契約愛
3


「社長、また届きましたよ。綺麗なお花が」

「突然の結婚発表には驚きましたけど、あんな素敵な方がいらしたなんて。そんな素振りはこれっぽっちもお見せにならないんですもの」

彼女はオレンジ色の薔薇の花束を花瓶に生けながら、うっとりと見惚れている。
愛莉の秘書は専門の派遣会社から来てもらっているが、彼女はそう歳も変わらない友人みたいな関係だ。
美人でよく気が付いて、全く自分が男ならお嫁さんに欲しいくらいだったが、既に一人の男性のモノなのでどっちにしても無理な話である。
危機から一変して平穏な日々を取り戻せたのも、この花束の贈り主が優秀な弁護士を介して極秘に告訴を取り下げてくれたおかげ、一部の幹部以外には横領の事実を知られずに済んだのは幸いだった。
しかし、頼みの銀行からも見放されたというのに10億もの大金を用立てた相手が誰であるかは結婚の事実がそれを物語っていた。
哀れみの目を向ける者も中にはいたし、水野 遊と手を組んだとなれば、この会社も安泰である反面、彼に支配されるのではという憶測も広がってはいたものの、言葉通り一切の経営に関わることはなかった。

「花だらけで、蝶にでもなった気分だわ」

あの日以来、毎日のように届けられる花の意味が愛莉には理解しがたいものがあった。
まるで、愛する恋人のためにするようなことをどうして。

「こういうことって、水野さんだからできることじゃないですか。ほんっと、社長が羨ましいですよ」

確かにそうだと思うが、それを秘書の前で自慢するほど愛莉の中でこの事実を素直に受け入れる心構えはまだできてはいなかった。
彼女が部屋を出て行くと携帯電話を手に彼の番号を呼び出す。
仕事中だとわかっていながらワザと掛けるあたりが、なんて意地悪なんだろう。
数回の呼び出し音の後、彼の低い声が耳元に心地良く入ってきた。

「ごめんなさい。忙しかったら後で掛け直す───」
『とんでもない。君からの電話ならどんなに重要な会議だろうと商談だろうと、差し置いて出るよ』

資金援助を申入れに行った時も同じようなことを言っていたが、本当のところはどうなんだろう?実は大事な会議の途中だったりして。

「お花のお礼を言いたかっただけなの。とっても綺麗よ。部屋の中が花園みたい、ありがとう」

電話とはいえ、心の中とは裏腹にこんな甘ったるい声を出すと体中がむずむずしてくる。

『それは良かった。君には何となくオレンジが似合うような気がして』

彼は席を立つと部下に目配せして部屋を出る。
今は大事な戦略会議の真っ最中、今の会話が全員に聞かれたからといってうろたえる水野ではなかた。
彼女が電話を掛けてきてくれたことだけで会社など、どうでもよくなってしまうのだから。

「でも、もうこれっきりにしてね」
『え?』

お礼とは名ばかりで、やはり拒絶されたのだろうか。

「これ以上増えたら部屋に入り切らないし、私の居場所がなくなって外に出なければならなくなるわ」
『君が困ることは控えるようにしよう。なら今晩、食事に付き合ってくれるね』

一瞬、間が開いたことに不安を感じながらもじっと彼女の返事を待つ。
もちろん、OKしか受け入れないつもりだが。

「わかったわ」
『本当に?』

つい水野は本音を口に出してしまったが、彼が驚きの声を上げたように愛莉だって自分がなぜ誘いを受けたのかよくわからない。
会社を助けてもらった恩なのか、それとも他にあったからなのか。

「あなたから誘ったんじゃない」

電話越しに愛莉のクスクスと笑う声が聞こえる。
それだけで彼の心は、彼女のことで一杯になった。

『そうだったね。君はシーフードが好きだったから、美味い店を知ってるんだ。7時に迎えに行くよ』

電話を切ると何かが違うような気がした。
私の好きなものを覚えていてくれたことが素直に嬉しいし、本当は食事に誘われたことも…これじゃあまるで本物の恋人同士みたいじゃない。
会社を存続させるために交わした契約のはずなのに。


彼は時間通りに愛莉のところまで迎えに来たが、美人秘書の視線が痛い。
背が高く、がっしりとした身体つきは学生時代にモデルをやっていた時とちっとも変わっていないが、ずっと前から知っていたのに今は別人のように思える。
そして、彼は生涯を共にする伴侶なのだ。

「本当にすごい花の数だね。香に酔ってしまいそうだ」

自分で贈っておきながら、すごいなと感心するのと同時にここまでする男だったとは驚きだ。
瓢箪から駒とはこのことを言うのだろうが、すっと手に入れたくて、それはいくらお金を績んでも買えるものではないと思っていたのに、それが今、目の前の手が届くところにあるなんて。
彼女のブラウンの髪は肩より少し長く、緩いウェーブが掛かっていたが、手で触れたくなるのをグっと抑えて、あくまでも紳士を装い背中にそっと手を添えるとオフィスを後にする。
濃紺のスーツ姿の彼女はキリっとしていて、まさにキャリアウーマンそのものだったが、プライベートの無防備な姿も見てみたい。
週末、自分の家に誘ったら果たして来てくれるだろうか?


海辺の高台に建つ前面ガラス張りのシーフードレストランは、人気だけあって会社帰りのカップルで既に賑わっていた。

「素敵なお店。でも、もっと明るい時間に来たら海が綺麗に見えたでしょうね。夕日とか最高かも」
「次はそうしよう。景色ももちろん、料理も素晴らしいんだ」

彼にエスコートされて席に着くと、ここでも女性達の視線が痛かった。
悔しいけど、魅力的なことを認めなければならないだろう。

「ムール貝もお薦めだけど、マグロもいいのが入っているそうだ」

「ちゃんと確認したからね」微笑む彼の瞳の中には彼女しか映っていなかった。
こんなふうに穏やかな時間が過ごせるなんて、夢なら一生覚めないで欲しい。

「さすが、水野 遊は抜け目ないって本当だわ」

私は負けたわけじゃないのだから、決して彼に屈してはいけない。
なんとかそう自分に言い聞かせ、プライドを保とうとしていたが、それが崩れるのも時間の問題かもしれなかった。

彼の言うことに間違いはなく料理は文句なしに美味しいものばかりだったが、二人の間に流れる空気がこの上なく素晴らしかった。
今までまともに会話すらしたことなどなかったのにこんなふうに穏やかに過ごせる日が来るなんて。
それが例え、偽りだったとしても。

「近いうちに君のご両親に挨拶に行かないと」
「えっ」
「事後報告では承諾してもらえないかもしれないな」

そうだった。
つい、夢心地になって大切なことを忘れるところだったが、彼の目的、欲しかったのは父の名声と私が産む跡取りだけ。
あぁ、私はなんて馬鹿なんだろう。
恋している気になるなんてっ。


※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。


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