「私はまだ仕事が残っていますので社に戻りますが、何かありましたらいつでも連絡して下さい」
「ありがとうございます。野坂さん」
「いえ。専務が早く戻られるといいですね」
「それでは」と、野坂は一人戻って行った。
誰もいない、それも人の家に入るというのは微妙なもの。
―――野坂さん、もう少し一緒にいてくれてもいいのに。
などとノエルは都合のいいことを考えながら、リビングの灯りを点けてソファーに腰を下ろす。
―――会議が長引いているって言ってたけど、遅くなるのかなぁ。
お腹空いちゃうわよね。
真っ直ぐここへ来てしまったから、途中で買い物をすることもできなかった。
―――そうだ!冷蔵庫に何か入ってないかしら?
彼は仕事が忙しく、ほとんどが外食か定期的に届くレトルトのおかずを温めて食べるのだと言っていた。
だから、冷蔵庫に何か食材が入っているとは思えないが、もしかしてと取り敢えず覗いてみることにする。
―――あぁ…。
あるのは、缶ビールとミネラルウォーターばかり。
あとは、マヨネーズ?
これじゃあ、何も作れないわよねぇ。
仕方ない、ちょこっと買いに行くかぁ。
車で通る途中、ノエルには縁の薄い高級なマーケットがあったのを思い出す。
この辺は高級住宅街だから、セレブな人達がたくさん住んでいるのだろう。
お財布にお金が入っていることを確かめてから、家を出た。
◇
思ったより、早く帰れそうだな―――。
遼は駅からタクシーに乗り込み、自宅へ向かっているところだった。
会議が終わるや否や急いでその場を飛び出し、本当なら一度社に戻って報告書をまとめなければならないところだが、今夜だけはそんなことは言ってられない。
これは、日曜日に出勤することでカバーするしかないだろう。
運転手に飛ばしてくれと無理を言った分、釣りはいらないと札を手渡し、タクシーを降りると家の中へと入って行こうとしたが…。
………ん?
ブザーを押しても、応答がない。
ノエルは、いるはずだよな?なのに、何で出ないんだ?
さっき、ノエルを家まで送り届けたという連絡が、野坂からあったのに…。
何度押しても応答がなく、鍵はノエルに渡してしまっていたから、このままでは家の中に入ることができない。
………おい、ノエル。
どこ行ったんだ。
携帯に電話を掛けてみたが、出ない。
………まさか、ノエルに何かあったんじゃ…。
◇
野坂は会社で仕事の残りを片付けていると、携帯に電話が入る。
…専務から。
「はい、野坂ですが」
『野坂、ノエルがいないんだっ』
「いないと言いますと」
『だから、家にいないんだよ。鍵が掛かっていて中にも入れないし、携帯も繋がらない。もしかして…』
「えっ、そんな…先ほど、私は彼女が専務宅に入るところを確認したのですが。それに何かあったら、連絡するようにも言いましたし…」
『どうしよう…』
「専務が家に入ることは、できないんですか?」
『スペアキーは、家の中だからな。鍵を壊さないと無理だ』
「鍵が掛かっているということはちょっと外へ出ているだけとか、都合で自宅へ帰られたのかもしれません。いずれにしても、もう少し待ってみては―――」
『野坂っ!他人事だと思ってないか?お前が付いていながらっ。ノエルにもしものことがあったら、野坂の責任だからなっ』
…そんな、大きな声を出さなくても…。
興奮していて、冷静さを失っている遼に何を言っても無駄だろう。
それにしても、ノエルはどこへ行ったのか…。
とその時、背後から聞こえた声は…。
「遼?どうしたんですか?こんなところで大声を出したら、近所迷惑ですよ」
「ノエル…どこへ行ってたんだっ。変なヤツに連れて行かれたんじゃないか、心配して」
「えぇ、変なヤツですか?ちょっと、近くのマーケットまでお買い物に行っていただけですよ。だって、遼ったら冷蔵庫の中に何も入っていないんですもの」
(あぁ、前に聞いた話では専務の家の冷蔵庫には、確かビールと水とマヨネーズしか入ってないとか…)
そんなノエルの両手には、大きなビニール袋が一つずつ。
「あのマーケット、トマトが一個300円もするなんてぇ。でも、すっごく美味しそうだったんですよ。どんな味がするんでしょうね?」と暢気に袋から出して見せたりして…。
「ノエルっ」
「うわぁっ。ちょっ、遼。待っ」
いきなり抱きしめられて、ノエルは大きな声を上げた。
―――近所迷惑だって、言ってるのにぃ…。
「待たないっ。俺がどんな気持ちで…」
「遼?」
「良かった…ノエルに何もなくて」
本気で自分のことを心配してくれた遼。
こんな時に何だけど、こんなふうに抱きしめてもらえるのも久し振り。
「ごめんなさい、心配掛けて。もう少し帰りが遅くなると思ったから」
「会議が終わった途端、飛び出して来たから」
「え、飛び出してって…大丈夫だったんですか?」
「大丈夫だよ」
(大丈夫って…今日は、大事な会議だったはずでは…)
契約前の重要な会議のはずだったのに、そんな飛び出してくるなんて…。
相手が悪く思わなければいいけど…。
「本当ですか?」
「俺を信じてないな。それよりさぁ、まだ言ってもらってないんだけど」
(言ってもらってないって、何だろう?)
野坂は顎に手を当てて考えてみるが、思いつかない。
「お帰りなさい」
「ただいま」
チュッという音に、野坂は電話越しに『なるほど』と頷く。
久し振りに二人っきりになれたのだから、これくらい…まったく、独り身の野坂には羨ましい限り。
携帯の通話ボタンを押したままで、恐らく二人の顔の近くに電話機があるのだろう。
会話が全て、野坂の方へ聞こえてくる。
まぁ、野坂も切ればいいものを盗み聞きしているわけだが…。
「で、ノエル。今夜は、何を作ってくれるんだ?」
「えっと、トマトのサラダときのことサーモンのクリームパスタです。ごめんなさい。私、あんまり料理ができなくて」
「いいんだよ。そんなの、気にしなくても。ノエルが作ってくれるっていうのが、いいんだから―――なぁ、野坂。羨ましいだろ」
(げっ…専務、気付いてたんですね)
『迷惑掛けて悪かったな』
「良かったですね。金子さんが見つかって」
『あぁ。野坂も、あんまり無理するなよ?』
「はい。そろそろ、帰ります」
通話を切った野坂は周りの目も気にせず、『くぅー羨ましいー』と叫んだのでした。
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