『新井さんをしっかり捕まえるんだよ』と小山課長に言われたものの…。
───さて、どうしたものか…。
稲葉は仕事中だというのに祐里香のことばかり考えてしまう。
それとなくメールを送ってみようかなとか、思いつつも、なかなか実行に移せない。
───あぁ…。
「稲葉、おめでとう」
「・・・・・」
「稲葉ったら、聞いてるの?」
「あ?ごめん、ボーっとしてた」
「もうっ、人がおめでとうって言ってるのにぃ」
頭をすっきりさせるためにコーヒーを買いに来たはいいが、自販機の前でボーっと突っ立ていたらしい。
───でも、おめでとうって何だ?
自分の誕生日はとうに過ぎていたし、あの時もおめでとうってプレゼントももらったはず。
「えっと…おめでとうって、何だ?」
「やだっ。稲葉、課長補佐になったんでしょ?だから、おめでとうって言ったのに」
「あっ、それか」
何がおめでとうなのかと思ったが、言われてみれば今度、稲葉は課長補佐になったのだ。
もちろん、同期でただ一人である。
昇進したことは非常に嬉しいことではあったけれど、祐里香のことがあったから、すっかり頭の中からどこかに行ってしまっていたのだった。
「稲葉、嬉しくないの?同期で一番出世なのに」
「いや、嬉しくないの?と言われれば、そりゃあ嬉しいけど…」
「どうしたの?何かあった?」
心配そうに覗き込んでくる彼女。
───何かあった?と言われれば、それはあなたのことでしょう…。
とは思っても、これは口には出さなかった。
稲葉がこんなに悩んでいるというのに彼女はあまりに普通で、考え過ぎなのかそれとも…。
「何もないけど」
「ならいいんだけど…。それでね、みんなで稲葉の昇進祝いをしようって話になったの。来週の金曜日、大丈夫?」
「昇進祝い?いいよ、そんなの」
「そう言うと思ったんだけど、これは口実で久し振りに同期で集まろうって」
───なるほど。
それなら、いいか。
祐里香の言うように5年も経ってしまうとなかなか同期で集まることもなくなっていたから、久し振りにみんなで飲むのは楽しいに違いない。
「そういうことなら」
「それと、稲葉課長補佐の会費は、みんなの5割増しだから」
「はぁ?何で、俺だけ5割増しなんだよ」
───そこ、違うだろう。
何で、俺だけ5割増しなんだ。
昇進祝いなんだろう?
だったら、みんなが出してくれてもいいくらいなのに…。
どうにも納得できない、稲葉。
「当たり前でしょ?稲葉は、出世したんだから」
「これからたくさん、お金をもらうんだもの」と言われてしまうと、返す言葉がない。
部内で飲み会をする時も、部長、課長、課長補佐…と細かく会費に差が付けられる。
とはいっても、課長補佐など名ばかりで、仕事の責任は重いが給料となると5割増しにはならないと思うのだが…。
「なんか、うまく嵌められてないか?」
「そんなことないわよ。主役がいないと話にならないから、絶対出席してね」
そう言うと祐里香は、「じゃあね」とその場を去って行った。
その後ろ姿を見つめながら、稲葉は『絶対、嵌められてる』と思ったが、それでも祐里香と一緒に飲むことができるなら、それはそれでもいいかなと。
───でも、5割増しは痛いだろ。
+++
金曜日、時刻は18時少し前。
会社近くの欧風居酒屋の個室に若い男女が十数人、既に集まってワイワイ、ガヤガヤ、話に花が咲いているが、まだ本日の主役は到着していない。
「稲葉、行こう?始まっちゃうわよ」
「あぁ。新井、先に行ってていいぞ?俺さ、お客さんからの回答待ちなんだ。連絡が来たら、すぐに行くからさ」
「えっ、大丈夫なの?」
「すぐに連絡するって言ってたから。ほら、新井も早く行かないと始まっちゃうぞ?」
そうは言われても、稲葉を一人置いて行くのはどうなのか…。
昇進は口実でとは言ったけれど、あたしとしてはやっぱり稲葉の昇進をお祝いしたいわけよ。
なのに、彼が仕事で行けないとなるとねぇ。
「じゃあ、もうちょっとだけ待ってる」
「俺のことなんかいいのに。食べ物、なくなっちゃうぞ?」
口ではこんなふうに言っても、待っていてくれるという祐里香の気持ちが嬉しくないわけがない。
いっそこのまま仕事で行けなくなって、二人っきりになれた方がいいとさえ思ってしまう。
───あっ、でも会費は取られるんだろうなぁ…。
あいつら、ちゃかりしてるし。
「ちょっとだけだから」
「わかったよ。あんまり遅くなるようだったら、先に行っていいからな」
「うん」
取り敢えず稲葉は、回答を早くもらえるようにもう一度顧客先に電話を掛けてみることにした。
◇
「よっ、ご両人」「遅いぞ、稲葉。新井さんも」
なんとか30分ほどの遅れで会に参加することができた二人だったが、一緒に店に入って来たことでみんなに散々冷やかされた。
「何やってたんだよー、待ちくたびれたぞ」と、あちこちからそんな声も聞こえてくる。
「ごめん」「ごめんね」
「まっ、とにかく乾杯しよう。みんな二人が来るのを待ってたんだ」
「すみませ〜ん、ビールお願いします」とすぐに店員さんにビールを頼んだのは、中川。
今回の幹事は中川だったのだが、彼の言うようにみんな食べ物にも手を付けずに祐里香と稲葉が来るのを待っていてくれた。
「みんな、ごめんね。今夜は稲葉課長補佐がスポンサーになってくれるから、ガンガン飲んでね」
「はぁ?新井。何、勝手なこと言ってんだよ。5割増しの話しか、聞いてないぞ?」
───オイオイ、勝手なこと言わないでくれよぉ。
ただでさえ、給料日前なのにぃ…。
「はい、みなさん。お聞きの通り、今夜は稲葉課長補佐がスポンサーになって下さるそうなので、思いっきり羽目を外して飲みましょう」
心底困り果てている稲葉を他所に司会進行役の中川も祐里香に合わせてこんなことを言うものだから、周りからは「わ〜い」とか「ヤッタ!」という、歓声が上がる。
「では、みなさん準備はいいでしょうか?え〜それでは、稲葉君の課長補佐昇進を祝して、また、これからも同期仲良くやっていけますよう願って、カンパ〜イ」
思い思いにグラスを合わせ、ビールを一気に飲み干す。
仕事の後の一杯は格別…約1名、稲葉を除いては…。
「ほら、稲葉。飲んで、飲んで」
スポンサーにさせられて、ビールなどゆっくり飲んでもいられないのだろう、稲葉は半分くらいしかグラスが空いていない。
「あっ、あぁ…」
「あんなの冗談に決まってるでしょ?もし、そんなことになってもあたしが半分もってあげるから」
スポンサーっていうのは、あの場を盛り上げるために言っただけ。
みんなもそれくらいわかってる。
もしも、本気にする人がいるなら、あたしが半分もってあげるわよ。
「だから、ほら飲んでよ。グィッと」
「あぁ」
その言葉を信じていいのかわからなかったが、稲葉はグラスを一気に空けた。
───でも、彼女のグラスは…あれ?ウーロン茶。
「新井こそ、どうしたんだ。体調でも悪いのか?ウーロン茶なんて」
「これ?あたしは、今夜は飲まないの。稲葉に迷惑掛けるといけないから」
「心配しなくても、ちゃんと家まで送ってやるよ」
「ううん、今夜はあたしが稲葉を連れて帰るの。だから、いっぱい飲んでも平気よ?」
「えっ」
祐里香がウーロン茶なのは、稲葉に迷惑を掛けるということよりも、今夜は彼に思いっきり飲んでもらうためだった。
お酒が強いということもあったけど、多分あたしのせいでセーブしていたんだと思うから。
「だから、飲んで」
「あぁ、ありがとう」
───彼女が連れて帰ってくれるなら、そんなラッキーなことはないけど…。
祐里香はニッコリと微笑むと、ピッチャーから稲葉のグラスにビールを注ぐ。
そんな祐里香と稲葉をみんなが微笑ましく見ていたことを…二人は知らない。
←お話を気に入っていただけましたら、ポちっと押していただけるともしかして…。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
誤字が多く、お見苦しい点お詫び申し上げます。お気付きの際はお手数ですが、下記ボタンよりご報告いただければ幸いです。
NEXT
BACK
INDEX
PERANENT ROOM
TOP
Copyright(c)2006-2013 Jun Asahina,All rights reserved.