祐里香が朝出勤して更衣室に入るとエレベーターが一足違いだったのだろう、ちょうどロッカーのドアを開けようとしていた真紀ちゃんが目に入る。
「真紀ちゃん、おはよう」
「おはようございます、祐里香さん。コンサートは、どうでした?」
「そりゃもう、最高だったわよ。前から5列目の真ん中の席だったし、ずっと総立ちでアンコールなんて何回も応えてくれたし」
思い出しただけであの時の興奮が蘇り、全身に鳥肌が立ってしまう。
でも、その前に稲葉に連れて行ってもらったお店で食べたプリンが美味しくて…って、あたしったら何どうでもいいことを考えてるわけ。
「そうなんですかぁ?いいなぁ。祐里香さん」
「ごめんね。あたしばっかり、いい思いしちゃって。稲葉も今度もらう時は、それとなく4枚もらえるよう頼んでみるって言ってたから」
「楽しかったんですよね…」
───ん?どうしたのかしら、真紀ちゃん。
なんか、元気がないみたいだけど…。
「うん、まぁね。相手が稲葉っていうのは微妙だけど、美味しいプリンのお店にも連れて行ってくれたし、久しぶりに楽しい思いをさせてもらったかな」
一緒に行った相手が稲葉っていうのは微妙なんだけど、隣にいてもあいつやっぱりカッコいいかなって、今まで付き合ったどの男よりも優しいし、第一あたしの好みのツボをよく押さえてるわね。
だから、すっごく楽しかった。
あれ?だけど、真紀ちゃんも小山課長とデートだったんじゃぁ。
「稲葉さん、祐里香さんのために素敵なお店に連れて行ってくれたんですね」
「真紀ちゃんだって───」
更衣室に続々と出勤してきた女子社員が入って来たため、祐里香は真紀ちゃんの側に近寄って耳元で囁くように会話を続ける。
「真紀ちゃんも課長とデートだったんでしょ?」
「えぇ、まぁ…」
「何かあったの?」
「それが…」
「何、どうしたのよ。この祐里香さまが、何でも聞いてあげるから。ね?」
あたしがそう言うと、言い方がおかしかったのか真紀ちゃんはニッコリと微笑んで頷いた。
それにしても、課長と一体何があったのかしらね?
◇
真紀ちゃんと課長のことが気になっていた祐里香は、仕事中もそれとなく課長に目を向けてみる。
特別変わった様子はなかったが、「小山課長、電話です」と近くの女子社員が声を掛けてもボーっと一点を見つめて気付かないあたりは、やはりその影響なのだろうか?
お昼休みが待ち遠しかったあたしは、12時の鐘が鳴ると急いで真紀ちゃんを誘って社食へ行くことにする。
「で、真紀ちゃん。課長と何があったわけ?」
「えっと、映画を見に行ったんですね。ちょっと怖いやつだったんです。私、そういうのすごく好きで、でも怖いから課長の腕を掴んだんです」
「それで、それで?」
少々興奮気味のあたしは、食べることをそっちのけで身を乗り出すようにして相槌を打つ。
普通、こういうシチュエーションになったらチャンスだもん、彼女の手を握るわよね。
いや、肩に手を回したりするのかしら?
「大丈夫だよって、手を握ってくれるかなって思ったんですけど、全然そんなことなくて。私のことなんて目に入らない感じで、スクリーンに釘付けで…」
「えぇ〜?課長、何やってるのよね。そういう時は、しっかり男らしくビシッと決めなきゃ」
「その後も手を握るどころか、私が腕を組もうとすると、スルリと逃げちゃうんですよ?食事をしてても目も合わせてくれないんです。話も聞いてるのか聞いていないのか、“あぁ”とか“うん”とかばかりだし。祐里香さん、どう思います?」
───それって…。
真紀ちゃんの話を聞いていて思ったのは、もしかして課長は恥ずかしい?のかもしれない。
だけど、子供じゃないんだから目も合わせないって…。
「課長って、実は恥ずかしがりやさんなのかしら?」
「そうなんですかね。私が無理に告白したりしたから、迷惑だったんでしょうか」
「それは、ないと思うけど」
課長だって、いくら押し切られたところがあったとしても、そう簡単に付き合うとは言わないでしょう?
迷惑だったってことは、絶対ないと思うのよ。
じゃあ、何で?って言われると困るけど…。
「私もちょっとムッとしちゃって、課長もそれがわかったんだと思います。お互い気マズイまま別れたんですけど、電話もしにくくて、どうしたらいいか」
「そっかぁ。そういうことだったの」
───なるほどね。
課長に浮いた話がなかったのも、理由はそんなところにあったのかもしれない。
だからって、このままってわけにはいかないわよね。
せっかく想いが通じたっていうのに…。
なんとかならないかしら?
祐里香の中にお節介心がフツフツと沸き上がってくる。
「真紀ちゃん、あたしに任せて。なんとかするから」
「えっ、祐里香さんが?」
「うん」と胸をポンッと叩く祐里香に驚き顔の真紀ちゃん。
まさか…。
「安心して、ボコボコにはしないから」
あたしはニッコリと微笑むと、『あの奥手課長をどうやって変貌させるか』を真剣に考えるのだった。
+++
「稲葉」
「ごめん。ちょっと待って、これ1枚で終わるから」
「ううん、コピーをしにきたわけじゃないから」
稲葉を探していたあたしは、ちょうどコピーをしていた彼を見つけて声を掛けた。
「この前は、コンサート楽しかった。連れて行ってくれてありがとう」
「いや、俺こそ楽しかったよ。そんなことを言いに来たのか?」
「そうじゃなくって、あのね───」
あたしは周りを見回して誰もいないことを確認すると、稲葉にそっと耳打ちする。
「あ?課長を?」
「しっ!稲葉、声大きいって」
慌ててあたしは、稲葉の口を手で塞ぐ。
「悪い。で、何でまた」
「いいから、お願い」
「なんかわからないけど、そう言うなら」
「良かった。さすが、稲葉」
好きな彼女に『お願い』なんて可愛く言われて、稲葉もダメだとは言えなかった。
しかし、小山課長を飲みに誘えなんて…。
何を考えてるんだ?新井は…。
変なことにならなければいいけど。
+++
小山課長と稲葉は、一軒の居酒屋に足を運ぶ。
『相談があるんです』などと嘘をついて誘ったはいいが、早く祐里香が来ないかと何度も時計に目を向けてしまう。
「稲葉君が僕を誘うなんて、珍しいね。相談って、何か悩み事でも?」
「いえ、そんな大したことじゃ」
新井〜早く来いよ。
約束の時間をとうに過ぎているってのに…。
適当にはぐらかしても会話が続かない。
『遅いな、新井のやつ』
「新井さんが、どうしたんだい?」
「えっ、別に。なんでもないんです」
「そう?君達付き合ってるって、聞いたけど。あっ、言っておくけど僕が上司だからこんなことを言ってるんじゃないよ。プライベートまで、口を挟んだりしないから」
課長の耳にまで入っていたとは…。
自分でほのめかしておきながら、噂というのは恐ろしい。
「実は、まだ付き合ってはいないんです」
「まだ?」
祐里香の話をしようとしたところにちょうど飛び込んできたのは、その当人だった。
「稲葉、ごめんね。遅くなって」
「えっ、新井さん?!どうして」
驚き顔の課長を他所にあたしは稲葉の前に前にあったジョッキを奪い取ると、お酒が弱いっていうのにそれを半分くらい一気に飲み干した。
「おい、新井。お前、そんなに飲んで大丈夫なのか?」
「だって、走って来たから喉が渇いちゃって」
それを見ていた小山課長は、すかさずジョッキを2つ追加で注文する。
「どうやら、話があるのは稲葉君じゃなくて、新井さんのようだね?」
「すみません。あたしが、稲葉に頼んだんです」
「それは構わないけど、どうしたんだい?何かあったのかい?」
こんなふうに呼び出したりするのは悪いと思ったが、いきなり祐里香が言うよりも稲葉が誘う方が当たり障りがないような気がしたから。
「あの…出しゃばったまねをしてるのは、わかってるんですけど。真紀ちゃん、えっと山本さんのことで」
「え…」
まさかここで彼女の名前が出てくるとは思わなかった小山課長は、ジョッキを持ったままその場に固まってしまった。
というか、なぜ真紀ちゃんの名前が出てきたのかすらわからない稲葉は、二人の会話が理解できずポカンとしているし。
「課長っ、そんな奥手でどうするんですか?」
ビールを飲んで一気に酔いが回った祐里香の毒舌が始まった。
「いやっ、それはね」
「真紀ちゃん、『私が無理に告白したりしたから、迷惑だったんでしょうか』って」
「山本さん、そんなことを…」
「ちょっと待てっ。何なんだよ、俺には全く話が見えないんだけど。どうして、ここに山本さんの話が出て来るんだ?」
一人取り残されていた稲葉は、とうとう我慢できずに間に割って入る。
「稲葉は、黙ってて。これは、あたしと課長の話なんだから」
「黙っててって、じゃあ俺は何のためにここに連れて来られたんだよ」
「ん?何でだっけ」
オイオイ、新井…。
ガックリと肩を落とす、稲葉。
彼は、課長を呼び出すためだけにここに来たようなもの。
「新井さんにまで…申し訳ないね、僕がこんなだから」
「課長は手を握ったりとか、そういうの苦手なんですよね?」
「どうなのかな、昔からこんなだから女性に愛想をつかされるんだろうな。僕はただでさえ、彼女と10も違うわけだから、余計にね」
「課長っ、真紀ちゃんを逃したら後がないんですよ。ガッツリ捕まえておかないと。稲葉を見てくださいよ。付き合ってるわけじゃないのに、あたしの平気で手を握ったり」
「あ?ちょっと待て、俺がいつ手を握ったんだ」
「握ったでしょ?覚えてないわけ?無意識なんだぁ」
「あのなぁ」
祐里香と稲葉の会話がおもしろくて、思わず吹き出してしまった小山課長。
自分もこんなふうに思ったことを口に出せたら…彼女に心配掛けずに済んだのに…。
『後がないんですよ』と言う言葉は、確かにそうだろう。
あんなに可愛い子なんて…。
「新井さん、僕はどうすればいいのかな?」
「そうですね。まず、稲葉を真紀ちゃんだと思って見つめてみて下さい。カボチャだと思えば大丈夫ですから」
「え…稲葉君を…カボチャって」
「何で、俺がっ」という稲葉の声など無視して、あたしは小山課長に真剣に指導する。
次は、手を握る練習も欠かさずにやって。
「今夜は、即電話を掛けて下さいね。ちゃんと、好きだって言葉も忘れずに」
「できるかな…」
「できるかなじゃないんですっ。やるんです」
「はいっ。わかりました」
どっちが課長だかわからなくなってくる。
ただ、今までの経緯からようやく課長と真紀ちゃんが付き合っているのだとわかった稲葉。
奥手な課長をこんなに一生懸命変えようとしている祐里香が、やっぱり好きだなと思う。
「新井っ、飲み過ぎだっつうの」
「いいの。今夜は、飲みたいんだから。それに稲葉言ってたでしょ?俺が側にいる時はいいって」
「それとこれとはっ」
結局、酔いつぶれてテーブルにうつ伏せて気持ちよさそうに眠ってしまった祐里香。
「稲葉君も大変だね」
「もう、慣れました。それより、課長をこんなふうに呼び出してしまって。俺、何も知らなかったから」
「僕は、新井さんのおかげで助かったよ。正直、彼女とはどうしようって思っていたところなんだ」
「こいつ、お節介ばっかり」
「山本さんがいつも言ってるんだ。祐里香さんと稲葉さんみたいなカップルが、憧れなんだって」
「俺達ですか?」
さっきも言ったようにまだ、カップルにはなっていないのに…。
早くそうなってくれればいいけど。
「うん。君達はお似合いだと、僕も思うよ。負けないように頑張らないとな」
祐里香の寝顔を見つめながら、稲葉はそっとスーツのジャケットを彼女に掛けてやった。
←お話を気に入っていただけましたら、ポちっと押していただけるともしかして…。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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