「稲葉、昨日はごめんね。関係ないのに付き合わせちゃって」
朝一番で稲葉は会議が入っていたらしく、戻って来たのを見計らって彼のところへ行くと昨日のことを謝っておく。
小山課長に女性をリードする方法を伝授しようと稲葉まで巻き込んで、自分はすっかり酔っ払ってしまった祐里香。
挙句の果てに、また彼に家まで送ってもらうはめになって…。
「課長も迷惑だったんじゃ…」
「俺は構わないよ、いつものことだしな。それに課長も新井のお節介には感謝してるって、気にしないように言われたから」
「ならいいんだけど」
───やっぱり、お節介なんじゃないねぇ。
あぁ…あたしって、どうしてこう余計なことばっかりしちゃうのかしら。
「そうそう、また急ぎの仕事が入ってさ、新井にしかできないだろうし頼めないから」
「えぇ、また?」
「頼むよ。プリン買ってやるからさ」
「あのねぇ、子供じゃないんだから物で釣るのはやめてくれる?」
───ったく、子ども扱いなんだからっ。
まぁね、稲葉には迷惑掛けてばっかりだし、手伝うのは構わないんだけど、なんか一言多いのよね。
「あれ?お子様じゃなかったのか?」
「もうっ!」
「嘘だよ、そんなに怒るなって。本気で新井じゃないと無理なんだ、頼むよ」
───何、マジになってんのよ。
あたしだってねぇ、そんなに器が小さい女じゃないんですからね。
「わかったわよ。やればいいんでしょ、やれば」
「さすが、新井。そう言うと思ったんだ」
「調子いいわね」
「じゃあ、俺すぐにまとめるからさ」
初めから断るわけがないって思ってるくせにぃ。
そう思いながらも稲葉の背中を見つめながら、仕事だし嫌って言えないんだから仕方ないなと思う。
「祐里香さん、なんだか楽しそうですね」
そんな稲葉とあたしのやり取りを見ていた真紀ちゃんが、やって来た。
本人達は普通の会話をしているつもりなのに、はたから見ると楽しそうに見えてしまうのだろうか?
「楽しくなんてないわよ。また、稲葉に仕事を頼まれちゃった。あたしにしかできないとかなんとか言って、調子いいんだから」
「急に期限が早まっちゃったやつですね。私ではお役に立てなくて、祐里香さんにお願いするしかないって言ってました」
朝一番の会議でその話が出たらしく、祐里香に頼むしかないだろうということになったらしい。
それだけ、頼りにされているということなのだが…。
「まぁ、いいんだけどね。あいつったら、あたしをプリンで釣るから。ったく、お子様扱いなんだもん」
「それは、祐里香さんが可愛いからですよ」
「なんか、納得できな〜い」
膨れっ面の祐里香だったが、そう言えば、真紀ちゃんは課長はどうなったのかしら?
電話を掛けるようにと、好きだって言葉も忘れずにとは言ったものの、課長がちゃんと実行したのかどうか…。
「そんな膨れないで下さいね。可愛い顔が台無しですよ?実は私、祐里香さんにお礼を言いに来たんです」
「お礼?」
迷惑ばっかり掛けているけど、お礼を言われるようなことはしてないと思うんだけど…。
全く思い当たる節がない様子のあたしに真紀ちゃんが、少しはにかむように話始めた。
「はい。課長から、昨日電話があって」
「あたしも気になってたの。余計なことをしちゃったんじゃないかって」
「いいえ、祐里香さんのおかげです。課長から好きって言ってもらえたの、初めてなんです。すっごく嬉しくて」
「えっ、ほんと?」
───うわぁっ、課長やるじゃない。
ちゃんと言ってくれたんだ。
いやぁ、でも良かったぁ。
「はい。稲葉さんも協力してくれたそうですね。課長も言ってましたよ、早く二人がうまくいけばいいのにって」
「はぁ?何、うまくって。あたしと稲葉は───」
「ほら、稲葉さんが呼んでますよ?」
「えっ、あ…うん」
稲葉とは何でもないのに…どうして、こうくっ付けたがるのかしらねぇ…。
真紀ちゃんに背中を押されて、あたしはもっと言いたいことがあったけど、仕方なく稲葉のところへ行く。
「これなんだけど、今日中にまとめなければならなくて───新井、聞いてるか?」
「え?きっ、聞いてるわよ。それで?」
実際は、あんまり頭に入っていなかった。
っていうか、あんなふうに言われると余計に意識しちゃうじゃない。
今まで全く気にならなかったのに書類を指し示す手がゴツゴツしていてすごく男っぽいとか、微かに香る自分があげたトワレとか…。
そして、時折あたしを見つめる時の優しい目とか…。
気になりだしたら、キリがない。
少しずつ自分の中で大きくなっていく稲葉の存在に戸惑いながらも、どうしていいのかわからなかった。
◇
「ほれ、ごめん。こんなので」
「ん、なぁに?」
結局、残業は確定で現時点では何時に帰れるのかはわからない。
とはいっても、今日中にというか、まぁ明日の朝までにはどうやったって終わらせなければならないのだから、徹夜覚悟で頑張らなければいけないんだけど。
そこへ稲葉が持って来たのは白いビニール袋で、中に入っていたのはサンドイッチとプリンだった。
相変わらず、3個買って来るのはなぜなのかしら?
「ありがと。プリン?それにまた3つも」
もらっておいてなんだが、「はい、1つあげる」とあたしはこの前と同じように稲葉の前に袋から出したプリンを1個差し出す。
彼は「ありがとう」とやっぱり同じように受け取って、それがなんだかおかしかった。
「何か、おかしい?」
稲葉には何であたしがクスクスと笑っているのか、わからないみたい。
「だって、この前も同じことしたなって思って」
「あぁ、そうだったか?」
わざととぼけたような言い方をしている稲葉だったが、これはわざと。
祐里香が1つくれるのを期待してやっている。
自分で買って食べるより、なぜか彼女にもらう方がいいと思ってしまう。
自腹なのに…。
「もうっ、おじいさんみたい。でも、稲葉はあたしより3つも年上なんだもんね」
「なんだよ。オジサンを通り越して、おじいさんかよ」
不服そうに言う稲葉が、やっぱりおかしいかも。
またまた、クスクスと笑い出すあたしに言い返す言葉もなく呆れ顔だ。
「このプリンも美味しいんだけど、この前、稲葉に連れて行ってもらったお店のプリンが最高だったな。今まで食べた中で、一番美味しかったもん」
「そうか?そりゃぁ、良かった。だったら、また一緒に食べに───」
ピロピロピロピロピロ───
ピロピロピロピロピロ───
「一緒に食べに行くか?」と言おうとしたところへ、祐里香のデスクの上にあった携帯が鳴り出した。
───なんだよっ、いいところだったのに!!
稲葉の声にならない声が聞こえてくるようだ。
なんというタイミングなのか、彼にとっては不運というしかないが…。
「もしもし。えっ、中川君?やぁ、珍しいね。どうしたの?」
───ん?中川?誰だ?中川って。
君って呼んでいたところから、男かよっ!!
祐里香の携帯に入った男からの電話に、稲葉は気が気じゃない。
「今?残業なのよ、稲葉に頼まれちゃって。そうなの、もう徹夜かも」
───あ?相手は、俺のことを知ってるやつなのか?
ちょっと待てよ。
中川…中川…中川…。
あっ…中川って、もしかして同期の中川 裕仁のことか?!
名前を知っているということは、社内の人間にほぼ間違いないだろう。
仮に相手が中川だったとして、何で新井の携帯番号を知ってるんだ!!
俺だけじゃなかったのかよっ。
突っ込みどころはそこではなかったかもしれないが、今日中に徹夜覚悟で終わらせなければならないことがあるというのに稲葉にとってはそれどころじゃなくなってきた。
耳がダンボになって、その場から離れることができない。
「えっ、映画?中川君と?」
───何っ、映画だと!!
あいつ、抜け駆けか!!
「やだっ。ちょっと稲葉ったら、何するのよっ」
無意識に稲葉は祐里香から携帯を奪い取ると、勝手に電話を切ってしまった。
切ってしまってから、謝っても遅いけど…。
「ごめん」
「稲葉?」
稲葉はどうして、こんなことをしたのだろう?
「中川なんかと…あいつなんかと、映画なんか行くな」
「え?」
これは…よくわからないけど、恐らく嫉妬とかいうものなのでは…。
稲葉の沈んだお顔を尻目にあたしは、嫌味っぽく言ってみる。
「あ〜ぁ、中川君に誘われたの超話題作のプレミア試写会だったのよねぇ。すっごい、見たかったのにあんなふうに切っちゃって、稲葉どうしてくれるわけ?」
中川に誘われたのは、すごく見たいと思っていた超話題作の映画のプレミア試写会だった。
あんなふうに電話を切ってしまっては、さすがに連れて行ってとは言えない。
というか、見たいけれどあたしは初めから彼と映画に行くつもりなんかなかったし、敢えてそういう言い方をしてみたのだ。
「ごめん」
「ごめんじゃ、済まないわね。責任取ってもらわないと」
「責任?」
「そう。代わりに稲葉が連れて行って」
「でも…プレミア試写会なんて…」
「いいわよ、普通に公開されてからで」
「え?」
「あのプリンのお店にも、連れて行ってくれるんでしょ?」
電話がちょうど掛かってきた時、稲葉が言い掛けた言葉をあたしはちゃんと聞いていた。
コンサートだって相手が稲葉だったから行ったのであって、誰でもいいわけじゃない。
あたしは、そんな軽い女じゃないんですぅ。
「あぁ、わかった。でも、いいのか?」
「いいって?」
「俺と一緒で」
「何を今更言ってるのよ。いいに決まってるでしょ。それより、早く仕事をしないと」
「そうだな」
電話を勝手に切ってしまった時は稲葉もどうしようかと思ったが、彼女の言葉に自分だけが特別な存在のように思えてなんともいえない気持ちになっていた。
───今だけは、自惚れてもいいだろうか?
後で中川には色々言われると思うが、それでも自分のしたことに後悔はなかった。
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※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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