恋路
中編


「…なちゃん、加奈ちゃん」

「加奈ちゃん」と何度も耳元で囁かれ、ゆっくり目を開けると霞んだ焦点を合わせていく。
すぐ目の前にカッコいい男性の顔が…。

「うわぁっ」
「加奈ちゃん、大丈夫?」

―――えっと、えっと…。
そうだ!この人は確か、友達の萌に誘われて軽井沢に行くために一緒に車に乗ったはずで…。
途中までは確か他愛のない話をしていたような気がするが、その後どうしたのか全く思い出すことができない。

「着いたよ。寝ボケちゃったかな?」
「え?」

もう、着いたの?
時計を見れば、出発して既に数時間が経っている。
―――やだっ、あたしったらこんなに長い間、眠ってたんだわ。
あちゃー、初対面の人にそれも男性の前で無防備な寝顔をさらしてしまうとは…。
それより、ヨダレとか垂らしてなかったかしら?
気付かれないようにそっと口元に手を寄せると、それは何とか大丈夫そうだ。
はぁ…良かった。

「先こ行ってるって言ってたんだけど、お二人さんはまだ着いていないようだね」
「そうなんですか?」

―――何よぉ、二人してどこほっつき歩いているの?
取り敢えず車から降りると両手を思いっきり上げて、あたしはギューっと背伸びする。
木々に囲まれたそこは、都会とは空気が一味も二味も違う気がした。
それにしても、いい車というものは、いい眠りまで用意してくれるものなんだなと感心したりして。
しっかし、随分とまた立派な別荘だこと。
デーンっと聳え立つその建物はうちの実家より大きいのではないかと思うくらい、別荘というよりも屋敷で、年代を感じさせる黒い木造と白壁がマッチしたとても素敵な洋館だった。
見上げれば屋根の上には煙突もあるから、冬には深々と降り積もる雪を眺めながら暖炉に火を灯し、彼との素敵な時間を過ごしたり。
かぁっー、何と羨ましいの。
それなのにどうして、萌はあたしを誘ったりしたのかな。

トランクから荷物を降ろし、それを片手で抱える彼を見つめながら加奈は思う。
もしも、こんな素敵な別荘に彼と二人っきりで過ごすとしたら…。
さっき会ったばかりの男性とそんなことを考えてしまうあたり、自分は欲求不満なのだろうか。
彼に心の内を悟られないように顔をブルブルと左右に振る加奈のすぐ側で、携帯電話の着信音が鳴り響く。
―――あっ、きっと萌から。
ディスプレイを確認すると加奈は急いで通話ボタンを押す。

「もしもし、萌?今、どこにいるの?先に行くって言ってたのにあたし達、もう着いちゃったわよ」
『加奈?ごめんね。そのつもりだったんだけど、悠(ゆう)のところに急に会社から電話が入っちゃって。どうしても、彼が行かなきゃ解決しない問題で。今、東京に引き返してるの』
「はぁ?引き返してる?嘘でしょ、あたし達はどうするのよ」

―――何てこと?
そりゃあ、児島(おじま)さんは常務なんて偉い人だから休みの日でも仕事の電話が入るのはわかる、わかるけど…あたし達はどうなるのよ。
せっかく来たのに日帰り?
だからって、他にどうすることもできないんだけど…。

『せっかくだから、二人でどうぞ?こんなこともあろうかと、鍵は森さんに渡してあるから』
「え…二人でどうぞって…」

それにこんな時もあろうかって、準備し過ぎじゃないの?

『レストランも予約してるから、もったいないでしょ?ゆっくりして来たら』なんて、電話の向こうで暢気なことを言っている萌。
冗談でしょ?!
どうして、あたしが初対面の男の人と一つ屋根の下で過ごさなきゃならないのよ。
信じられない。
こんなことになるなら、誘いに乗るんじゃなかった…。
あぁ〜ぁ。

「わかったわよ。どうせ、来られない人と話しても仕方ないもんね」
『ごめんねってばぁ、そんなにふて腐れないでよぉ。ねぇ、森さんは加奈の好みじゃなかったの?』
「え?そっ、そういうわけじゃ…」

ないけど―――。

加奈の会話を聞いていて、森さんもこの状況を察したのだろう。
『困ったな』という顔で、こっちを見ている。
彼は素敵な人だと思うけど、それだけで他に特別な思いがあるわけじゃない。
だいたい、ここまで来る道すがらも車内で爆睡していた加奈はまともに会話さえしていないのだから、好みとかそういう問題ではないと思う。
だいいち、彼だって加奈と二人っきりでこの別荘で過ごすことに賛成するはずがない。

『加奈の気持ちもわかるんだけど、森さんのことをちゃんと見てあげて』
「わかってるけど…」
『今日は、ほんとにごめんね。隣で悠(ゆう)も謝ってるから』

車の運転をしているであろう児島(おじま)さんは電話には出られないから、声だけが後ろから聞こえてくる。

「ううん、この場合しょうがないもん。気を付けて帰ってね」

「じゃあね」と電話を切ったものの、さてどうしよう…。

「二人とも、来られないって?」
「はい。児島(おじま)さんが、会社から呼び出されちゃったらしいんです。東京に引き返してるって」
「そうか、それじゃあ仕方ないよな」

森さんもこればかりは納得するしかないわけで、問題はこれからどうするか。
二人のようにこのまま帰るか、お言葉に甘えて泊まって行くか…。

「どうしましょう。萌ったら『せっかくだから、二人でどうぞ?』『レストランも予約してるから、もったいないでしょ?ゆっくりして来たら』なんて、冗談言って」

―――あはは…。

もう、こうなったら笑って誤魔化すしかないわよね?
こんなこと、真顔で言う話じゃないもの。
帰る前に萌じゃないけど、“せっかくだから”峠の釜飯を買って、アウトレットでもちょこっと覗いて行こうかしら?

「そうだね。悠(ゆう)から鍵を預かっておいて、良かったかな」
「は?!」

―――あたしの空耳?今、そうだねとか何とか聞こえたような…。
まさか…この人は、泊まって行こうなどということを考えたりしていないでしょうねぇ。

「ここで立ち話もなんだから、疲れただろう?中に入ろうか。加奈ちゃん眠ってたし、お昼も食べずに来たからね。途中で峠の釜飯を買ったんだよ。加奈ちゃん、嫌い?」

―――何?峠の釜飯を買った?
彼の手には、自分と加奈の荷物と一緒に釜飯が2つ入ったどニール袋が。
それと同時にお腹がグぅ〜とか鳴り出す始末。
嫌いなんて、とんでもない。
峠の釜飯は大好きだけど、ものすご〜く食べたかったけど、このままこの家の中に入ってしまったら、後戻りできないような気がして…。
というか、いいの?森さんは。

「いいえ、そんなことは…。それより、時間も時間ですし戻らないと今から帰っても着くのが遅く―――」
「じゃあ、お茶でも入れるよ」

森さんは渡されていた鍵で玄関のドアを開けると、先に加奈に入るように目で合図する。
車に乗せてもらう時も降りる時もそうだったけど、彼はとても紳士だから、こういうことをされるとコロっといってしまいそうになるのだ。
サマになっているだけに厄介かもしれない。
ついつい見惚れている自分を誤魔化すように加奈はとっとと中へ入ったが、それを目の当たりにしてしまったら益々帰れなくなってしまうほどの空間が広がっていた。

「わぁ、素敵」

高く吹き抜けた玄関ホールは明るく開放感がって、正面壁に置いてあるマッキントッシュのヒルハウスが一際印象的だ。
加奈は森さんに促されるようにお宅訪問気分で横にあるドアを開けると、そこは同じように吹き抜けになっている何十畳あるかわからないほど大きなリビング。
一面の大きなガラスに中央の一段低くなった円形暖炉と奥の螺旋階段が何とも言えず、加奈はもう誰とどうして自分がここへ来ているのかも忘れてしまうほど、うっとりした気分に浸っていた。

「この家は、親父がまだ若い頃に設計したんだ」
「森さんのお父様?」

「将来、自分のための別荘を建てようと設計したものを親友に持っていかれた」と話す森さんのお父様は、有名な建築家だった。
若い頃に設計したと言っていたが、今見ても斬新なデザインで、その時から才能は開花していたのだろう。
―――そう言えば、森さんも建築士だって言ってたけど、彼はどんな建物を設計しているのかしら?

「森さんは、どういう建物を設計してるんですか?」
「俺?俺は、まだまだ駆け出しだからね。親父の手伝いで精一杯。やるからには大きなものをっていう希望はあるけど、最終的にはこういう個人の家を設計したいと思ってる」

「いつでも、家族が集まるような家をね」と夢を語る彼は、すごく輝いて見えた。
話し口調からは軽い人かと思ったが、実際はそうじゃない。
―――それに比べて、あたしには夢なんてないもんなぁ…。

色んな意味で世界が違う人。

そう思ったら、何だかすごく寂しかった。 


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