幸運は舞い降りた
<3>


いつもビルの裏口にしか足を踏み入れたことがなかった理一(よしかず)は、初めて表から堂々と中に入る。
何だか妙に緊張するというか、どうしても場違いとしか思えない。
それでも、天沢 菊音(あまさわ きくね)が自分を待っていてくれたことが嬉しかった。

扉を開いて待っていたエレベーターに二人が乗ると、彼女が押したのは20のボタン。
その倍くらいボタンの数はあって、確かに毎日荷物を扱う量は多かったが、一体どれくらいこのビルの中に会社が入っているのかは想像もつかなかった。
チーンという音と共に開いた扉を抜けるとホールが広がっていて、彼女に引っ張られるようにしてその奥へ。
入口の受付嬢らしき女性が二人、彼女の姿を見るや否や立ち上がって深々と頭を下げた。
慣れない理一(よしかず)はつい彼女達に釣られて頭を下げてしまったのだが、そんな彼を見て天沢 菊音(あまさわ きくね)はわからないようにクスクスと笑っていた。

男に追われていたことから怪しい会社の社長だとばかり思っていた理一(よしかず)だったが、フロア内に入ってびっくり。
一面にズラリと並んでいるデスクにはほとんどが女性で、パソコンの画面に真剣な表情で向かっている人もいれば、ガラス張りのミーティングルームで何やら会議をしている人達もいる。
そこには、男の理一(よしかず)は見てはいけないようなものが並んでいて…。
社名のPRIMAVERILE(プリマヴィリーレ)とは何の意味なのかさっぱりわからなかったが、まさか…嫌な予感がするのは気のせいか、それとも…。

広いフロアを通り一番奥の突き当たりにあった重厚な扉を開けると理一(よしかず)のアパートがいくつ、いや建物ごとすっぽり収まってしまうのではないかと思うほどの室内には中央に大きなデスクが一つと応接セットがデーンと我が物顔で構えていた。
20階とはいっても周りに囲まれている建物はそれ以上の高さのビルばかりだったから、決して長めのいいものとは言えないまでも、夜景はかなり美しいだろうと思った。

「どうして、もっと早く来なかったの?」

「私、ずっと待ってたんだから」と天沢 菊音(あまさわ きくね)は、ソファーに腰を下ろして長い足を組んだ。
最低限の灯りしか点していなかった理一(よしかず)の部屋で見た彼女よりも、日の光に照らされる彼女は数倍美しく見えた。
つい見惚れてしまって問いに反応するのが遅れたが、『どうして、もっと早く来なかったの?』と言われても来るつもりなど毛頭なかったのだから。

「そんなこと言われても、俺は来るつもりなんてなかったんだ」

理一(よしかず)はそのまま窓際に立って、小さく動く人や車を眺めていた。
自分もあの中にいたのだと、こうやって上から見下ろされる人間なんだなと思ったら、なんだか無性に悲しくなってきた。

「なら、どうして来たの?」
「それは、俺が聞きたいさ」

背後から投げかけられた質問に、理一(よしかず)は振り返って答える。
―――急に宅配便の会社をクビになったんだから、仕方ないだろ。
突然呼び戻されたと思えばいきなりクビ、寝耳に水とは正にこのことだろう。
バイトだったとはいえ、もう少し長く勤められると思っていたのに、それも配達の途中だったというのにこの宣告はどう考えても納得できなかった。
とはいっても、理一(よしかず)にはどうすることもできず、泣く泣く受け入れざる負えなかったが、家賃も未払いの身だし、次の仕事なんかそう簡単に見つかるはずもない。

「宅配便の会社をクビになったこと?」
「はぁ?何であんたがそれを知ってるんだ。って、まさか…」

宅配便会社からも理一(よしかず)の勤務態度は良好だと太鼓判を押されていたし、お客様からも苦情は一切ないどころか、褒められることの方が多かった。
どうにも腑に落ちない部分はあったが、まさか彼女が裏で手を回して…。
さっきだって、グッドタイミングで現れたのも偶然じゃなかったということ。
しかし、どうして?
わざわざ、バイト先に手を回してまで理一(よしかず)をここに来させる意味が一体どこにあるというのだろうか。

「何でだよ。あんたに何の権利があって」
「何となく?」
「あ…あのなぁ。何となくで俺の人生壊さないでくれよ。っつうか、既に壊れかけてんだけど…。このままいけば、借金だって返せたはずなんだ」

―――何となくで、俺の人生めちゃめちゃにしないでくれよ。
そりゃぁ、あんたはこんなオフィスを構えられる社長だからどうにでもできるのかもしれないけど、俺は毎日が生きるか死ぬかの瀬戸際なんだ。
あんたの道楽に振り回されるのは、真っ平御免だぜ。

「いいの?それで」
「いいも何も、あんたには関係ないだろ。そこまでするなら、払ってくれるのかよ。俺の借金をさ」

理一(よしかず)は天沢 菊音(あまさわ きくね)の側まで近寄ると思わず胸倉を掴みそうになったが、相手は女性、ここで問題を起こしたりしたら益々未来がなくなってしまう。
綺麗だと思った顔も、今では憎い以外の何者でもなくなっていた。

「もちろん、そのつもりよ」
「あ?今、何て…」
「人の話はきちんと聞きなさい。私は一度しか言わない人間なの。いい?あなたの借金を全て肩代わりするわ」

―――肩代わり?
してくれるものならして欲しい。
自分で作りたくて作った借金じゃないだけに何とかなるものなら…。
でも、そんなウマイ話があるのかよ。
俺はそうやって、今までずっと騙されて続けてきたんだ。
信じられるわけ、信じるなんて言葉は俺の中から消えてとっくになくなってんだよ。

「ご丁寧に遠慮させてもらう」
「え?」

喉から手が出るほどお金が欲しいはずの理一(よしかず)が、肩代わりの件を断るとは思わなかったのだろう。
天沢 菊音(あまさわ きくね)は、組んでいた足を下ろすと前に乗り出すようにして理一(よしかず)を見つめている。

「あんたに何とかしてもらおうと思った俺が、馬鹿だったんだ。また、地道にバイト先を探すさ」

「じゃあな」と出て行こうとする理一(よしかず)に天沢 菊音(あまさわ きくね)は大声で言葉を投げつけた。
内容もさることながら、その声の大きさに理一(よしかず)は驚いて体をビクッとさせた。

「あんた男でしょ、ちゃんと付いてるんでしょ!このまま終わっていいわけ?見す見すチャンスを逃してどうするのよ!!」

綺麗な顔をして言うことはすごいな、なんて感心している場合じゃない。
理一(よしかず)だって、このまま終わっていいなんて思っていない。
だけど、これがチャンスなのかどうかなんて誰にもわからないし、人を信じられなくなっている理一(よしかず)に得体の知れない天沢 菊音(あまさわ きくね)が何を言っても聞き入れられるはずがないのだ。

「一応、俺も男だから付いてるけどさ。何なら、試してみる?」

イタズラっぽく言いながら、再び引き返すと彼女の顎に手を掛けて至近距離でジッと見つめる。

―――何て、綺麗な顔なんだ。
吸い込まれてしまいそうなブラウンの瞳に今すぐ味わってみたい、艶やかなピンク色のぷるんっとした唇。
騙されてもいいから、一度だけ…。

危うく麻薬に手を出してしまいそうだったが、寸でのところで我に返る。

「冗談は止めて」
「あんたこそ止めろよ、悪い冗談は」
「私は冗談なんか言わないわ」

彼女は理一(よしかず)の首に腕を回すと、グイッと自分の方へ引き寄せて唇を合わせる。
そんな予期せぬ行動に理一(よしかず)は一瞬金縛りにあったように体が動かなくなってしまったが、あまりの心地良さに自然に腕を伸ばして彼女を抱きしめていた。


毒に犯されてもいい、今だけは。


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