遼は、静まりかえったオフィスの廊下を抜けると一番奥にある部屋のドアの前で立ち止まる。
今日は早朝会議の日ではないから、他の役員どころか秘書さえもまだ来ていない。
しかし、この部屋の主だけはとっくにいることを知っていたから。
「失礼します」
数回ドアをノックすると同時にノブを捻って、返事も聴かずに勝手に中に入る。
老眼の入ったメガネを掛けて新聞を読んでいたその人は、驚いた顔でこちらを見ていた。
「どうした。こんな朝早くから、何かあったのか?」
「おはよう。いや、特にはないけどさ」
「ないなら、どうしたんだ。朝の弱いお前が、こんな早くに」
父がこう言うのも、無理はない。
自分の家を建ててからというもの遼はここでしか父親と顔を合わせないが、小さい時から朝が弱いことを誰よりもよくわかっていて、それが今も変わらないことを。
「あのさ。ごめんな、あんなことを言って」
ノエルに言われて少し言い過ぎたなと後悔していた遼は、早速父の元へ謝りに来たのだった。
恐らく、彼女に言われなければ、こうして自ら出向くことなどなかっただろう。
「それを言いにわざわざ、こんな朝早くから私のところへ来たのか」
「あぁ」と頷く遼。
父とて、若い世代に自分の古い考えを押し付けていたのだと反省していたところ。
だから、息子から謝って欲しいとも思っていなかったし、まさかこうやって来るとは思ってもみなかった。
「お前は、もっともなことを言っただけだ。私が、大人げなかったんだよ」
父は眼鏡を外すと椅子の背に深く凭れる。
「それは、俺の方だ。やる前から、くだらないなんて言ってさ。ノエルに言われたんだ。『ちゃんと謝らないと。このままでいいんですか?』って」
「ノエル?」
父には付き合っている彼女がいることは話していたが、名前もそれ以上のことも何も言っていなかった。
でも、ここでノエルのことを話したら、どういう反応をするだろうか?
「付き合ってる彼女の名前だよ」
「まさか、あの大騒ぎになったモデルみたいに週刊誌に書かれるような相手じゃないだろうな」
以前、週刊誌に載った『スクープ!!東京シティホームズのイケメン専務 速水 遼氏(27)が、カリスマ美人モデルAさん(23)と深夜デート発覚!!』という記事が、世間を騒がせたことがあった。
もちろん、ノエルという彼女がいるのに事実無根の話だったが、そのモデルがあろうことか根も葉もない交際を認める会見を開いたものだから、レポーターやら取材陣が本社ビルまで押し掛けて大騒ぎに。
父の威厳で何事もなく治めたが、またあんなことになったらたまらない。
「あ?そんなわけないだろ。ノエルは、うちの会社に勤めてる普通の子だよ。ったく、あのモデルのおかげで俺は彼女と別れることになっていたかもしれないんだ」
遼は社長室の半分を占めてしまうほど大きなソファーに深く腰を埋めると、あの時のことを思い返す。
もし、あのまま別れるようなことになっていたら…。
考えただけでも、胸が痛む。
「そうだったのか。それで、そのノエルさんと言う女性は、どんな人なんだ?」
父も相手が普通の女性と聞いて意外だとは思ったが、その様子を見れば想いが本物だとわかったし、あの会見で言ったことも。
てっきり、演技だとばかり思っていたから…。
「そりゃあ、めちゃめちゃ可愛くて。いや、可愛いだけじゃなくて、心が優しいんだ。だから、ノエルに免じて余興を止めるって言ったのを取り消してくれないか?」
「そうは言っても。私だけ、楽しんでもな」
この言葉は、遼も口にしたこと。
でも、ノエルが言っていたようにみんなでやればきっと楽しいはず。
「みんなでやれば楽しいさ。これもノエルが言ってたんだけど、俺もそうかなって。専務になる前は、部のみんなとやって実際そうだったし。他の役員達はどうかわからないけど、任意にするなり方法はあるだろう」
思ったことをはっきり言う遼のことを父は悪いとは思っていない。
むしろ、それは将来、人の上に立つ者としては大事なこと。
ただ、否定するだけでなく、ほんの少しでも考え方を変えてみることも必要ではないのだろうか?
「ノエルさんに感謝しなきゃいけないな。私の一年に一度の楽しみを奪われなくて済んだことと、お前のことも」
「今度、家に連れてきなさい。母さんも喜ぶだろうから」と話す父はいつもより穏やかで、企業のトップというより、今だけは息子を思う父親の姿だった。
+++
ワンっ、トゥっ、ワンっ、トゥっ
「はい、腰をきちんと振って下さいね。ほら、遼さん。余所見してないで、もっと、激しく」
パンっ、パンっとリズミカルに手を叩きながら指導するタヒチアンダンスの先生は若くて綺麗だったが、見惚れている暇はなく、ちょっとでも気を抜くとすぐに怒られる。
…ったく、親父のヤツ。
ノエルに免じて許してやったはいいが、早速先生を呼んで来るとは…。
「野坂さん、いいですね。その調子ですよ」
精鋭ばかり、総勢5名のタヒチアンダンサーズのメンバーには、もちろん野坂も入っていた。
意外に体が柔らかいのか、先生には褒められて。
それが、遼にはおもしろくない。
あれから、遼は役員全員のところへ出向き、余興をやる旨を伝えると誰も断るものはいなかった。
中には楽しみにしている者もいたし、何となくという者もいたが、日常の自分から離れられるということもあって、始めてみればなかなかどうして、みんな楽しんでいる様子。
何でもやってみなければ、わからないこともある。
これは、ノエルに教えられたこと。
…それにしても、腰と足の動きが難しいんだよ。
考えながらやっていると、先生に怒られる。
何で、俺ばっかり。
◇
「遼、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないっつうの。痛ってぇんだよ、腰が」
せっかくノエルが家に来てくれたっていうのに遼は激しいダンスの練習のせいで、腰を痛めてソファーにうつぶせて湿布を貼ってもらっていた。
年寄りみたいだと言われても、痛いものは痛い。
…これじゃあ、あっちの方もできないじゃんか。
とほほ…。
「こんなになるまで一体、何の練習をしてるんですか?」
「あ?それは、言えないな」
…おっと、つい言うところだったぞ?
いくらノエルの頼みでも、これだけはダメなんだ。
当日までは、絶対秘密。
でなきゃ、つまらないからな。
「ケチぃ」
「ノエル、そういうこと言うのか」
「だってぇ。何をやるのか、知りたいんですぅ」
「そういう、ノエルは何をやるんだ?」
ノエルの所属する住宅販売部でも、余興に参加する。
聞いていなかったが、ノエルの部署では何をするのだろうか?
「遼がナイショにするなら、私もナイショです」
…くぅ、ノエルは何をやるんだよ。
痛ててて。
これぞとばかりにナイショといわれてしまった遼は、おとなしく寝ているしかなかった。
NEXT
BACK
INDEX
EVENT ROOM
TOP
Copyright(c)2006-2013 Jun Asahina,All rights reserved.