々が、これで一気に墜落の日々に変わるのだ。

「冗談にも、ほどがあります。誰が、キスをしろと言いましたか?」

会話をするのも腹が立つ。
それは、彼の非常識な行為にもあるが、それに応えてしまった自分への怒りもあったからだ。
あの画像をお父様が見たら、何て言うかしら?
二人を結婚させて東城を継がせようとしているのであれば、喜ぶかもしれないが。

「あの場面ではキスするしかなかったんだ。年甲斐もなく我慢できなかった」

佐脇はいつになく正直に気持ちを話すと、すまなかったと謝罪の言葉を述べた。
女性関係が派手な彼にとってキスなんて日常茶飯事と思っていたが、そうではなかったことにひどくショックを受けていた。
まるで、初めてキスをした時の少年のように甘くてせつない、言葉では表現できない気持ちが体を埋め尽くしたのだ。

「我慢できなかったって、それが副社長の言葉ですか?」

「信じられません」香は軽蔑の眼差しで佐脇を見つめたが、本当は彼だけを責めることなんてできないと心の中では思っていたのだ。
私だって、あの時キスして欲しいと思ったんだから。
それを悟られないように再び睨みつけた。

「全く、面目ない。広報へは俺からあの写真は使わないように言っておくよ」

それを聞いて安堵する香。
お父様に見られる前になんとかなりそうで良かった。

「それなら、私はこの件についてもう何も言いません」

ギャラリーに見られてしまったことは消しようのない事実だけれど、吉崎にも散々言われるのはわかっているが、サービスだったと思えばイベントを盛り上げる口実にはなるはずだ。

「良かった。これで、君とは今まで通りの良好な関係に戻れるわけだ」

佐脇は、これ以上、香に冷たい目で見られるのは耐えられそうになかった。
だからといって、あのキスを忘れられるかと言えば、答えはノーだ。
彼女の父親から、この東城を継ぐ代わりに彼女との結婚を打診されていたのは事実だが、金と地位に惑わされて愛してもいない女性との絆を築く気は佐脇にはなかったからだ。
女性関係が派手と言われようと家庭を築く女性、自分の血を分けた子供を生んでくれる女性は心から愛した人でなければならない。
そんな、たった一人の女性に巡り合えた気がしていた。

「どうでしょう。それは副社長次第じゃないですか?」

いたずらっぽく微笑む彼女、穏やかな日に照らされた紛れもない佐脇にとっての女神だった。


※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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