「あの…日向さん。今度、一緒に飲みに行きませんか?」
誰もいないはずの会議室脇にあるキャビネでファイル整理をしているとそんな会話が、帆波の耳に飛び込んできた。
湊を誘っている彼女は金子 千佳、うちの部でも評判の男好き。
外見もそこそこ可愛いしスタイルもいいのだが、派手な装いは男を誘っているのが見え見え。
どうやら、帆波がそこにいることに気付いていないらしい。
「みんなでだったらいいよ」
「え〜私、大勢って苦手なんです。二人じゃダメですか?」
―――『誘いも丁寧に断ってるよ』なんて言ってたけど、さぁ、あのスケベ男なんて答えるのかしら?
「ごめん。俺には可愛い彼女がいるからね。個人的な誘いは受けられないんだよ」
「そうなんですか?日向さん、彼女募集中って言ってたから、てっきりいないのかと思ってました」
「あの時はそうだったからね」
「わかりました。私こそ、ごめんなさい。今度、みんなで飲みに行きましょう?それならいいですよね」
「あぁ、いつでも誘って」
彼女は諦めも早いようで、あっさりとその場から去って行った。
―――へぇ、ちゃんと彼女がいるって断るのね。
「帆波ちゃん、そこにいるんだったら言ってくれればいいのに」
「え?」
まさか、気付かれていたとは…。
「日向さんこそ、せっかくの誘いを断るなんて、もったいない」
「帆波ちゃんという可愛い彼女がいるのに、そんなことできるはずがないよ」
―――どーだか。
あたしがここにいること知ってたから、そんなこと言ってるんじゃないのかしら?
「信じてないね?帆波ちゃん」
「わかります?」
「わかるわかる。帆波ちゃんは、顔に出やすいからね。そうだ、あのね今夜はちょっと用事があって、帆波ちゃんの家に行けそうにないんだ」
「ごめんね」って、わざわざ謝らなくてもいいし〜。
―――あっ、でもこの人が家に来ないなんて、もしかして初めてじゃない?
うわぁっ、それだけよくもまぁ毎日来ていたもんだわって、感心してるわけじゃないんだけど。
「全然、構いませんよ」
「また、そういうこと言うんだから。本当は寂しいのに」
―――あのねぇ、どこをどう間違ったらそういう解釈になるわけ?
それより、こんなところで油を売ってる場合じゃないでしょ。
「そう言えば、寺崎主任が日向さんのこと探してましたよ」
「あっ、ヤバイ。これから会議だったんだ」
「忘れてた〜」と叫びながらスケベ男は、行ってしまった。
―――ほんと、あの男わけわかんないわね。
ふーっと大きく息を吐くと、今夜は久しぶりに真由と飲んで帰ろうかしらと思う帆波だった。
◇
「今日は、日向さんとご飯を食べなくてもいいの?」
真由を誘ったら即行OKしてくれたので久しぶりに飲みに来ていたが、湊と毎晩食事を共にしていることを知っている真由はなぜ帆波が誘ったのか気になったようだ。
「なんか、用事があるからって言ってたけど」
「そうなんだ〜、寂しくひとりで食事をとるのが嫌であたしを誘ったってわけね?」
「別にそんなんじゃないけど…」
久しぶりに友達と飲みにでもと思っていたが、実際は真由の言うようにひとりで食事をとるのが嫌だったからかもしれない。
なんだかんだいって、あの男と食事をするのは楽しかったし…。
「そうそう、金子さんったら日向さんを誘ったけど断られたって騒いでたわね。可愛い彼女がいるからって。それって、帆波のことでしょ?」
「え?さぁ…」
「さぁって、彼女だって自覚はないわけ?」
帆波の曖昧な返答に呆れ顔の真由。
未だに彼女だという自覚がないのだから、こればっかりは仕方がないのだ。
「だって、なんかよくわかんないんだもん」
「そんなこと言ってると誰かに取られちゃうわよ?日向さん、モテるんだから」
「その時は、その時よ」
「またまた、強がっちゃって。今はそうかもしれないけど、他の女の子と楽しそうにしているところとか見ちゃったら嫉妬の塊になったりしてぇ」
―――そんなこと絶対ないもん。
きっと、今までの平穏な日々が戻るだけだわ。
「ナイナイ。あたしは、そこまであの男に依存していないんですぅ」
「ハイハイ。そう言ってる時が一番幸せなのよ」
その時は、真由の言葉など聞き流していた帆波だったが、実際そうなってみた時にそれ以上の反応をするとはこの時点では思っていなかった。
◇
すっかりほろ酔い気分でアパートまで帰る道のり、帆波は途中にあるコンビニに立ち寄ろうとしたのだが…。
『あれ?日向さんじゃない』
少し先にいて暗がりでよく見えなかったが、あれは多分お隣さんに間違いない。
そして…。
『誰かと一緒?』
どうやら、ひとりではないらしい。
湊に寄り添うようにしている相手はミニスカートをはいているせいか、白い足の部分だけ妙に浮き出て見える。
それも、かなりスタイルのいい女性。
『何よ、あのスケベ男。今日は用事があるって言ってたけど、女の人と一緒だったんじゃない。ここまで一緒ってことは、部屋に連れ込むつもり?』
金子さんの誘いは断っておきながら、用事があると言って会っていたのは女性だったとは…。
帆波はコンビニに寄ろうと思っていたが、気になってついつい後を追ってしまう。
―――あたしったら、まるでストーカーみたい。
一定の距離を保ちながら、後をといっても自宅アパートに向かっているのだから、ストーカーというのは若干語弊があるかもしれない。
暫く付いて行くと、真っ直ぐ帰るであろうはずの二人はある場所で立ち止まってしまい…。
『え…』
おもむろに女性の方が湊の首に腕を回してくちづけたのだが、それに応えるように湊も女性の腰に腕を掛けてより密着させるように抱き寄せる。
普通のキスなんかではないディープキスというやつで、見ているこっちが恥ずかしくなってしまうくらいのもの。
呆然と見つめていた帆波だったが、なぜか無性に腹が立つというか虚しいというか…。
わざと二人の横を通り過ぎたが、行為に集中しているせいか気付く様子もない。
一緒に歩いている時点で湊の家に向かっていたわけだし、そういうことがあってもおかしくないはずなのにどこか帆波は湊を信じていたというか彼なら絶対そんなことはしないという思い込みがあったのかもしれない。
―――そんなわけないのにね。
『あたしが、馬鹿だったんだわ』
湊のことを単なる同僚でお隣さん、体の関係はあっても自分は彼女だという自覚はなかった。
いや、敢えてそう思わないようにしていたのかもしれない。
なのにこの気持ちはなんなのか…。
別にあの男に女性がいようといまいと関係ないはずだったのに…。
帆波は、走ってアパートに戻ると部屋の電気も点けずにロフトに上がって布団の中に潜り込む。
どれくらいの時間が経ったのか、何度も玄関のブザーの鳴る音が聞こえたが、一度も出なかった。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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