稲葉の体調を考えて、料理を習うのは次週に持ち越しとなった。
「稲葉、大丈夫?」
「あぁ、もう平気。迷惑掛けて、ごめんな」
「ううん、元はと言えばあたしが悪いんだもん。稲葉に料理を教えて欲しいなんて、頼んだから。体調悪いのに…」
───休みの日まで料理を習おうとして、稲葉に迷惑を掛けたのはあたしの方。
だから、稲葉が謝ることなんてないのよ。
「そんなことないよ。新井、気にしてたのか?」
「うん…」
「馬鹿だな、別に新井が気にすることなんでないんだからな?俺が無理したから、いけないんだし」
こんなことになってしまい、大げさかもしれないが稲葉にとっては一生の不覚ではあったけれど、祐里香がずっと手を握っていてくれたことはちゃんと覚えてる。
食べさせてはくれなかったが、おじやも作ってくれて、あれはどんな高級料理よりも美味しかったと自信を持って言える。
「じゃあ、稲葉のお願いを一つだけ聞いてあげるから」
「お願い?」
「そう。何でもいいわよ。あっ、でもお金の掛かるものとかはダメだからね」
───そんなことを言われたら、俺が言うことなんて決まってる。
だからって、彼女になってくれ…とは、言えないよなぁ。
また、突き倒されるかもしれないし…。
ありがたい申し出ではあったが、彼女のことを思ったらそんな卑怯なことは言えるはずがない。
「なら、花見に行こう」
「花見?花見って、桜の?」
「あぁ、お弁当持ってさ。もちろん、新井の手作りで」
花見の季節はまだ先のことで、それまでに練習すればきっと上手に作れるようになっているだろうから。
というか、これくらいならきいてくれるだろうし、思い切ってそこで自分の気持ちを言ってしまおう。
さすがにこれ以上は待てないし、限界にきていた稲葉はそう決心する。
「わかったわ。それまでにちゃんと料理を作れるようになるから。稲葉、しっかり教えてね」
「あぁ」
稲葉の決心と同時に、祐里香もその時に自分の想いを告げようと心に決めたのだった。
+++
次の週の土曜日、再び稲葉があたしの家にやって来た。
今度は、きっちり時間通りにね。
「早速、始めるか」
「うん。ねぇ、稲葉。お手本見せて?」
「いいよ。何から見せればいい?」
「えっと、まず包丁裁きから」
「オッケー」
シャツの袖を捲くって包丁を握る姿は、かなりサマになっている。
こんなところを会社の女子社員が見た日には、大変なことになるに違いない。
独り占めしているあたしは、幸せ者だわぁ。
「痛っ、ちょっと。何するのよ」
───痛っ〜い。
ちょっと稲葉、何するのよ。
痛いじゃない。
いきなり稲葉におでこをデコピンされて、あたしは思わず声を上げた。
「こら、ちゃんと見てなきゃだめだろ」
「あっ…ごめん」
つい見惚れてしまったあたしは、彼の包丁裁きなど全く見ていなかった。
今日の目的は料理を習うことなんだから、もっと集中しないとね。
「いいか、こうして」
「すっご〜い稲葉、お母さんみたい」
「それは、褒められてるのか?」
これは喜ぶべきことなのか?微妙なところだったが、まぁこの際ヨシとしておこう。
「褒めてる褒めてる。稲葉って、そんなに上手なの?」
「こんなの練習すれば、新井にもすぐできるさ」
「そうかなぁ」
「ほら、やってみて」
「えっ、うん」
あたしは稲葉と場所を入れ替わるとおぼつかない手で包丁を握り、野菜を切る。
彼が「手はこうして、添えて」と優しく教えてくれるんだけど、すぐそばに顔あって変にドキドキしてしまう。
───これじゃあ、集中できないわね?
そう言えば、稲葉って付き合ってた彼女とこんなふうに料理をしたりしたのかしら?
「ねぇ、稲葉」
「ん?」
「付き合ってた彼女とは、こんなふうに料理をしたりしたわけ?」
「あぁ?何だよ、いきなり」
そんな付き合ってた彼女の話なんか、ここでするなっ!と思う稲葉だったが、もしかして気になるのか?
「なんとなく、そう思っただけ」
「ふううん」
「何、その言い方は」
「気になる?」
「はぁ?何で、稲葉の付き合ってた彼女のことなんか気になるのよ」
本当は気になったから聞いたんだけど、それを誤魔化すようにあたしは無心に包丁を動かす。
「したことないよ」
「え?」
───そうなの?てっきり、同じことをしてたんだとばかり思ってたけど、違うの?
「今まで付き合った子はさ、みんな料理上手だったからな。俺が出る幕はなかったわけ」
「げっ、悪かったわねぇ。どうせ、あたしは料理音痴ですよぉ」
───何だ、そういうこと。
やっぱりねぇ、世の女の子はあたしと違ってみんな料理上手なのね。
はぁ…。
こんな自分が、益々嫌になるわね。
「料理があんまり得意じゃない彼女ってのも、悪くないけどな」
「え、それ…」
───もしかして、こんなあたしでもいいって言ってる?
自惚れてるって…思っちゃうわよ?
あたし、単純なんだから。
「こうやって、一緒に作れるじゃん。普通はさ、彼女が上手ならその彼氏ってのは何も手伝うことなんてないんだけど、それもつまらないだろ」
「俺って、何でもデキル男だから」とやっぱり最後は俺様発言の稲葉だったが、きっとそれは彼の優しさ。
「稲葉って、優しいのね」
「あれ?知らなかったのか」
わざととぼけたように言って笑う稲葉、そんな彼が本当はとっても優しい人だということをあたしは知ってる。
知ってるけど…。
「そうなの?知らなかった」
でも、まだ言わない。
桜の花が満開に咲くまでに腕を上げて、稲葉に美味しいって言ってもらえるお弁当を作るまでは。
「何だよ。そこんとこ大事なんだから、きちんと認識しておいてくれないと」
「わかったわよ。それより、こんな感じでいいの?」
「あっあぁ、その調子で。っつうか、本当にわかってるのか?」
「なんか、いい加減な返事なんだよな」とブツブツ言いながらも、あたしの包丁裁きを褒めてくれた稲葉だった。
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