契約愛
4


愛莉が前に実家に帰ったのは、いつだっただろう。
それくらいあの家からは遠のいていたし、これからもそれは変わらないつもりでいたのに、あの事件がきっかけで結婚の承諾を得るために顔を合わせることになろうとは思ってもみなかった。
母はまだしも父は絶対に反対すると思っていたし、実際疑いもしなかったが、電話に出た父は愛莉の頑固さを知っていただけに半ばあきらめの様子だったが、できることなら娘の口から先に聞きたかったと本音を漏らす場面もあった。

「さぁ、行きましょうか」

鏡の中の自分に言い聞かせるように愛莉は立ち上がると彼の目をじっと見つめた。
この人の妻になるという実感は沸かないが、そこに自分の意思がないことは十分に理解しているつもりだ。
会社を助けてもらった見返りは大きかったと受け止めるかどうかはわからないけれど、今まで通り仕事さえ続けられればどうにかやっていけるはず。

「ちょっと待って、その前に」

彼が上着の胸ポケットから取り出したのは黒いベルベットの箱。
蓋を開けて中に入っていたのは大粒のオーバル型をした見たこともないくらい大きなピンクダイヤモンドのリングだった。

「これを付けて」

そっと愛莉の左手を取ると薬指にリングをはめてくちづける。
いつ調べたのか、サイズがピッタリだったのには驚きだったが、それ以上にピンクダイヤに目を奪われる。
一体、いくらくらいするものなのだろう?
10億もの大金をポンっと出せるほどの人なのだから、それに比べればこんなダイヤの一つや二つ。
父を納得させるには、彼にとってこの程度のことは容易いこと。
自分のために選んでくれたものでないことが、愛莉にはひどく寂しく感じた。

「こんなこと。してくれなくてもいいのに」

彼女がはなから喜んでくれるとは思っていなかったが、目の前で突き付けられると心が痛む。

「君は誰よりも輝いていなければならないんだ。これくらい当然さ」
「そうね。水野 遊の花嫁になる女性が、みすぼらしい宝石を身に付けるわけにはいかないものね」

「さぁ、そろそろ行かないと。父が怒る前に」愛莉はさっさと部屋を出て行ってしまう。
食事に行ったまではとてもいい関係だったのに、あの日から彼女の態度はどこかよそよそしくなった原因は何なのか。
その前になんとしてでも、彼女の父親にこの結婚を承諾してもらわなければならないのだ。


愛莉の実家は閑静な高級住宅の中でも一際目立つ豪邸で、有名な建築家に建てさせただけあってどれをとっても素晴らしい。
しかし、愛莉にとってこの家が心の拠り所だと思ったことは一度もなかったし、父親が築き上げた地位や名声の象徴としか受け入れることができなかった。
玄関の大きな扉を開けると広々としたエントランスが広がり、開放的な空間がまるでどこかのリゾートホテルのようだ。
待ち構えていた愛莉が小さい頃から家政婦をしていた加奈子さんが、「お嬢様、お帰りなさいませ。一段とお綺麗になって。この度は、おめでとうございます」懐かしそうに手を取った。
この家は好きになれなかったが、彼女だけは別だ。

「加奈子さんも元気そうで何よりだわ」
「気持ちだけは若いんですけどね。あちこちガタがきてますよ。わたくしももう長くないんですから、早くお孫さんの顔を見せて下さいな」

二人の結婚が契約の上に成り立っていることを知らない彼女は、純粋に孫の顔を見たいと願っているに違いない。
愛莉にとっては非常に荷が重い話だった。

「旦那様と奥様は、奥のリビングで首を長くしてお二人をお待ちですよ。すぐにお茶をご用意しますので。さぁさぁ、こんなところに突っ立ってないで」加奈子さんに背中を押され、リビングルームへ向かう。
果たして本当に首を長くして待っているだろうか?

「お父様、お母様、ご無沙汰して───」
「愛莉、堅苦しい挨拶はなしだ。水野君もこっちに来て、私達に顔をよく見せておくれ」

父も母もソファーから立ち上がって出迎えた。
こんなふうに歓迎されるとは正直思っていなかったが、返って調子が狂う。

「まぁ、愛莉ちゃん。その指輪。なんて素晴らしいの」

母はこういうところに目がいく人だ。
それが悪いというわけではないが、これで彼のポイントがグーンっとアップしたことは言うまでもないだろう。
まぁ、今の彼に何かを言える人物自体、いないのかもしれないが。

「今日は突然伺って申し訳ありません」
「いや、愛莉の口から君と結婚したいと聞かされた時は驚いたが、生涯添い遂げると決めた相手だ。私達が、とやかく口を挟む必要もないだろう」

「とにかく座って。ゆっくり話そう」父は彼を脇のソファーに座らせた。
水野家と高輪家は元々交流のある関係ではあったが、それは彼の祖父と愛莉の祖父との間までの話であり、それ以降はぷっつり途切れていたのだ。
二人が出会うまでは。



一人娘の愛莉はこの家を継ぐものと思っていたし、祖父もそのつもりで彼女に厳しい教育を施してきたのだが父は違っていたのだ。
女性は妻として夫を支える。
仕事などしなくていいという考えだった父は彼女に跡を継がせる気など毛頭なかったどころか、愛莉が二十歳を過ぎるとまだ学生だというのに見合い相手を連れて来るようになった。
ショックだった。
女に生まれた、ただそれだけの理由で認めてもらえないことに自分の存在価値まで否定されたような気がして内にこもるようになり、明るかった性格も一変していく。
そして、心ない彼のひと言で愛莉は深い谷の奥底に突き落とされた。

すっかり自信をなくしてしまった彼女を励まそうと友人に無理矢理誘われたパーティーに来ていた水野 遊。
彼のことは祖父からによく聞いていたが顔を見たことがある程度、まともに話をするのはその時が初めてだった。

「やぁ、さすがお嬢様は違うな。お祖父様やご両親が汗水流して得たお金を湯水のように使う」

愛莉の身に付けていたものは全て、本物の宝石にオートクチュールのドレス。
もちろん、本人が欲しくて買ってもらったものではなく、母が勝手にこの日のために用意したもの。
そんなことは目の前にいる彼が知るはずもないが、だからといって勝手な憶測で人を判断するのはやめて欲しい。

「あなただって。人のことは言えないんじゃなくて?」

この人だって所詮はお坊ちゃま。
パーティーに顔を出すのは常連のようだし、何の苦労もないまま、ぬくぬくと育ってきたに違いないのだから。

「僕は両親に頼ったりしない。まぁ君のお祖父様によくしてもらっているのは否定しないが。自分の力だけでもっと大きなことをやるつもりさ。こんな話はお嬢様には関係ないだろうけどね」

そう言って去って行ったあの後姿は、今も愛莉の脳裏に鮮明に焼きついていた。


※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。


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