周りがざわざわする音が耳に入ってきて、あたしは意識を戻した。
───ここは?
あれ?そう言えば、昨日は残業して徹夜になったんだわよね。
でも、あたしはなんでこんなところで寝てるのかしら?
起き上がると肩から誰かのスーツのジャケットが摺り落ちる。
これは、稲葉の?
あたし、知らないうちに寝ちゃったんだ。
時計を見ると始業10分前。
すると、真紀ちゃんがあたしの姿をを見つけてすぐに駆け寄って来た。
「祐里香さん。おはようございます」
「真紀ちゃん、おはよう」
「あの…」
「うん、さっき終わったところだから」
あたしの言葉に張り詰めていた糸が切れたように彼女の顔がほころんだ。
真紀ちゃん目が真っ赤だけど、もしかして寝てないの?
「よかったです。ありがとうございます」
あたしの手を握って、何度も何度もお礼を言う真紀ちゃんがすごく愛しかった。
それより、さっきから稲葉の姿が見えないようだけど。
「そうそう、真紀ちゃん。稲葉は?」
「はい。会議の準備で、もう会議室の方へ行きましたけど」
「会議って、偉い人とか来るわよね?」
「はい。多分、来られると思いますけど」
じゃあ、ジャケット必要よね。
「どこの会議室?」
「えっと、ちょっと待ってください。第三会議室です」
「ありがとう」
あたしは、稲葉のジャケットを持って第三会議室へ急いで向かった。
会議室のドアは開いていて、中を覗くと稲葉が1人でパソコンの準備をしていた。
ドアを数回ノックする。
「稲葉。今いい?」
「あぁ、どうした?」
「これ、ありがとう。必要でしょ?」
手に持っていたジャケットを高く掲げる。
「あっ、忘れてた」
あたしは、中に入って稲葉の傍まで行くと…。
「何?」
「着せてあげる」
「いいよ」
「人の行為は、親切に受けなさいよ」
「はいはい」
稲葉は背が高いので、少し屈む形でジャケットを着せてあげた。
そして、あたしはポンっと彼の背中を叩く。
「頑張ってね」
「なんだよ。今日は妙に優しいんだな。雨でも降らなきゃいいけど」
「何、言ってるのよ。いつも優しいでしょ」
そう言いながら、あたしは会議室を後にした。
+++
それから暫くして、無事に会議もうまくいったと聞いてほっと胸を撫で下ろす。
あれから真紀ちゃんともすごく仲良くなって、会社帰りによく出かけたりもするようになっていた。
そんなある日、あたしが真紀ちゃんと話をしていると稲葉がやって来た。
「お前、今日すぐ帰れるか?」
「帰れるけど、なんで?」
「焼肉行くぞ?」
「え?あれ本気だったの?」
ちょうど一週間前の話になるが、次の日の会議で使う資料データが壊れてしまい手伝った際、『まぁ、焼肉食べ放題で手を打つわよ』とあたしが言った言葉を稲葉はちゃんと覚えていたようだった。
「お前は、冗談だったのか?」
「そうじゃないけど、まさか本当に奢ってもらえるとは思わなかったから」
「じゃあ、そういうことだから。17:30に下な」
「もちろん、真紀ちゃんもよね」
あたしは、側にいた真紀ちゃんの方を見ながら言う。
「あぁ」
「真紀ちゃん、良かったね。稲葉に奢ってもらえるなんて、奇跡なんだから」
「でも…。私のせいで」
「真紀ちゃん、そういうことはもう言わないの。大体ね、こんなのと二人で行ったりしたら、あたしファンに殺されちゃうもの」
「おいおい、こんなのはないだろう?」
そんなあたし達のやり取りを見ていた真紀ちゃんが、笑い出した。
二人して、真紀ちゃんの方に振り向く。
「噂通り、稲葉さんと祐里香さんはとても仲がいいんですね」
「こんなヤツ、全然仲良しなんかじゃないわよ」
「お前なあ、さっきから“こんなのとか”、“こんなヤツとか”仮にも同期に向かって酷くないか?」
「あたしは、お前じゃない」
初めから、あたしは稲葉の話なんて聞いちゃいない。
呆れて声も出ない真紀ちゃんを尻目に言いたい放題。
苦笑しかできない稲葉だったが、やっぱりあたしには敵わないなと思ったのか妙に納得していた。
◇
あたしは定時間際に危うく課長に余計な仕事を頼まれそうになったが、せっかく稲葉が奢ってくれるという焼肉食べ放題を逃す手はない。
なんとか振り切って、約束の17:30に真紀ちゃんと2人で下に行く。
そして、すぐにやってきた稲葉と3人で焼肉店に向かったが、そこは普段はなかなか足を運ぶことができないような高級店。
「ちょっと、稲葉。もしかして、ここに入るの?」
「焼肉食べたいって言ったの、新井だろう?」
───いや、そうだけど…。
でも、ここってすごく高いのよ?
いくらなんでもこんなお店で食べたら、3人でいくらすると思ってるのよ。
「そうだけど、いいわよこんな高いお店でなくって。それにここ、食べ放題なんてないでしょう?」
「そんなこと気にしなくていいから、新井が食べたいだけ食べればいいよ」
───気にしなくてもって、気にするわよ。
それに食べたいだけってねぇ、そんなことしたら諭吉さんが何人いても足りないじゃない。
そんなあたしの心配なんて気にすることもなく、1人稲葉はお店の中に入って行く。
真紀ちゃんも小さな声で「いいんですか?」と聞いてきたけど、ここまで来てしまったのだから入るより仕方ないだろう。
あたしは今、財布に今いくら入っているかを思い返しながら、稲葉の後について中に入った。
「2人とも、どうした?」
押し黙ったまま、無言のあたしと真紀ちゃんを不審に思った稲葉が声を掛けた。
「だって…」
「いつもの新井らしくないな、俺を誰だと思ってるんだよ」
稲葉はお茶らけるように言うと、注文を取りに来た店員に生中3つと特上カルビだのロースだの勝手にどんどん頼んでしまった。
目の前に美味しそうな肉が並べられても手を出さないあたしに、さすがの稲葉も痺れをきらしたのか、1人で焼き始めた。
真紀ちゃんは、あたし以上に恐縮しちゃってるし。
「ほら、どうした。食べないのか?」
───そりゃあ、食べたいわよ。
食べたいけど、ここでホイホイ食べちゃうのってどうなの?!
「新井?」
「あ〜わかった、食べればいいんでしょ、食べれば。言っとくけどあたし、ものすごく大食いなんだからね。後悔しても、知らないわよ」
自分でもこんな憎まれ口しか叩けないのかと呆れるけれど、素直じゃないんだからしょうがない。
「新井の大食いは、有名だからな」
やっと、いつものあたしに戻ったのを嬉しそうに見つめる稲葉。
「お前なぁ、それは今俺が食べようとしてたんだぞ」
「稲葉が、モタモタしてるからでしょ」
相変わらずの2人であるが、そんな2人のやり取りを微笑ましく思いながら真紀ちゃんがポロっととんでもないことを口にした。
「稲葉さんと祐里香さんは、もう付き合ってるんですか?」
真紀ちゃんの爆弾発言に、あたしは飲んでいたビールを思わず噴出しそうになった。
天然な真紀ちゃんは、時々とんでもないことを言うからびっくりするのよ。
「真紀ちゃんったら、なっ何言ってるの。そんなわけないでしょ」
「え?でもみんな言ってますよ」
───みんなって何よ、みんなって。
あたし達、そんなこと言われてるわけ?
「はぁ?何それ、あたしと稲葉が付き合うなんて絶対ない!例え、地球上に2人しかいなくってもあり得ないもん。ねぇ、稲葉?」
稲葉を見ると、なんだか随分と落胆しているように見える。
「ちょっと、稲葉も何とか言いなさいよ」
「新井、何もそこまで言い切らなくても…」
「そうですよ、祐里香さん。稲葉さん、落ち込んじゃったじゃないですか」
真紀ちゃんが、稲葉を慰めるように言った。
───だから、どうして落ち込むのよ。
大体、稲葉だってあたしなんかとそんな噂立てられて嫌なんじゃないの?
「だって、あたしなんかが彼女なんて稲葉だって言われたくないでしょ」
「そんなことないですよ。ねっ?稲葉さん」
「あぁ」
───はぁ?
稲葉、そこは普通否定するでしょ?なんで、「あぁ」なのよ。
何を考えているのか、さっぱりわからない。
「どうですか?これを機に付き合っちゃうって言うのは」
「ちょっと真紀ちゃん、もしかして酔ってる?」
───そうよ、酔ってるのよね。
真紀ちゃんったら、ほんと冗談きついって。
「酔ってませんよ。私、こう見えてもお酒は強いんです。でも、祐里香さんも素直になった方がいいです。でないと稲葉さん、誰かに持っていかれちゃいますからね」
「素直も何もねぇ、別に稲葉が誰に持っていかれても関係ないし」
「そういうところ、祐里香さんらしいですけど、稲葉さんの身にもなってください」
真紀ちゃんの毒舌は、尚も続く。
確かに今まで何回か飲み会で真紀ちゃんとは一緒になったけど、お酒は結構飲める方だと言っていたのを思い出した。
それにしたって、どうしてこんな話になっちゃったかな…。
大体、何で稲葉は何も言わないのよ。
ちらっと稲葉を見たが言い返すわけでもなく、ただ神妙な面持ちで遠くを見つめているだけ。
「もう、こんな話よそう。せっかく、美味しいもの食べてるんだし」
あたしがそこで話を打ち切ると、真紀ちゃんもそれ以上は言わなかった。
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