その夜、何となく菜摘の言葉が気になって、遥は彼のマンションへ内緒で来ていた。
結婚するんだからとお互いの部屋のスペアキーを交換していたものの、一度も使ったことはないし、その機会もなかったのだが、急に驚かせたくなったのだ。
こんなふうに好きなものを作りながら愛する人の帰りを待つなんて、恋に恋している真っ最中の女性がやることだとわかっていても、今の遥がまさにその状態に陥っていると認めるしかなかった。
うっとおしいと思うだろうか。
彼と顔を合わせるのが怖い。
それでも…。
『遅いなぁ』
人気のドラマを見ていても、ちっとも頭に入ってこない。
残業なのか、それとも飲みに行っているのか、勝手に来てしまったのだから彼を恨むわけにはいかないが、こういう日に限って運が悪い。
これ以上長居しても、明日は休みだと知っていて来たのが狙ったみたいで嫌だった。
メモを残して帰ろう、そう思った矢先にドアに鍵を挿す音が聞こえ、遥は急いで玄関先に向かったが。
「遥、なんで」
驚きと共になんでここに居るんだという表情で見据える蒼大に寄り添うように若い女性が立っていた。
俯いて顔は見えないが、背中まで掛かる明るいブラウンの髪が綺麗にカールしていて、膝上丈のスカートから長い足が見える。
アルコールの臭いが鼻を突き、飲んできたのはわかったが、あからさまな態度にやはり来るんじゃなかったと後悔の念が過った。
「ごめんなさい。勝手に来ちゃって」
「いや、いいんだ」
この状況でなんと言っていいのかわからない彼に傍らの女性が「蒼君、どうしたのよ。この人誰?」と遥を怪訝そうに見つめた。
蒼君、そう言った?
自分と同じ呼び方をするこの女性は一体誰なの?
問い質したい気持ちを抑え、遥はきびすを返してリビングに戻りバッグを握り締めると再び玄関にやって来た。
二人はまだその場に突っ立っていたが、無言のまま出て行く。
「おい、遥っ」
呼び止める蒼大の声が廊下に響いたが、遥がエレベーターを待っている間も追って来る様子はない。
恐らく、隣にいた女性に止められたのだろう。
『もちろん絶対浮気をしないと誓う、生涯君だけだ』なんて調子のいいことを言っておきながら、結婚する前から二股を掛けていたなんて。
いや、それ以上かもしれない。
遥はどこまで男運がないのだろうか。
裏切られたという思いと彼に恋してしまった自分が情けなくて、目の奥が熱なるのを抑えきれずに涙が溢れ出した。
あんな男のために泣くなんて。
『こらっ、黙ってないで言い訳くらいしろ』
『電話くらい掛けて来たっていいじゃない』と携帯電話を指で小突きながら、ひとしきり愚痴をこぼす遥。
いや、帰路の電車の中でも人目も気にせず、泣き泣きブツプツ言っていたのを変な目で見られていたのを思い出した。
『これも、みんなあの男が悪いんだ』
『ちょっとくらい顔が良いからって、人を馬鹿にして』
『あんな綺麗な彼女がいるのに二股だぁ?ふざけるな』
『だったら、私なんかとお見合いまがいみたいなことして結婚まで…』
『あっ、もしかして結婚詐欺とかだったりして』
『自分は恋なんかしないとかいって同じ考えの女性を巧みに騙し、結婚を迫って多額のお金を』
『お金は取られてないわよねえ』
『これから、そうするつもりだったのかもしれないし』
『クっそぉ、あんなろくでなし男のために涙が止まらないの?それに鼻水も』
さっきから、涙腺が壊れてしまったようで泣きたくもないのに涙と鼻水が溢れ出るのだ。
『私だけ、好きで好きでたまらないなんて悔しいっ!!』
「ったく。泣くか、しゃべるか、鼻水垂らすかどれかにしろよ」
背後から突然声がして、遥はその場から1mくらい前に飛び退いた。
「なっ、なんで」
「合鍵貰ってて良かったよ。どうせ、ブザー鳴らしたって開けちゃくれないだろうし」
遥が渡したマカロンのキーホルダーが付いた鍵を顔の辺りで揺らして見せる蒼大。
いつの間に部屋の中に入って来たのか、愚痴に夢中になっていた遥が気付くはずもなく。
「どこから開いてたの?」
「『これも、みんなあの男が悪いんだ』からかな」
げっ、全部じゃない。
一気に恥ずかしさが込み上げてきたが、面と向かって言うよりは本音を逆に聞かれていて良かったのではないだろうか?
両親に対しては喜ばせておいてこんなことになってしまい申し訳ない気持ちで一杯だったが、まだ傷物にならないうちに気付いて良かった。
そりゃあ、すぐには立ち直れないかもしれないけれど。
「ほら、垂れてるぞ」
蒼大はティッシュの箱から1枚抜き取って遥の前に差し出したが、彼女は一睨みしてそれを奪い取ると可愛げもなく音を立てて一気に鼻をかんだ。
惚れた欲目とはよく言ったもので、そんな仕草さえも愛しく思えてしまうのだから。
彼女の傍らに腰を下ろすとまず何から話したらいいかを急いで考える。
「一緒に居た女性のことだけど」
「もういい。言い訳なんて聞きたくない」
言い訳しろと言っておきながら、別れてくれこの結婚はなかったことになんて言葉を聞く勇気はなかった。
両耳を塞いでクルっと背を向けて俯いたままの遥かの前に蒼大は座り直すと、そっと彼女の手に自分の手を重ねた。
その温もりに心が揺らいでしまいそうになったが、決して力ずくで引き剥がそうというのではなく、ただひたすらに彼女が心を開いてくれることを待っていた。
「遥、聞いて」
遥はゆっくり手を下ろして顔を上げると、そこには優しく見つめる彼の顛があった。
「今夜は学生時代の友達と飲みに行ったんだ。一応言っておくけど男だけだよ。急な誘いだったけど、仕事もなんとか切り上げられそうだったし、結婚のことをみんなに話す、いい機会だと思って」
腐れ縁というのか高校からずっと仲の良い4人だったが、最近では会社の中でも仕事を任される年齢になり、会う機会もめっきり少なくなっていた。
そんな中での誘いだったし、4人の中で一番に結婚が決まった蒼大は発表するのにいいチャンスだと思ったのだ。
案の定、みんなはとても喜んでくれて、お祝いだとかなんだとか一人が行きつけだという店に行ったのがマズかったのかもしれない。
相手をしてくれた女性までも一緒になってお祝いしてくれたものだから、それがいつも以上にお酒が入るキッカケになったことは否定しない。
家に連れて帰ったのは不徳の致すところ、弁解のしようもないが、酔っ払ってフラフラの他の連中に比べてまともだった蒼大がその役を引き受けざるを得なかったのだ。
誓っても彼女と一夜の情事を楽しもうなんて思ってやしない。
言い訳に聞こえるかもしれないが、蒼大の家に泊めて自分はそれを口実に遥の家に行くつもりだったから、まさか、その遥が来ているとは露知らず。
「帰る時、マンションの前でタクシーを見なかった?」
「え?」
怒りと興奮に加え、涙で目の前が曇り、タクシーが止まっていたかどうかなど遥が気付くはずもない。
「彼女は飲んでいた店のホステスってだけで、他に一緒に飲んでた友達も居たんだよ。全員酔っぱらってたからタクシーに残して一人ずつ部屋に連れて行くしかなくて」
「蒼君とあの女性だけじゃなかったの?」
黙って領く彼にあぁなんという運の悪さだったのだろう。
その状態では遥を追って来られるはずなどないのに。
「でも、あの女性(ひと)、蒼君って呼んでた」
結婚相手の遥と同じ呼び方をさせるなんて。
「それは何度も言ったんだ。そう呼んでいいのは俺の嫁さんになる女性だけだって。だから、店では蒼大君って呼んでたんだよ。なのに遥を見た途端、あの女ワザと言いやがった」
嫁さんになる女性だけ、それは私のことを言ってるのよね?
「泣かせるようなことしてごめん」
蒼大は遥をただ抱きしめることしかできなかった。
例え、誤解であっても彼女を泣かせるようなことをしたのだから本来ならば男として、近い将来の夫として失格だけど、何よりこんな自分を好きでいてくれたことが嬉しくてたまらないのだ。
「嫌いになった?」
「え?」
さっき、『私だけ、好きで好きでたまらないなんて悔しいっ!!』と言ったのを聞かれていたことを後悔してももう遅い。
蒼大は頬を真っ赤に染めて俯く遥の顎に指をあてて上向かせた。
もう一度、この口で言って欲しい。
「聞いてたんでしょ?」
「顔を見てちゃんと聞きたいんだ」
「悔しいけど、蒼君のことが好きで好きでたまらないの」
でも、こういうのウザいとか思ってるんじゃ…。
「俺も好きで好きでたまらないんだ。遥のことが。恋なんてしないなんて嘘だ。初めて会ったあの日に俺は恋をしてしまったんだよ」
予期せぬ告白に目を見開く遥。
好き?恋?
蒼君も私と同じ気持ちだったの?
「ほんと?」
「あぁ。遥が燃えるような恋をしたくなっちゃったのって言った瞬間、俺もそう思ったんだ」
「だったら、プロポーズまでしなくても」
お互い惹かれるものがあったとしたら、何もプロポーズまでしなくても良かったんじゃないのだろうか?
「遥が昔、傷ついたことがあったんじゃないか、確信が欲しかったのかなって。俺のものにしてしおきたかったんだ。なのに」
蒼大は自分でもわからなかったが、ものすごく独占欲が強かったということ。
とはいっても、あの状況でイエスという返事がもらえる確率はかなり低かったはず、それでも遥は薔薇の花束を受け取ってくれた。
だから、結婚したらこれでもかというくらい甘やかしてやるつもりだった。
10年目のダイヤ以外にも、もっともっと。
それなのに。
「どうする?結婚するの少し遅くするか?」
「ううん。今のまま、今すぐにでも」
「その前に食べ損なった手料理作ってくれる?○○○エプロンなん───」
痛ってぇ、グーで殴るなグーで。
大げさにみぞおちを抑える蒼大だったが、不意を突いてその場に彼女を押し倒すと柔らかで艶やかな唇を奪う。
いっそ、デキちゃった婚にしてしまおうか。
いや、少しの間、二人だけで燃えるような恋をしよう。
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