愛莉は巨大なオフィスビルの前で大きく溜息を吐いた。
ここには、一生来ないと思っていたのに…。
アポイントも取らず突然尋ねてしまったが、受付で名前を告げると予想外に手厚くもてなされたことに驚きながらも、これから始まるであろう一世一代の大勝負に賭けるしかなかった。
「水野社長、高輪様をお連れいたしました」
相変わらず、綺麗な秘書を側に置いていると思いながらも、案内された部屋の中へと一歩足を踏み入れる。
本当は今すぐにでも逃げ出したい、足がすくむ思いをひたすらに隠しながら、彼女は真っ直ぐ前を見据た。
「お忙しいところ、突然伺って申し訳ありません」
「いや、どんな重要な会議や商談があったとしても君の来訪を優先するよ」
「さぁ、そんなところに突っ立ってないで座ったら」と大きなレザーのソファーを勧められたが、愛莉が口を開けば彼だって態度を変えるに決まっている。
「いえ、ここで結構です。時間がないので早速ですが本題に入らせて下さい」
「今回のことでは大変だったね。信頼していた部下が横領とは」
労いの言葉に調子が狂う。
恐らく、彼はこうなることを多少なりとも予測していたはずなのに…これは演技なの?
「全て、私の責任ですから」
「あれだけ僕のことを嫌っていたのに君がここへ来た理由も、もちろんその件なんだろうね」
「お察しの通りです」
愛莉はヒールを脱ぐと丁寧に脇に揃え、ゆっくり両膝をカーペットの上につくと両手を前に添えて床に付くか付かないかの距離で深々と頭を下げた。
これがどんなに屈辱的なことであっても、今の彼女にはこうすることしかできないのだ。
「どうか、社員達を助けて下さい。私はどうなっても構いません。お願いします」
まさか、彼女が土下座までするとは考えもしなかったのだろう。
「やめるんだ。君のそんな姿は見たくないね」
慌てて駆け寄ると腕を取ったが、彼女はその手を振り払う。
「資金援助の約束をしていただけるまでは顔を上げません」
「美人なところと頑固なところは、昔とちっとも変わってないな」
彼はなぜか、愛莉の隣にどっかと腰をおろして胡坐をかいた。
そこヘちょうどコーヒーを持って入って来たさっきの綺麗な秘書は、異様な光景に驚いた様子で引き返そとしたが彼が目でテーブルの上に置くように合図する。
「スーツが汚れるわよ」
「だったら、ソファーで話そう」
「わかったわよ」ポツリと言う彼女の腕を取って彼は一緒に立ち上がるとソファーに移動する。
もっと冷たくあしらわれるとばかり思っていたのに少々勝手が違うようだ。
「返済計画書を持ってきました。これに目を通していただければ───」
「条件さえ飲んでくれれば、資金を出してもいい。もちろん、僕は一切の経営に関わるつもりはないし、返済も必要もない」
「え?」
返済の必要がない?
そんな虫のいい話がどこにあるのだろう。
その条件とは、一体…。
「僕と結婚してくれればね」
「は!?け、結婚ですって!?」
どこからそういう要求が出てくるのか、さっぱり意味がわからない。
っていうか、冗談言ってる場合じゃないのよ!!
こっちは切羽詰まって首を括る覚悟で来ているというのにっ。
「簡単だろう?」
「簡単じゃないわよ。何で、私があなたと結婚なんかっ」
「だったら、この話はなかったことに」
「ちょっ、ちょっと待って。理由、理由を聞かせてよ。いきなり結婚とか言われたって。こっちにも覚悟ってものが」
「それくらいの心積もりで来たんじゃないのか?だったら、君のお父上に頼めばいいことじゃないのかい?彼は喜んで可愛い娘のために10億だろうと100億だろうと用意してくれるさ」
「それは…」
そうなんだけど、それができれば、こんなところまでのこのこ出向くはずがないじゃない。
父に頭を下げるくらいなら潔く会社を身売りする方が、今まで通り社員達の雇用が確保されるならばその方がずっといいのに…。
「それができないから、君はここに来たんだろうけど」
「わかってるなら」
「君のお祖父様には言葉では言い尽くせないほどの恩があるが、こちらも10億という金をつぎ込むんだ。僕だって魔法使いじゃないからね、棒を振ればいくらでもお金が沸いてくるわけじゃない。その見返りは同等なものでなければ」
「私との結婚が同等だと言うの?」
「それ以上さ」
私と結婚することによって、彼に何が得られるというのだろう?
部下に横領されて今にも潰れそうな会社の持ち主と結婚したって、メリットなどどこにもないはずだ。
ただ一つ、父という後ろ盾を除けば。
「勘違いしないで。私を手に入れても、父の持っているものは手に入らないわよ」
「そうかな」
「あなたって人は」
どこまで汚い人間なの!!
そんな人に助けてもらう必要があるのかどうか、それでも愛莉がここに来なければならなかった理由は、どうしても会社を存続させなければならなかったから。
自分が自分であるために何としてでも会社を守らなければならない。
「どうするんだい?もう君に残された選択技は二つに一つしかないんだよ」
「一つ聞いてもいい?」
「一つと言わず、いくつでもどうぞ」
勝ち誇ったような彼の顔が腹立たしいが、それでもその瞳に見つめられると自尊心を失ってしまいそうになる。
「この結婚はいつまで続くの?」
結婚などしてもすぐに破綻するのは目に見えている。
「死が二人を別つまで永遠にさ。もちろん君には僕の子供を産んでもらう、跡取は必要だからね。そしてそれは、両親が愛し合ってこそ育まれるんだ」
愛し合ってですって?
彼の口からそんな言葉を開くとは思ってもみなかった。
この二人の間にどうやったらそんなものが生まれるのだろう。
彼は私が欲しいわけではない。
父の名声と跡取が欲しいだけ。
「そう上手くいくかしら」
「いくさ。きっと」
彼の言うように本当に上手くいくのだろうか?
その検証をしている暇は既になく、上手くいこうがいくまいが、いずれにしても承諾しさえすれば会社は変わらず今まで通り維持される。
選択の余地など初めからないのも同然、心を決めるしかないのだ。
「わかりました。あなたの条件を受け入れます」
彼は黙って領きソファーを立つとデスクのスピーカーホンのボタンを押す。
女性の声ですぐに応答があった。
「あっ、俺だ。銀行に10億用意するよう伝えてくれ。それから弁護士も。今すぐにだ」
「かしこまりました」
これで一命は取り留めるが、その代償がどれくらい大きいものなのかは愛莉にもわからない。
ただ言えることは、もう後戻りはできないということだけ。
「今すぐ告訴は取り下げるよ、いいね?でないと君の名前に傷がつくから」
「えぇ、それは構わないけど。傷が付くのはあなたの方だからじゃないの?」
愛莉の嫌味な言い方に彼は無言で苦笑するだけだったが、この事実が明るみになった後で結婚となれば、彼女ではなく彼の名にも傷がつくのだから。
「ありがとう。感謝してるわ」
「これは極めて正当な契約の上、交わされた取引だし、僕は当然のことをしたまでだよ」
契約…。
間一髪のところで会社が救われたことに有頂天になっていたが、これは結婚という名の契約に基づいた取引だということ。
彼女の表情が一瞬にして曇ったことに心を痛めなかったわけではないが、今はこう言うしかない。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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