コンっ
コンっ
扉を叩く音に薄っすら目覚めた智香(ともか)だったが、体が鉛のように重くて思うように起き上がれない。
―――まさか、遼佑(りょうすけ)じゃないわよね。
「お嬢様、おはようございます。お目覚めでしょうか?朝食の用意が出来てますので、いらして下さい」
お手伝いの由香の声に安堵した智香は取り敢えず「わかったわ。すぐ行くから」とだけ返す。
とても朝食を取る気になどなれないが、いらぬ心配を掛けないためにも這うようにしてベッドを出ると自分専用のバスルームでシャワーを浴びる。
―――昨日は、このまま寝ちゃったんだ。
化粧も落とさず、服もそのままで寝てしまった理由を思い出してハっとした。
遼佑との結婚。
心の奥底に封印してしまいたい記憶。
このまま、シャワーで洗い流せたら、どんなにいいか。
身支度を整えた智香は気が重いままダイニングに顔を出すと、和んだ雰囲気の中に彼の姿が。
―――は?
こんなに早く、何しに来たのよ。
さっき、由香が部屋に来た時、ちょっとでも遼佑の顔が浮かんだクセに…そんな思いを隠すように彼と両親に形式的な挨拶を交わす。
「おはよう、智香。気分はどうだい?」
「え、えぇ」
「お蔭様で」と作り笑顔を浮かべて智香はテーブルに着いたが。
―――私が逃げやしないか、見張るために来たんじゃないでしょうねぇ。
『まさかね』と思いながら、用意された味噌汁に箸を付けるとあぁ〜日本に帰って来たのだとしみじみと感じたりして。
黒部家では父の嗜好で朝は和食と決まっていたが、懐かしい味に現実をほんの一瞬だけど忘れられたような気がした。
「休みの日だってのに随分、お早い訪問だこと」
嫌味な言い方だとわかっていても、ついつい憎まれ口を叩いてしまう。
「結婚式や披露宴の細かい打合せをしようと思って。招待者を決めたり、場所も早めに確保しないと。もちろん、智香が最優先だからドレスの準備とか、女性の場合は色々時間も掛かるだろうしね」
―――そんなことのために朝っぱらから来たってわけ…。
あらあら、随分とご熱心だこと。
「私は何でも、遼佑のお好きなように」
「何、言ってるの。こうして、わざわざ朝早くに来て下さったのに。智香も遼佑さんにばかり頼ってないで、自分のことなんだからしっかりなさい」
「そうだぞ。舘花家の嫁として恥ずかしくないようにしなければならんのに」
父と母の攻撃に遭って、それ以上何も言えなくなる。
―――何が、舘花家の嫁よ。
元はと言えば、お父様の会社のせいで、私が好きでもない人と結婚させられる羽目になったっていうのに。
話をしてると現実を突き付けられて益々、憂鬱になってくる。
「そんな顔してないで、早く食べちゃいなさい。遼佑さん、待ちくたびれてるわよ?」
「は〜い」
―――ニューヨークで自立したはずが、これじゃあ、何時まで経っても子供みたい。
さっきは食べたくないと思ったのにやっぱりお腹が空いていたのか、智香は朝食を綺麗に食べ終えると、仕方なく彼と一緒に出掛けることにした。
遼佑の運転する黒いフェラーリがどこへ行こうとしているのか、それすらも今の智香には、はっきり言ってどうでも良かった。
ただ、3年の間に東京も随分と変わっていたことに驚かされる。
「さっきも言ったけど、私は結婚式なんてどうでもいいの。遼佑と両親で勝手に決めてくれて構わないわ。それより、できるだけ早くニューヨークに戻りたいんだけど」
智香の視線は窓の外を向いたまま、こんなことになる前ならば、やはり女として結婚式にも憧れがあった。
ニューヨークで手作りのアットホームな式を見て、お金を掛けなくても温かい心の篭ったものができるのだと思ったし、自分も願わくばそうしたい。
こんな愛もなければ、贅を尽くしただけの結婚式なら、やってもやらなくても同じ。
「君が戻る必要はないよ」
「え?それ、どういう意…」
―――はっ、まさか、既に私の出る幕はないってこと…。
お父様が倒れたって嘘をついて、私が帰国した時点で遼佑がしっかり手を回していたんだわ。
ううん、彼なら遣りかねない。
心配しなくても逃げるつもりなんてなかった、せめてお世話になった人にはきちんとお別れの挨拶くらいしたかったのに…。
これで、私には完全に居場所がなくなったってわけ…。
「何でも、自分の思い通りなのね」
「そうでもないさ」
「あら、そうならないことなんて遼佑にあるの?欲しいものなら、全て手に入る今のあなたに」
信じられない。
お金も地位も名誉も持っている遼佑に思い通りにならないものなんて、この世の中にあるなどと。
「あるよ。ずっと俺のものにしたかったのに、どうしても手に入らないものが世界にたった一つだけ」
「えっ?」
真っ直ぐに前を見つめる彼の目はどこか寂しげで、その手に入らないものとは一体、何なのだろう。
それを聞いたところで、智香には関係のない話。
自分には好きな人と結婚するという夢すら、叶わないのだから。
+++
噂というものは、どこでどう広まるものなのか…自分の口からは誰にも言っていないのに連日、お祝いの品々が智香の元へ届けられる。
恐らく両親に違いないだろうが、あれでも娘の幸せを願っているのだと思うと胸が痛かった。
職を失った今、家に居ても何もすることがない智香は父のベンツを借りて街へ出ることにする。
特に行く当てもなかったけれど、律儀に毎晩のように家に顔を出す遼佑の会社に突然現れたらどういう対応をするか、彼を困らせる以外の何者でもないことはわかっていたが、それを楽しみたい自分がいるのも確か。
―――どんな顔するかしらね?それに…。
初めて来る巨大グループの本社ビルは、単なる企業というより、一つの国を見ているようだった。
活力に溢れ、国際色豊かな顔ぶれが軽い打ち合わせなどを行っていたが、エントランスに入っただけで智香は社員達の注目の的。
それもそのはず、自分でも史上最悪にして悪趣味の体の線がバッチリ出たド派手な獣柄のミニのワンピースに歌舞伎役者並の厚化粧。
これだけ、おバカっぱい姿でこの場に現れれば、結婚相手がこんな女だったのかと社長の人気もガタ落ちだろう。
いい気味よ。
ツカツカとヒールの音を立てながら、颯爽と受付嬢の前で仁王立ちする智香。
「社長、いるかしら」
「申し訳ございませんが、社長はアポイントのない方とはお会いにならないことになっております」
―――ほら、きなすったっ!!
言うと思ったのよ。
あなた達、私を誰だと思ってるの?
「あら、あなた達、社長の婚約者の顔も知らないの?遼佑ったら、社員にどういう教育をしてるのかしら」
婚約者というひと言に顔色を変えた受付の女性二人。
あぁ〜すっきり!!黄門様が印籠を見せた時って、こんな気分なの?
「すぐに呼びなさい。黒部 智香が来たと」
受付の女性が慌てて秘書室に電話を掛ける姿を眺めながら、自分でも何やってるんだろうと呆れると共に馬鹿馬鹿しくもなってくる。
だけど、ここまで来た以上、どうにでもなれって感じよ。
―――そうよ、これで彼も結婚を考え直すかもしれないんだから、とことんおバカになってやろうじゃないの。
待つこと5分、本人が登場するかと思えば彼の秘書なのか、これまたスタイルのいい綺麗な女性が智香を社長室へと案内する。
この姿で会うのは少々気が引けなくもないが、ここで負けたら女が廃る。
「社長、黒部様をお連れしました」
専用エレベーターで3階の役員フロアに降り立った一番手前、一際大きな扉を数回ノックして女性が「どうぞ」と開いた先には真剣な表情でパソコンを操作している遼佑。
スーツ姿の彼は一段と素敵に映って、益々場違いな自分プラス、仕事の邪魔をしに来たことに反省の念を抱く。
「こんにちは。お邪魔だったかしら」
「いや、君が会いに来てくれるなんて嬉しいよ。しかし、こりゃまた素晴らしい格好での登場だな」
遼佑は肩を小刻みに震わせながら、クックックと笑いを堪えるのがやっとという様子。
智香が会社まで訪ねてくれたこと自体意外だったが、この姿は予想外にツボにはまってしまったかもしれない。
「お気に召さなかったなら、ごめんなさい」
「最高だよ。こんな君が見られるとは思わなかったんでね。記念に写真を撮ってもいいかな?」
「は?やめてよ。そんなこと」
―――冗談じゃないわよ。
証拠を残されるなんて、たまったもんじゃないわ。
「いいじゃないか。どうせなら、ここに座ってくれないかな」
「ほらほら」と遼佑は立ち上がると、智香の腕を引っ張って社長の椅子にストンと座らせる。
会社創立以来数十年、獣柄のワンピースを纏った女性がこの部屋に入るのも、社長の椅子に座るのも前代未聞のこと。
「見世物じゃないんだから」
すぐに「失礼いたします。コーヒーをお持ちしました」と部屋の中に入って来た制服姿の女性は、社長室で何事が始まったのかと目を丸くしていたが、そんなことはお構いなしで遼佑は携帯電話を彼女に渡すと二人並んでいる姿をカメラで撮らせた。
「いい、ツーショットが撮れたよ」
「それで、脅したりしないでしょうね」
「どうして君は、そう疑り深いのかな?俺は、素直に言ってるのに」
椅子に座る智香を背後から優しく抱きしめる遼佑の、首筋に掛かる微かな吐息に心臓がドクンっと跳ねた。
「じゃあ、私はこれで」
これ以上、智香の奥底にある見えない部分に感じた想いに気付かないうちに、この場を離れたかった。
「何か、用があって来たんじゃないのか?」
「別に、たまたま通り掛かっただけよ」
「少し待ってて。この書類を完成させたら、ゆっくり夕飯でも食べに行こう」
「えっ、この格好で?それより、仕事は?まだ、定時じゃないでしょ」
「俺は社長だ、問題ある?」なんてしれっと言ってのける遼佑だったが、あるどころか大ありだ。
一刻も早く脱ぎ捨てたいと思っているのにこの期に及んで、食事に行こうなんて勘弁してよ。
「だったら、仕事をしている間に着替えてくるから。どこかで、待ち合わせれば―――」
「ダメ、そのままでなきゃ」
「おもしろがってるでしょ」
「そんなことはないさ。ただ、ちょっと胸が開き過ぎなのと綺麗な足が見え過ぎだけど、俺はどんな智香も好きだから」
好き―――。
単なる言葉の文に決まってる。
でも、その後の優しいくちづけは本心からだと思いたい。
―――どうしよう…。
消し去ったはずの淡い恋心が蘇っちゃう。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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