「あっ、野坂さん。こんにちは」
ノエルがエレベーターで下まで行く途中扉が開き、乗ってきたのは野坂だった。
―――なんだか、野坂さんにはエレベーターでよく会うわね。
「これは金子さん、こんにちは。どこかへ、行かれるのですか?」
野坂がそう思ったのは、ノエルが手に傘を持っていたから。
今日は朝から雨が降っていて、予報では夜半まで降り続くらしい。
「はい。ちょっとお使いを頼まれて、郵便局にこれを出しに行くんです」
手に持っていたクリアケースの中には、A4サイズの封筒が入っているのが見える。
郵便局は少し離れたところにあるから、仕事とはいえこの雨の中、あそこまで行くのは大変だ。
「それは、大変ですね。結構、雨も降っているようですし」
「大丈夫ですよ。私、雨は割りと好きなんです」
「珍しいですね。雨が嫌ではないなんて」
普通なら、雨の日は服も濡れるし、髪も水分を含んで広がったりするから憂鬱に思うのに、彼女はそうでもないらしい。
「土砂降りは別ですけど、雨の日にしか聞こえない音とか、見られない景色とか、そういうのが好きなんです」
「そういうものですか?私には、やっぱり憂鬱なだけですが…」
感性が乏しい野坂には、雨はやっぱり憂鬱なだけ。
というか、自分だけでなく尊敬する上司もきっと同じことを言うに違いない。
後で、それとなく聞いてみようと思うのだった。
◇
「なぁ、野坂。この雨、何とかならないか?一日、憂鬱な気分になる」
椅子から立ち上がって、窓の外を見下ろしては溜め息を吐く遼。
ノエルと別れて専務室に呼ばれた野坂だったが、今のひと言でさっきの質問をする意味がなくなったなと思う。
「専務には、雨の日にしか聞こえない音や見られない景色といったものを楽しむという感性は持ち合わせていないようですね」
「はぁ?雨の日にしか聞こえない音や見られない景色だと?そういう野坂には、あるのかよ。その感性とやらが」
ムッとした言い方の遼に、つい言い過ぎたかなと思いつつも、野坂は笑いを堪えるのに必死。
「何だよ、そんなにおかしいのか?」
「違いますよ。これは、さっき金子さんに会った時、彼女が言っていたんですよ」
「ノエルが?」
てっきり野坂の嫌味だとばかり思った遼だったが、これを言ったのはノエルだったとは…。
「私も専務と同じ、雨の日は憂鬱なだけと思います。でも、金子さんは、『雨の日にしか聞こえない音とか、見られない景色とか、そういうのが好きなんです』と」
「ノエルが、そんなことを」
再び窓の外を見下ろすと、色とりどりの傘をさした人々が行きかう姿が目に入る。
ビルの中にいると雨の音はそれ程感じられないが、景色というのはなんとなくわからなくもない。
まぁ、野坂同様、生憎そんな感性を持ち合わせていない遼にはその程度の感想しかなかったが…。
ただ、思い浮かぶのは、ノエルに声を掛けたのはこんな雨の日の夜だったということだけ。
「金子さんと一緒にいると、嫌なこともそうでないように思えてくるから不思議ですね」
「野坂も、そう思うか?」
「はい」
仕事のこともそうだが、ちょっとしたことで悩んだり、カチンときたり。
でも、ノエルと一緒にいると、そんなことも忘れてしまうのだ。
「だからといって、ノエルを好きになってもだめだから」
「は?!」
せっかくいいところなのに、一体何を言い出すのかと思えば…。
いくらなんでも、野坂は上司の彼女を好きになったりはしない…つもり?!
「私は、神に誓ってもそようなことはっ!」
「言ってみただけさ、そんなにムキになるなって。っつうか、野坂には彼女はいないのか?」
え…。
どうして、そんな話に…。
私のことは、いいじゃないですか。
「私のことは」
「何だよ。上司の俺にも言えないのかよ。いっつも、はぐらかしてるだろ」
「そういうわけでは…」
なぜか、自分のプライベートについては全く語ろうとしない野坂。
それは、どうしてなんだろう?
「よし、今夜は飲みに行くぞ?」
「えぇ?」
「野坂、嫌とは言わせないからな。これは、上司命令だ」
「そんな、職権乱用です」
「いいから、どこか店を予約しておけ」
「はい…」と答えるしかない野坂。
…あぁ〜きっと、根堀葉堀聞くんだろうなぁ…。
野坂は専務室を出ると、大きく溜め息を吐いた。
+++
仕事が残っていたから、野坂と共に遼が会社を出たのは20時を少し過ぎたところだった。
さすが抜け目ない遼は、きっちり代行まで頼んで今夜はとことん飲むつもりらしい。
いくら週末とはいっても、明日は彼女とデートの約束をしているはずなのに…。
「まずは、ビールで乾杯といくか」
「いいんですか?明日は、彼女とデートなんじゃ」
「心配しなくても、逢うのは夕方だから。映画を見て、食事して、後は俺の家で…ナニを」
聞いた野坂が間違いだった…。
ビールで乾杯すると遼は一気にそれを飲み干したが、野坂はそんな気分ではない。
何を聞かれるか、わからないんだから。
「ぷはぁ〜やっぱり、仕事の後の一杯は格別だな」
「そうですね」
「なんだ、その覇気のなさは。まぁ、話したくなければ話さなくてもいいさ。いくら俺でも、部下のプライベートに深く立ち入るつもりはないからな」
遼は同じ物をもう一杯追加する。
軽いつもりで飲みに誘ってみたものの、野坂の様子を見る限り、余程話したくないことなのかもしれない。
「そういうのではないんです」
神妙な面持ちの野坂だったが、ガーっとビールを飲み干すと追加で同じ物を頼む。
「つまらないらしいんです」
「つまらない?」
「私と一緒にいても」
外見はかなりモテルであろう野坂だったが、付き合った女性にはことごとく『つまらない』と言われ…。
それがトラウマとなって、新しい恋ができないのだ。
もちろん、遼とノエルのことは羨ましいと思うし、いつか自分だってと…。
「誰が」
「付き合った女性にはほとんど、そう言われました」
「そいつら、アホだな」
「えっ」
二人の前に新しく運ばれてきたビールを遼は半分ほど飲み干すと、ガンッっと音を立ててグラスをテーブルの上に置く。
「野坂の良さがわからないなんて、アホ女だっつうの」
「専務…」
「俺が探してやるよ。野坂の全てをわかってくれる女性を」
そう言って、鼻息荒く残りのビールを一気に空けた遼。
上司の言葉が嬉しくないわけではなかったが、そんな女性が果たしているのだろうか…。
可愛い彼女ができれば…なぁと願う、野坂だった。
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