咄嗟に思い浮かんだ駅から程近いところにある豪邸の前まで来ると、綺羅(きら)はその家の門に付いていた表札を背で隠すようにして立ち止まる。
「わざわざ、送っていただいてありがとうございました。家、ここなんです」
「へぇ〜さすが、セレブはすごいところに住んでるんだな」
「そんなこともないですけど、あはは―――」
―――人の家なんて眺めなくていいからっ、お願い早く帰ってっ!!
綺羅(きら)の思いなど知らない中村さんは、他人様の家を隅々まで眺めてる。
だいたい、この人はここからレンタルビデオショップへの行き方を知っているのかどうか…。
この際、そんなことはどうでもいい。
とにかくこの状況から逃れたいのと、早いとこアパートに帰って着替えた後にバイトにも入らなければならないんだから。
「じゃあ、ここで。俺も楽しかったよ」
「おやすみ」と中村さんは迷う様子もなく、レンタルビデオショップのある方角へと消えて行った。
綺羅(きら)は「おやすみなさい」と手を振りながら、その後姿が見えなくなるまで見送ると急いで家に帰る。
自分が店に入る頃には彼が帰っていることを祈りたいが、時間的に微妙なところ。
それでも、さっきまでとは別人の姿で店に出れば、恐らく気付かれることはないと思うが…。
『俺も楽しかったよ』
ふとさっき、別れ際に彼が言った言葉を思い出す。
本当にそう思っていてくれれば、嬉しいけれど…。
彼の前で偽りの自分を見せたことをちょっぴり後悔しながらも、綺羅(きら)は家に帰って素早く着替えるとバイト先へと向かった。
「遅れて、すみませんっ」
今度も時間ギリギリ、なんとか間に合ったようだ。
「綺羅(きら)ちゃん、そんなに走ったら危ないよ」
ものすごい勢いで入って来た綺羅(きら)は、大股で膝に手をあてた格好でゼーゼー肩を揺らしていたが、何はさておき店内をキョロキョロと見回して中村さんがいないかどうかを確認する。
―――もう、帰ったみたいね良かったぁ。
ホッとしたのも、つかの間…。
「あっ、そうだ。さっき、来たお客さんがね。ほら、いつも渋いのを好んで借りて行く彼、覚えてる?高碕(たかさき)さんは、今日はいないんですか?って聞くから、もうすぐ来るよって」
「え…」
―――なっ、何ですって?
あの人は、そんなことを矢島さんに聞いていったわけ?
たまたまだとは思うけど、どうして私がいないのか?なんて聞いたのかしら。
それより、中村さんは…。
「えっとね。多分、まだ奥にいるはずだよ」
「おぉぉっ、奥にいる?!」
店内だということも忘れて、思わず素っ頓狂な声を上げた綺羅(きら)。
近くにいたオタクさん風の男性が、何事かとこっちを見てる。
―――あぁ〜何てこった…。
帰ったんじゃなかったわけ?
中村さんは私に会って一体、何をどうしようっていうのよ…。
「綺羅ちゃん、知り合いだったんだね彼と」
「別に知り合いってわけじゃ」
知り合いのような、知り合いじゃないような…。
お店で一言二言、言葉を交わしてはいたけど、まともに話をしたのはついさっきのことだし。
「ここはいいから、彼のところへ行っておいで。待ってると思うよ」
―――えっ、そんな必要もないと思うんだけど…。
「やぁ、高碕(たかさき)さん」
―――ギクっ。
背後から、聞き知った声が…。
私は恐る恐る振り返ると、さっきまで一緒にいたバッチリ決めたスーツ姿の中村さんが爽やかな笑顔で立っていた。
それにしても『やぁ』なんて、店ではお客さんと店員としてしか接していないのに…。
え…まさか…。
ううん、そんなこと絶対あるはずないもん。
今の私と受付嬢の私は、全くの別人なんだから…。
「綺羅(きら)ちゃん、レジは僕が入ってるから」
「やっ、矢島さん」
「ちょっとっ」なんて、綺羅(きら)の言葉など聞かずにさっさと矢島さんは、レジに行ってしまった。
―――変なところで、気を使うんだからぁ。
「高碕 綺羅(たかさき きら)。昼の顔はセレブと言われる商社の美人受付嬢で、夜の顔はレンタルビデオショップの冴えない店員」
「なっ、中村さん。どっ、どうして…」
―――やだっ!どうして、わかっちゃったの?
今日の私も、完璧なはずだったのに…。
「あのなぁ。いくら外見を変えたって、名前は変えられないだろ?」
「そんな珍しい名前」と、中村さんに呆れるように言われて初めて気付く綺羅(きら)。
まるで、推理小説のワンシーンみたいだったが、頭隠して尻隠さず…抜けていると言えば抜けているんだろう。
―――あぁ〜確かにそうね、って感心してる場合じゃないんだけど…。
「だから、何だって言うんですか?会社に言いますか?私が内緒でバイトしてること」
こうなったら、開き直るしかない。
まさか、弱みを握ったからといって綺羅(きら)を強請るようなことを彼はしないだろうし…ただ、本気で会社に言われることだけは困る。
今、会社を辞めてしまったら、セレブへの道が完全に絶たれてしまう。
それだけは、絶対に…。
「あっ」
突然、メガネを取られてわずかに遅れた綺羅(きら)の手が無常にも空を切る。
「こんなメガネ、似合わないだろ」
「似合おうと似合わないと、中村さんには関係ないです。返して下さいよ」
背の高い彼の手にあるメガネを、綺羅(きら)がどうやっても取り返すのは困難だった。
しかし、そんな彼の目はとっても優しくて…。
「俺は会社に言うつもりはないけど、理由は聞いてもいいか?」
立ち入ったことを…と中村自身も思ったが、昼の顔と夜の顔、どうしてこんなことをしているのか興味があったのは事実。
超が付くほど美人な上にセレブと言われている彼女が、なぜ…。
それを口実にもっと彼女と話したかったというのは、中村の心の中にそっと仕舞っておくことにする。
「わかりました。でも、私これから夜中まで仕事が入ってるんです」
「それで、明日も朝から笑顔を振り撒いて受付嬢を務めるのか」
呆れ顔の彼に大きなお世話と綺羅(きら)は思ったが、これについての返答は何もしなかった。
それが今の自分の本当の姿なのだし、否定はしない。
「明日もバイトなんだろ?何時からなんだ?」
「22時からですけど」
「それまでの間なら、いいか?」
「夕飯、奢ってやるから」と中村さんに言われて、綺羅(きら)は断れなかった。
夕食が浮くからなんてことではなくて、どんな形であっても彼ともう一度会って話ができる。
―――ううん、どこかでこんな偽りのセレブなんてやめてしまえと思う自分がいたのかも…。
メガネを返してもらって冴えない店員に戻った綺羅(きら)を、中村さんはずっと見つめていた。
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