「あずさ、どうした?なんか元気ないみたいだけど、体調でも悪いのか?」
お風呂からあがった一磨が、キッチンでボーっと立ちつくしていたあずさを不審に思って声をかけた。
最近、ふとしたことであずさはこんなふうに何かを考えるようなしぐさを見せる。
「ううん、何でもない。あっ、ビールでも飲む?」
慌てて誤魔化すようにあずさは冷蔵庫の扉を開けると、ビールの缶を一本取り出した。
にっこりと微笑むあずさに一磨もそれ以上は何も言わずあずさからビールを受け取ったが、やっぱり何かがおかしい。
一磨と付き合うようになってからというものあずさは週末になると彼の家に来ていたが、こんなことはなかったから一磨は不安を隠せない。
会社でも何か考え事をしている時があったのを一磨は見逃さなかった。
―――もしかして…。
「あずさ、ちょっとこっちにおいで」
キッチンから顔を覗かせると、いつになく真面目な面持ちでこちらを見ている一磨の顔が見える。
「なぁに?」
「いいから」という言葉に、あずさは一磨のいるソファーの隣に腰掛けた。
「あずさ、もしかして今までのこと気にしてるんじゃないか?」
初めあずさは一磨の言った意味を理解することができなかったが、それはあずさの心の中にあるものと一磨の言った言葉が一致したこともあって少しだけ顔色を変えた。
「今までのことって?」
わざとわからないフリをしてこんなふうに答えたが、それが嘘だと言うことは一磨には既に明白だった。
「誤魔化さないで。あずさは俺のこと今までずっとよく思ってなかったこととか、それまでの俺に対する態度とかすごく気にしてるんじゃないのか?」
勘が鋭い一磨のこと、あずさが何も言わなくても思っていたことを言い当てられて返す言葉がない。
あずさはこうやって一磨と付き合うようになってから、自分への愛情を深く感じていただけにそれまでのあずさが一磨にしてきた態度について恥じると共にひどく自分を責めていたのだ。
あんなに冷たい態度をとっていたにも関わらず、ずっとあずさのことを想い続けていた一磨。
優しくてカッコよくて…本当に自分にはもったいない彼氏なのである。
「そんな顔するなって、何も気にすることないんだから。いつもの笑顔を見せてくれよ。なっ?」
「だって、私…」
なんとか泣かないようにと唇を噛み締めていたけれど、あずさの大きな瞳からはもう涙が溢れていた。
そんなあずさを一磨は思わず自分の胸に抱き寄せた。
『泣くなって―――』あの時、一磨に好きだと言われた日と同じように大きな手で背中をポンポンと叩かれた。
それが心地よくて、止まるはずの涙が余計に出てきてしまうのはなぜだろう?
「ほら、泣き止んでくれよ。俺、あずさの涙には弱いんだ」
「うん」
泣き笑いになっていたと思うけれど、あずさは頑張って微笑み返していた。
そんなあずさの頬を伝う涙を一磨がゆっくりと指で拭う。
「なぁ、あずさは俺のこと好き?」
「何?今更」
―――急に好きかなどと聞かれても、そんなの当たり前なのに。
「ちゃんと言って。俺のこと好きって」
「一磨が好き。大好き」
みるみるうちに一磨の顔が破顔したかと思うと、あずさをぎゅっと抱きしめた。
「ちょっと、一磨?」
「俺はその言葉だけで十分だよ。あずさが今、俺のことを好きでいてくれさえすればそれでいいんだ」
一磨の言葉に胸がジンと熱くなった。
―――どうしてこの男は、こんな嬉しいことばかり言ってくれるのよ。
自分がこんなにも泣き虫だったことに今更気付かされたあずさはまた涙が出てきそうだったけれど、一磨の嬉しそうな笑顔に釣られて自然に涙も引っ込んでいた。
◇
「あずさ、やっと元気になったみたいね」
今日は久しぶりに同僚の笠沼 里穂(かさぬま りほ)と夕食を共にするべく、人気のフレンチのお店に来ていた。
里穂はあずさより一年先輩だったが、あずさが新人で配属された先には若い女性が里穂しかいなかったこともあって、とても可愛がってくれていた。
―――しかし、里穂にまで元気がなかったことがわかっていたとは…。
「私、そんなに元気なかった?」
「もう、それは見ていられないくらいね」
え?―――。
―――そんなに酷かった?
などと思っていると里穂の「冗談よ〜」という声が聞こえてきた。
「もう、里穂ったら」
クスクス笑う里穂だったが、本当は冗談なんかじゃなかったのだ。
いつも元気で明るくて可愛いあずさが、ここ数日元気がなかったのは確か。
本人はそれを隠そうと気丈に振舞っていたから、大半の人間はそんなふうに思わなかったが、里穂と一磨だけは違っていた。
「どうしたの?清家君と何かあった?」
あずさも里穂に相談しようとずっと思っていたのだが、里穂にも色々あったのを知っていたから敢えて話そうとはしていなかった。
一磨と同じで勘が鋭い里穂のことだから、あずさのちょっとした変化にも気付いていたのだろう。
「一磨とは、何もない。全部私が悪いの」
数日前に一磨に思っていることを言い当てられて、気にすることないと言われ随分心が軽くなったのは事実だったが、まだ少し悩んでいる部分もあったのだ。
「あずさ、清家君と付き合うようになる前に結構冷たい態度をとってたの、気にしてるでしょう?」
「え?」
―――まさか、里穂がここまでわかってしまっているとは…驚きだった。
ワインの入ったグラスを手に固まってしまったあずさを見て、里穂は「やっぱりね」と呟く。
「清家君は、そんなこと気にしていないでしょう?でなかったら、ずっとあずさのこと好きでいるはずないし、今だってあんなにあずさのこと想ってるのに」
一磨とあずさが付き合っていることを知っているのは、親しくしているごくわずかの人間だったが、里穂から見てもそれはあからさまだった。
「一磨にも同じこと言われたんだけど、でもやっぱり気にする」
「確かにあずさが気にするのもわかる。けど、今は清家君のこと好きなんでしょう?それだけで十分じゃない。何をそんなに悩む必要があるの?あずさが自分のことで悩んで悲しい顔してる方が、よっぽど清家君にとって辛いことなんじゃないの?」
―――里穂って、すごい!
などと感心している場合ではないのだが…。
まるで一磨とのやり取りを一部始終見られていたのではないかという錯覚にさえ陥ってしまうほどで、あずさは苦笑することしかできなかった。
「もうっ、そんな顔しない!どんなあずさも可愛いけど、元気一杯笑ってるあずさが一番なんだから」
「―――そうね、里穂の言う通り。一磨のこと大好きだから、それでいいのよね」
ようやく吹っ切れたあずさの顔には、いつも以上の笑顔があった。
「あずさ、自分を作ったりとかしちゃだめ。いつもの調子でいいんだから」
里穂には少し不安だった。
口では強がってばかりいるあずさだったけれど、相手のことばかり考えてすぐに自分を責めてしまう。
だから、このことをきっかけに今まで通りのあずさでなくなってしまうのでは…それだけが里穂には心配の種だった。
+++
「なぁ。清家って、あのSEIKEグループの社長の息子なんだってな」
「そうなのか?なんか高貴な名前だもんな。それにしても、何でうちの会社で働いてるんだ?」
「だよな」
どこからともなく、そんな会話があずさの耳に入って来た。
――― 一磨がSEIKEグループの社長の息子?
そんな…。
「あずさ、どうしたの?顔色悪いみたいだけど」
「え?そんなことない…けど」
あずさは笑って返したが、里穂はさっきの男子社員が話していた会話のせいだということに気付いていた。
「あずさ、清家君がSEIKEグループの社長の息子だって聞いてなかったの?」
「え?どうして…」
どうして里穂は、一磨がSEIKEグループの社長の息子だと知っているのだろうか?
「なんか噂になってるみたいよ。出所はわからないけど、確かだって。あずさはてっきり知ってると思ってたけど」
「知らない。私聞いてない、そんな話」
一磨はなぜ、あずさにそのことを黙っていたのだろうか?
何か隠さなければならない理由があったのだとすれば…あずさは、言いようのない思いにどうしていいのかわからなかった。
◇
「あずさ。今晩、家に来るだろう?」
週末は一磨の家で過ごすのが当たり前になっていたが、さっきの話を聞いてからあずさはどうも顔を合わせづらかった。
「ごめんね、今日は家に帰る」
いつもの様子と違うあずさに一磨は不安を感じていた。
―――どうしたんだ?何かあったのか?
「何か、予定でもあるのか?それとも体調悪い?」
「ううん、そうじゃないんだけど…ここのところ、部屋の掃除もしていなかったから」
「そっか、わかった。じゃあ、夜電話するな」
一磨もそれ以上強く言うことができなかったが、あずさはただ黙って頷いただけだった。
今夜はあずさが家に来ないと言うので一磨は早く帰る理由もなく残業していると、同期の野崎に誘われて喫煙所で休憩していた。
「なぁ。お前って、SEIKEグループの社長の息子って本当なのか?」
「え?それっ…」
「やっぱりそうか…何かみんな騒いでるぞ?どうして、SEIKEの御曹司がうちの会社にいるのかって」
―――どうして俺が、SEIKEの家の者だってバレたんだよ…このことは誰にも知られていないはずだった。
それが、なぜ今になって…。
まさか―――。
あずさは、それを知ったのか?
「みんなって…」
「そう言えばお前、平野さんに言ってなかったのか?男子社員が話しているのを聞いてたみたいで、ひどく驚いてたぞ?」
―――やっぱり…。
あずさの様子が変だったのは、そのせいだったのだと確信した。
「聞いてもいいか?」
「え?あぁ…」
野崎 健次(のさき けんじ)は同期の中でも一磨が特に親しくしていて、あずさと付き合い始めたこともそれ以前から好きだったことも全て話していた男だった。
それでも、SEIKEの人間であることは隠していたのだが…。
「健次の言う通り、俺の親父はSEIKEの社長をしているよ。まぁ、俺は息子と言っても次男だから会社を継いでるのは兄貴なんだけどな」
SEIKEグループは一磨の祖父が築いた総合リゾート開発会社で、グループの中には世界に名高いホテルチェーンやテーマパーク、高層マンションや一流レストランなども含んでいた。
今は祖父がグループの会長を勤め、社長には父が就いている。
次期社長には一磨の兄である琢磨(たくま)が継ぐことが初めから決まっていたから、現在は専務の職に就いていた。
一磨は次男だからグループを継がなくてもいいと言っていたが、本当はそういうわけにはいかなかった。
兄の琢磨は祖父や父譲りの経営センスを兼ね備え、グループを率いるには完璧な才能の持ち主であったが、父も兄もそんな琢磨と一緒に一磨にも経営を手伝って欲しかったのである。
一磨にもそのセンスは十分に備わっていることを家族は知っていたし、弟思いの兄のこと自分だけがグループを継ぐのには少なからず抵抗があったのだ。
それでも、まったく継ぐ気のない一磨に半ば仕方なく一般企業に勤めることを了承していた。
しかし、いずれは一磨にもグループを担って欲しいという希望は捨ててはいなかったが。
「でも、まいったな。あずさが知ってしまったとは…」
別に自分がSEIKEの人間だということを隠すつもりはなかったし、バレタところでどうということもない。
ただ、あずさにだけは知られたくなかった。
それはあずさがこのことを知ったことによって自分から離れてしまうのではないか、それだけが心配だったからだ。
今まで付き合ってきた女性は、SEIKEの人間と聞いただけで手のひらを返したように一磨に付きまとってきた。
でも、あずさは違う。
これを知ったことによって、多分いや間違いなく一磨から離れて行ってしまうだろう。
ただでさえ、付き合う前の一磨にしてきた態度について自分を責めてしまうような子なのである。
一磨にとって、SEIKEを失うことよりも何よりも、あずさを失うことの方が耐えられなかった。
もう、あずさなしでは生きていくことなど考えられないのだから。
「平野さんにきちんと話した方がいいんじゃないのか?でないと彼女、お前から離れていってしまうだろうしな」
健次にも、一磨の心配していることが手に取るようにわかっていた。
入社して以来ずっと一磨を見てきた健次だったが、初めの印象はどこか冷めた感じのする男だなと思った。
いい男だからそれなりに女性関係も派手で、でも本気で付き合うことができないでいることも。
今となって考えてみれば、SEIKEというバックが彼をそうさせていたのだろう。
それが、あずさに出会って少しずつ変わっていったのだ。
あずさは本当に可愛くて、同期の男の誰もが彼女に好意を寄せたのは事実。
これは一磨には言っていないことだったが、実は健次もその中の一人だったのだが…。
でも実際のあずさは可愛い外見とは少し違ってだいぶ元気な子ではあったようで、男子の中で一番人気だった一磨をあからさまに毛嫌いしたのである。
正直言ってあそこまでしなくても…とは健次の意見だが、それがかえって一磨のハートに火を点けてしまったようで、一磨の心の中にはもうあずさしか映らなくなっていた。
それを見てあまりに一磨がかわいそうになった健次は、あずさの同期で仲のいい子になぜあずさは一磨にはあんな態度をとるのか聞いてみたことがあった。
すると、外見だけで人を好きになったりしないのだという答えが返ってきて、驚いたのを覚えている。
確かにあの頃の一磨は、女性関係が派手だったからお世辞にもいい奴だとは言えなかった。
健次だって暫く付き合うようになって、やっと一磨のいいところに気付かされたのだから、それが第三者のあずさにはそう映っても仕方がない。
それにしてもあれだけ可愛いあずさの口から、外見で男を好きにならないと聞かされるとは思わなかったのだ。
だからこそ今回、一磨がSEIKEの息子だと知ったら自分から身を引くに違いない。
あずさはそういう子なのである。
そして、一磨が本気で愛している子なのだということも。
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