休憩を済ませてから、恵と一輝は支庁舎内を回ることにした。
そしてついでに各課にも寄って課長クラスに挨拶してしまおうという考えだった。
本来なら課長を集めていっぺんに挨拶してしまえば済む話だったが、そこは若い恵のこと、そんなまどろっこしいやり方は面倒だとばかりに自分から出向いて行くことにした。
一輝も今までにないやり方に興味が湧いたようで、相手がどんな態度を示すか楽しみだった。
「まず、こちらは一課で、主に薬物の密輸入などを取り締まっているところです」
見知らぬ女性が現れたので課内の者は怪訝そうに見つめていたが、恵の胸章と肩章を見て慌てて敬礼する始末。
恵は、近くを通りかかった若い男性警部補に声を掛けた。
「すみません。笹川と言いますが、竹内警視はご在籍ですか?」
先に恵に言われてしまった一輝は少し不満だったが、それよりも恵が課長の名前までもきちんと覚えていたことの方が驚きだった。
―――事前に資料は送っておいたにしても、補佐官に任せるのが普通だろう。
一輝は、やはり恵が只者でないことをここでも思い知らされた。
「はっ、はい。こちらへどうぞ」
いきなり現れた上層部の人間に驚いたのか、若い男性警部補はどもりながらやっとのことで返事を返し、竹内のところへ案内してくれた。
―――まぁ、無理もないよな。
一般の警官が警視長直々に声を掛けられることなんて、滅多にないもんな。
面白がっている場合じゃないとわかっていても、一輝はどうにか笑いを堪えながら後を付いて行った。
「課長、笹川警視長をお連れしました」
若い男性警部補にそう言われてびっくりした竹内が、思わず席を立った。
まさか、警視長自らが自分の前に現れるとは思いもしなかったのだろう。
40代後半という少し小太りの竹内は、額に浮いた汗を一生懸命拭っている。
「始めまして、本日付で東京支庁勤務になりました笹川です。よろしくお願いします」
恵が軽く頭を下げると狼狽した竹内が、慌てて「こっ、こちらこそっ、よろしくお願いしますっ」と裏返った声で返し、外見からは想像もできないくらい体を器用に折り曲げて深々と頭を下げた。
その様子は、まるで水戸黄門を見ているよう。
となると一輝は、さながら助さんか格さんになるということか…。
しかし、自分にあそこまで彼女を守れる自信と力があるのだろうか?
先のことはわからないけれど、とにかく今は全力で彼女に付いていくしかないと思う一輝だった。
その後は二課、三課と順に回って行ったのだが、どこの課でも反応は同じだった。
上層部の下に付くというのは、ある意味快感かもしれない。
「警視長、少しお疲れじゃないですか?いっぺんに部署を回ったのでは」
執務室に戻ったのは部屋を出てから随分時間が経っていたから、相当疲れたのではないかと思う。
それは、自分も同じなのだけど…。
一輝の入れるコーヒーを気に入った恵のために、一杯入れることにする。
「そうだけど。一回で済ませておかないと色々言う人もいるでしょうし、それに後になると忙しくなって忘れてしまうかもしれないでしょ?」
そこまで気付かなかったが、突然現れた若い女性が自分の上司だと知って、何かと言う人間もいるのだということ。
―――彼女は、そこまで気を配っていたのか…。
自分には、まだまだ上に立つ資格はないなと一輝は思う。
「でも、どこの部署でも反応が最高でしたね。まさか、警視長直々に挨拶に来るとは思っていなかったのか、特に一番初めに行った一課の竹内課長は最高でした」
「なんだか、悪いことをしちゃったような気もするんだけど…」
連絡もなく突然行ってしまい、中には不在だった人もいた。
それはそれで別の問題があるように思ったのだが、仕方がないと割り切るしかないわけで…。
一輝が入れたてのコーヒーをデスクに置くと、辺りにいい香りが漂う。
「ありがとう」と言う恵の表情は、少し暗い。
「警視長が、そこまで心配することなんてないと思います。普段あまり上層部の方が来ることはないですから、いい機会だったのではないでしょうか?」
「そう、思ってくれるといいんだけど」
恵は、コーヒーを口に含むとやっと落ち着いたような気がした。
―――やっぱり、彼の入れてくれるコーヒーは美味しいわね。
そして、ふと柿本が言った言葉が頭を過ぎる。
『少し厄介なことになっていてな、どうしても恵の力が必要なんだ―――』
ここに呼ばれた理由が只事ではないことはわかるが、一体何が起こっているというのだろうか?
「ところで、警視長。お昼は、どうされますか?」
「もう、そんな時間?」
時計を見れば、もう昼になろうとしているところ。
挨拶だけで、午前中が終わってしまうとは…。
「私もこういう職に就いたことがありませんので、うっかりしていました」
「みんなは、どうしてるの?」
「どうなんでしょう。何か店から取っているのか、外に食べに行かれているのか…すみません、確認していませんでした」
恵の身の回りの世話をしなければならなかったのだが、一輝はうっかりそれを忘れていた。
自分は食堂か外にでも食べに行けばいいが、警視長はそうもいかないだろう。
「じゃなくて、高梨警視はどうしてるの?って、意味なんだけど」
「え?あっ、はい。私は時間がない時は食堂か、適当に外に食べに行ってますけど。どちらかと言うと、外の方が多いでしょうか?」
「今日は、どうするの?」
「あまり考えていませんでしたが、この陽気ですとラーメンあたりがいいかなぁと思っていますけど」
「ラーメン?」
恵は和食和食と思っていたが、ラーメンというものがあったのだと言われてみて思い出した。
―――美味しいのよねぇ。
でも中学以来、口にしていないかも…。
「はい。この近くに美味しい店があるんです。誰も知らない、秘密の場所なんですよ?」
「秘密?」
「はい」
「っていうことは、私にも教えてもらえないってこと?」
「え?まさか、警視長が行くのでは…」
「ダメ?」
「ダメってことは…」
―――そんな可愛い顔で、ダメ?って言われてはいダメですとは言えないだろう。
でもなぁ、昨日の『小泉』はまだしも、あの店はどうかなぁ…。
味は、保証付なんだけど…。
「高梨警視って、美味しいお店いっぱい知ってそうなんだもの。連れて行ってくれない?秘密は、守るから」
「はぁ…」
―――あぁ…俺って、こんなにも女性に弱い男だったのか?
というよりも、これは多分彼女限定なのだと思う。
上司だからとかそういうことではなく、何か聞き入れてしまいたくなる要素が彼女にはあったのだ。
それが何なのかは、わからなかったけど…。
「ほんと?秘密は、守るから。っていうか、これは基本よね」
さっきとは打って変わってにっこり微笑む恵に、一輝は一瞬釘付けになった。
―――そうだ、この顔。
いつまでも、この笑顔を見たいと思うから。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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