プリンな彼女
story12


「新井さん」
「あっ、中川君」

お昼休みに真紀ちゃんと一緒に食堂に行った帰り、同期の中川に声を掛けられた。
電話で話したのも久し振りだったけれど、こうやって会うのはほんと珍しい。
その前に、映画のプレミア試写会に誘われたのにその電話を稲葉に勝手に切られちゃったのを気にしていたのよね。

「ごめんね。この間は、電話切っちゃって」
「稲葉だろ?ったく、あいつ失礼なやつだよな。俺が話してるってのに勝手に切りやがって」

電話機を稲葉に取り上げられた時に祐里香が言った『やだっ。ちょっと稲葉ったら、何するのよっ』という声が、彼に聞こえていたらしい。

「ほんと、ごめんね」
「新井さんが謝ることじゃないけど、稲葉と付き合ってるって話は…」
「え?」

───どうして、そんなことを中川君が知っているわけ?
っていうか、どこまでこの噂話が広まってるのよ。

「いや、そんな噂を聞いたもんだから」
「違うわよ。付き合ってなんか…」
「だったら、改めて俺と行かないか?映画の試写会」

───それは…。
試写会ではないが、正式に公開されたら稲葉と一緒に見に行く約束をしたのだった。
だから、中川君とは行けないわけで…。

「ダメかな?」
「ダメっていうか、それはね───」

「稲葉と」と言おうとした時、中川が同僚に呼ばれてその声は掻き消されてしまう。

「今度の金曜日、18時に駅で待ってるから」
「そんな…ちょっ、中川君っ」

『あ〜ぁ、行っちゃった』
困ったなぁ、そんな約束されても…。
あの時、稲葉に切られる前にきちんと断っておくんだったわ。

「祐里香さん、あの人と映画を見に行くんですか?」

もしかして、稲葉さんにライバル出現!!
二人の会話を側で聞いていた真紀ちゃんが、心配そうな顔で問い掛ける。

「そういうつもりは、ないんだけど…」
「だったら、きちんと断って下さい」
「え?」

真紀ちゃんの真剣な表情にあたしはなんていうか、圧倒される感じ。
な〜んて、感心している場合じゃなくって…。
自分も彼女みたいにバシっと言えれば、面倒なことにならなくて済んだのにねぇ。

「稲葉さんという人がありながら、そんな」
「いや、稲葉はねっ」
「どうするんですか?もちろん、断りますよね」
「はい…」

───これじゃあ、どっちが年上なのかわからないわね。
はぁ…。
でも何だろう、稲葉にだったら思っていることを口に出して言えるのに他の人だと自分でもわからないけど、はっきり言えないような気がする。

いつも思っていることをはっきり言う祐里香が、なぜか中川の前ではそれが言えない。
このまま、ズルズルと誘いに乗ってしまうのか。

+++

『今度の金曜日、18時に駅で待ってるから』
とは言われたものの、まだ断りの電話を入れていない。
約束は、明日なのに…。

「新井?聞いてるのか?」
「えっ、ごめん。でっ、何だっけ」
「おい、どうしたんだよ。ボーっとして、らしくもない」

『中川なんかと…あいつなんかと、映画なんか行くな』
稲葉の言った言葉が、何度も何度もあたしの頭の中をリフレインする。

「ううん、何でもない」
「なら、いいけど。で、ここなんだけど、こんなふうに直してくれないか?」

仕事の話をされても、ちっとも耳に入らなかった。



「稲葉さん、お忙しいところすみません。ちょっといいですか?」
「山本さん。いいけど、どうかした?」

ミーティングルームを借りて一人調べものをしていた稲葉のところへ、真紀が入って来た。
何か急ぎの用でもあるのだろうか?

「あの、お仕事の話じゃないんですけど…祐里香さんが明日、えっと中川さんという人と映画を見に行くお話は知ってますか?」
「えっ、中川と」

───あいつ、まだ懲りずに新井にちょっかい出してるのか?
だけど、あの話は俺と行くって約束したじゃないか。
なのに、何で中川と一緒に行くことになってるんだ。

せっかくのプレミア試写会の誘いだったのに勝手に電話を切ったのは悪いと思うが、『代わりに稲葉が連れて行って』と言った言葉に嘘はなかったはず。

「知らなかったんですね。祐里香さんは中川さんという人に誘われて、いつもと違って断れなかったみたいなんです」
「そっか」
「いいんですか?稲葉さんは、祐里香さんがあの人と映画を見に行っちゃっても」

それ以上何も言わない稲葉に真紀は、詰め寄るような形で言い返す。
余計なお世話かもしれないが、どうしてもこれだけは言っておかないと気が済まなかったのである。
真剣な眼差しでじっと見つめる彼女に稲葉はふっと微笑むと、力強くはっきりとこう言った。

「いいわけない」

そうこなくっちゃ、稲葉さんっ!!
ここが会社だということをすっかり忘れて思わず真紀はそう叫びそうになったが、なんとか抑える。

「稲葉さんっ」
「ありがとう、山本さん。教えてくれて」
「18時に駅で待ってるって、言ってました」
「わかった」

俺には結構大胆なことを言うくせに、何で中川にはちゃんと言えないかな───。

もう一度、山本さんありがとうと礼を言うと、どうやって阻止するか…。
稲葉は仕事どころではなくなり、調べものをするフリをして明日のことを考えるのだった。

+++

───ちょこっと中川君と映画を見るくらい、いいわよね?
別に稲葉にバレなければいいわけだし…。
それに付き合っているわけじゃないんだから、問題もないはず…。

実際はそうかもしれないが、なんだかすっきりしないのは自分が一番良くわかっていた。
あたしって、こんなに優柔不断だったなんて…。

あ〜ぁ、でもなんか気が乗らないかも…。
中川君のことは嫌いじゃない、彼だってカッコいいから人気もあるし、優しいし…。
だけど、何かが違う。
約束の時が段々迫ってくると、そんな思いが一層強くなってくる。

「新井、悪いけどこれ今日中に仕上げて欲しいんだ」
「えっ、今日中?」

時計を見れば、5時になろうとしているところ。
この時点でこんなものを頼まれたら、絶対約束の時間になんて行けるわけがない。

「何か、あるのか?」
「え…そんなことは…ないけど」
「だったら、頼むな」
「うん…」

───もしかして、稲葉のおかげで助かった?!
これは仕方ないわよね、仕事だもん。
この際、ゲンキンなやつって言われてもいい、中川君には申し訳ないけど行けなくなって良かったぁ。

中川には悪いが、やっぱり行きたくないというのが本音。
みんなでだったら問題ないけど、やはり二人っきりとなると話は違う。
こんどこそ、電話できちんと断ろう。
祐里香は急いでフロアの外に出ると、中川の携帯に電話を掛ける。

お客様のお掛けになった電話番号は電波が届かない場所にあるか、電源が入って───

───え?ちょっと待ってよ。
中川君、携帯の電源入ってないの?

何度か掛けてみたものの、同じアナウンスが返ってくるだけ。
こんな時にどうするのよ…。
仕方なく内線電話で職場に掛けたところ、彼は外に出ていたらしく今日は戻って来ないとのこと。
だから、電話が繋がらなかったのだろう。
こうなったら、駅まで行くしかない?

電話で話をするよりも直接会って話をする方がいい。
連絡が取れない以上、そうするしか方法はないわけで。
約束の時間前になったら少しだけ外に出るからと稲葉に言おうとしたのだが、今度は彼の姿が見当たらない。
───どこ行っちゃったのかしら?稲葉ったら。
まっ、いいっか。

こっそり祐里香が会社を出て駅に向かう途中、なぜか稲葉が向こうから歩いてくるのが見える。

「稲葉?どうしたの?」
「新井こそ仕事を放り出して、まさか帰るつもりじゃないだろうな」
「はぁ?違うわよ。ちょっと用事があって、抜けるからって言おうと思ったのに稲葉こそどこほっつき歩いてるのよ」

───いないと思ったら、稲葉ったらどこに行ってたわけ?
だいたいねぇ、バックも持たずにこの格好で帰るわけないでしょう。

「中川なら、帰ったぞ」
「え…どうして、それを」

───何で、稲葉が知ってるのよ。
まさか…え?!

「俺達も帰るか」
「帰るかって、今日中に終わらせろって言ったの自分じゃない」
「あれ?別に来週でもいいから」
「何よ、それ」

───え?
ってことは、稲葉…わざと今日中になんて言ったの?

「ありがと」
「それは、何に対してのありがとうだ?本当なら、ごめんなさいだろ。俺が行くなって、言ったのに」
「ごめん…」
「悪いと思ってるなら、今夜は俺に付き合え。奢ってやるから」
「いいわよ。あたしが奢る」
「じゃあ、手料理で頼むわ」
「はぁ?何よ、手料理って」

───どこをどう間違ったら、手料理になるわけ!!

「俺は、新井の手料理が食べたいんだよ。お前、作れないとか言うなよ?」
「馬鹿にしないでよ。つっ、作れるに決まってるでしょっ」
「だったら、いいだろ」
「わかったわよ。作ればいいんでしょっ、作れば」

とは言ったものの、作れるメニューは決まってる。
あんなの食べて、稲葉に呆れられたら困るじゃない…。
会社に戻る途中、彼の背中を見ながらそう呟く祐里香だった。


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