「ごめんね、付き合せちゃって」
「いいんですよ。これは仕事ですから、気にしないで下さい」
帰宅途中、恵が新しく住むことになるマンションへ下見のために寄ってもらうことにしたのだが、ただでさえ帰りが遅いのに一輝に余計な面倒を掛けて申し訳ないと思う。
しかし、アランの話では一輝もここへ住むことになりそうなので本来ならそこまで気を使う必要もないのだが、それを彼は知っているのかいないのか…。
「ねぇ、高梨君」
「はい。何でしょうか?」
最近では庁舎を出ると、一輝を名前で呼んでいる。
彼の方は、そういう切り替えは上手くできないようだけど…。
そして、すっかり乗り慣れた車の助手席。
窓から見える景色も心地よくて、この時間が一日で一番落ち着くし、好きかもしれない。
―――でも、いいのかなぁ…言っちゃっても、引越しの話。
「あのね。さっきボスのところへ行った時に言われたんだけど、なんだか高梨君も私と同じマンションに住むことになりそうなのよ」
「えっ、そうなんですか?そのような話は、何も聞いておりませんが」
一輝の驚いた顔に恵はやっぱりと思う。
こういうことはきちんと本人に話しておけばいいと思うのだが、多分アランがいらぬ気を回したに違いない。
「こればっかりは、いくらボスの言うことでも無理にきく必要なんてないから。異動でもないのに家を越す理由なんて、ないんだもの」
彼の家の近くにマンションを探してくれたわけだし、わざわざ越す必要などないと思う。
そりゃあ、恵にしてみれば嬉しいことではあるが…。
「いえ、そんなことないですよ」
「え?」
「ちょうどいいじゃないですか。通勤も一緒で」
「えっと…そういう問題じゃないと思うんだけど…」
妙に嬉しそうな一輝に少々拍子抜けしてしまう。
上司が同じマンションに住んでいるなんて、普通嫌がるでしょう?
「これで警視長も私のことで気を使う心配もないですし、私も豪華なマンションに住めるんですから文句は言いませんよ」
―――まぁ、確かにね。
自分で借りたら、いくらするかわからない。
考えようによっちゃあ、いいことなのかもしれないわね。
「でも、同じ職場の人間とマンションが一緒って嫌じゃない?」
「どうしてですか?」
「どうしてって、休みの日に偶然会ったりしたらとか色々」
―――すっぴんで外を歩けないとか、服装とか色々あるじゃないねぇ。
あっと、それは私だけ?!
「私は、警視長に偶然休みの日に会えたら嬉しいですが」
「え、私に会ったってちっとも嬉しくないでしょ?」
「嬉しいですよ。副総監だったらちょっと…と思いますが、普段見られない素の警視長が見られるわけですし」
「やめてよ〜恥ずかしいから」
車内に二人の笑い声が響く。
そんな和やかな雰囲気で会話をしながら車を走らせて行くと、目の前に高層マンションが見えてくる。
「そう言えば、赴任が遅れていました警視監が、明日にでも来られるそうです」
「警視監って、どんな人なの?前にボスが意味深なことを言ってたけど」
『今度警視監になるやつは、ケイにとってはものすごく頼りになるはずだから、期待して待っていてくれ。でもカズキにとってはかなり手強いライバルになるかもしれないから頑張れよ』などとアランは言っていたが、警視監という人は本当にどういう人なのか?
「山瀬警視監のことは私もよく知らないのですが、まだ30歳という若さで相当頭の切れる方らしいですね。モスクワ支庁も、なかなか手放してくれなかったそうですから」
「ふううん、そうなの」
―――山瀬っていう警視監は、30歳なのね。
ボスの言うように上手くやっていければいいけど…。
「警視長、着きましたよ」と一輝が車を止めた先は、超高層マンションの前。
ポルシェといい、こんな豪華なところに住んだりしたら、とつい考えてしまう。
「なんだか、予想よりずっと豪華ね」
「セキュリティを考えたら、当然だと思いますよ。副総監の住むマンションは、もっと豪華ですしね」
「え?ボスの家って、これよりすごいの?」
家に遊びに来ないかと何度か誘われたが、適当に誤魔化して断ってはいたものの、このマンションよりももっと豪華なところに住んでいるとは…。
一度、チェックに行っておくべきだったかも。
「えっと、警視長の部屋は、17階の角部屋になりますね」
「17階…」
メモを見ながら、一輝が部屋の番号を確かめる。
周りにも高い建物はたくさんあるから、17階と言われてもそれ程でもないのかもしれない。
いずれにしても、眺めはいいに違いない。
自分には贅沢過ぎると思いながらも、恵は一輝の後に付いて中へ入って行った。
ホテルと同じくらいゴージャスなエントランスを抜けて、エレベーターに乗る。
これだけ大きなマンションなのに誰にも会わないというのは、かえって怖いような…。
「ここですね」
一輝は前もって受取ってあった鍵を取り出してドアを開けると既に電気も通っているし、電化製品等は揃っているようだった。
「へぇ、お布団持って来たら、すぐにでも住めそう」
「はい。一応、契約上は週末からとなっていますが、すぐにでも住めるように準備してあるとのことです」
2LDKの間取りの中には懐かしい畳の部屋もあって、恵は久し振りに布団で寝てみたいと思った。
大きな家具を買うより座卓を置いて座布団でくつろぎたい、そんな気分だろうか。
窓の外の眺めも良く、やっとホテル住まいから開放されてゆっくりできそうだ。
「あっ、お風呂」
忘れていたがここが肝心、布団もそうだが日本のお風呂がまたいいのだ。
バスタブの中で全てを済ませなければならないお風呂と違って、日本のお風呂は洗い場が別れているところがいい。
早速、チェックしにバスルームへ向かう恵。
まるで、子供ようにはしゃぐ彼女に一輝の顔にも自然と笑みが浮かぶ。
「わっ、広い」
思ったより広く、ここだけで何時間も過ごしていられるくらい。
どこどこ温泉なんていう入浴剤を入れたら、最高に気持ちいいはず。
「はぁ…なんか、ホテルに戻りたくなくなるわね」
「そうですね。早く用意してもらえば良かったのですが、窮屈な生活で申し訳ありませんでした」
「高梨君が悪いわけじゃないでしょ?そうだ、明日総務課に行ってあなたの部屋のことも聞いておいた方がいいわよ」
「はい。そうします」
今夜はここまでということで、名残惜しいがまたホテルへと引き返す。
漠然としか考えていなかったが、部屋をこうしたいとかああしたいとか頭の中に浮かんできて、仕事ばかりの毎日にほんの少しでも楽しみを与えてくれそう。
「渋滞してますね」
「ごめんね、マンションなんか見に行ったばっかりに」
「お願いですから、謝らないでください」
…彼女は、謝ってばかり。
上司なんだし、これは仕事、別に謝ることなんて何もしていないのに…。
そんな飾らないところが、やっぱり素敵だなと一輝は思う。
途中、事故でもあったのか車は進んで入るものの、道路がかなり渋滞している。
「高梨君っ、危ないっ」
「あっ」
恵の声に慌ててブレーキを踏んだ一輝、車の間を縫って走って来たバイクが急に前に入って来て危うくぶつかりそうになったのだ。
「あぁ…びっくりした。何だ、あのバイク。無理に入り込んで来て、危ないじゃないかっ」
「ほんと、何よあれ」
事故でも起こしたら、大変なことになる。
いつもは温厚な一輝もこの時ばかりは怒りを露にしていたが、バイクを運転していた男性もさすがに悪いと思ったのかヘルメットのシールドを上げ、ちらっと二人に視線を向けて頭を下げた。
その顔になぜか、恵は釘付けになった。
「あの人…」
「警視長の知っている方なんですか?」
「えっ、ううん。そうじゃないんだけど…」
全く見覚えのない人だったが、なぜか引っかかる。
―――何だろう、この感覚…。
バイクの男性は、左手を軽く上げるとどこへともなく走り去ってしまった。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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