思ったより、麻衣の一人暮らしは寂しくなかった。
というか、ほとんど文章が心配だからと見に来ていてくれていたからで…。
彼は一社員として働いているから仕事も忙しいはず、なのにほんの少しでも麻衣の顔が見たいからと顔を出してはすぐに帰って行くのだ。
「麻衣、一人暮らしはどう?文章さんは、もう泊まったの?」
あえかの聞きたいのは前者ではなく、恐らく後者の方だろう。
麻衣はわざと「快適よ」と答えたが、やはり彼女は納得がいかないらしい。
「もうっ、文章さんとは―――」
「残念でした。まだ、泊まって・ま・せ・ん」
「え、まだ?うそ〜文章さんって、案外奥手?それとも、我慢強いのかしら」
腕を組んで、真剣に考え込んでいるあえか。
―――知らないわよ、そんなこと。
別に麻衣から泊まってって言うわけじゃないし(それも誘ってるみたいで、変でしょ?)、彼も冗談では言うものの本当に泊めてくれとは言わない。
それは、彼の両親に承諾を得るために行った時にその話が出たからかもしれないけど…。
「いいでしょ?彼が、泊まろうと泊まらないと」
「でもさぁ。麻衣ってまだ、ヴァージンなんでしょ?」
小声で言ったものの、麻衣は思わずあえかの口を塞ぐも頬はみるみる赤く染まっていく。
男性と付き合うこと自体、初めてなのに…。
―――そんなこと、当たり前じゃない。
だからって、どうしろっていうのよ。
心の中で、半ば開き直る麻衣。
「そんなこと、声に出して言わないで」
「彼、抑えてるんじゃないの?将来結婚する相手なんだしさ。今の時代、そこまでヴァージン守るってこともないんじゃない?」
「私は別に…守ってるわけじゃ」
―――そんなつもりは、ないけど…。
お見合いして付き合うことすら考えていなかったのだから、その先のことまでなんて考えられるはずもない。
一人暮らしだって、キッカケがなければしなかったかもしれないのだから。
「お互い愛し合ってるんだから、頑なに拒んだりしたらダメよ?相性って、すっごく大事なんだから」
そんな、鼻息荒く語られても…。
だけど、大人の恋には必ず付いてくるのは事実。
ましてや、結婚を前提の付き合いで、それはもう決まったこと。
もしも…彼が抑えているのだとしたら…。
好きという言葉では伝わらない、キスを何度交わしても感じない、もっと奥深い何かがあるのだと…。
+++
「文章さん。こんなにいつもいつも来ていたら、自分の時間がないんじゃないですか?」
こうやって家に来てくれる彼のために、ようやっと夕食を共にできるまでに麻衣の腕は上達していた。
初めは包丁も握ったことがなかったから、一から覚えるのは大変だったが、どうやらセンスは持ち合わせていたらしい。
お昼はお肉や油ものを取っているだろうからと、体のことも考えて夕食は油控えめの野菜と魚中心のヘルシーメニューに。
「そうでもないよ。土日は麻衣が実家に帰っているから、どっちか一方は休んでるし」
休みの日は実家に帰るというのが麻衣の一人暮らしの条件だったし、そのどちらかはデートに使ってもまだ1日休みがある。
たまに休日出勤もあるけど、ほとんど文章は家でのんびりDVDを見たり本を読んで過ごしていた。
「ならいいんですけど」
「この魚の煮物、美味しいね。どんどん腕が上がっていくようだけど、どこで練習しているんだい?」
「お口に合って良かったです。家に帰ったときに母や真佐江さんに教えてもらったり、実は最近、学校帰りに料理教室にも通ってるんですよ?」
「そうなんだ、知らなかった」
茶道、華道などの習い事は一通り小さな時からやっていたが、料理だけは包丁が危ないからと今まで握らせてはもらえなかった。
両親も決して甘やかしたわけではないと思うけど、麻衣自身も人任せであったことを深く反省しなければならないなと思ってる。
「お見合いをした時、『私は、まだ学生でこれからやりたいこともたくさんあります』って言ったの覚えてますか?」
「あぁ、覚えているよ。それが?」
あの時の麻衣は今とはだいぶ違って、文章を受け入れない拒否反応みたいなものが強かった。
それをなんとか、押し捲ってここまできたのだから。
「やりたいことって何だったんだろうって、今になって思うんです。一人で暮らしたこともない、料理もできない、全部人を頼ってたのに」
今もほとんどを親に頼っている自分が、偉そうに言えたことではないとわかってる。
そして、恋愛についても、どこか間違った解釈をしていた自分が今は恥ずかしい。
恋することはこんなにも自分を変える、素晴らしいことなのに…。
「麻衣が、そんなに気にすることじゃないと僕は思う。感じ方は、人それぞれだよ」
「・・・・・」
ふと、学校であえかに言われた言葉を思い出す。
『麻衣ってまだ、ヴァージンなんでしょ?』
―――ここで、思い出すことじゃないんだけど…。
「どうしたんだい?」
急に箸を止めた麻衣に文章が問い掛けるが、彼女の頬がなんだかほんのり染まっているように見えるのは気のせいだろうか?
「えっ、なっ何でもないんです。おっ、お茶入れますね」
文章に悟られないように麻衣は慌てて席を立つと、キッチンにお茶を入れに行く。
その姿を見て、「変な麻衣だな」と首を傾げながらも、文章は食事を続ける。
―――文章さんに今夜、泊まって行ってと言ったら、どういう反応をするかしら?
お気に入りのル・クルーゼの赤いケトルにペットボトルのミネラルウォーターを入れながら、そんなふうに思う麻衣。
あえかに言われたからって、無理にそうすることはないとわかってる。
わかってるけど…。
「麻衣」
「えっ」
不意に目の前にいた文章に、驚いきのあまり目を見開いたままの麻衣。
「そんなに入れたら。ほら、水が溢れてるよ」
「あっ」
気が付けばミネラルウォーターを一体何本開けたのか、ケトルから水が溢れていたが、向かいから麻衣の手に文章の手が触れて、思わずそれを足元に落としてしまう。
ペットボトルが床に転がり、残っていた水がみるみる床に広がっていく。
「ごっ、ごめんなさい」
近くにあったタオルで床を拭いている麻衣の手を回り込んで来た文章が止めた。
「麻衣?」
「文章さん、私…」
「今日の麻衣は、どうかしてるね。大丈夫?」
彼の優しい瞳に吸い込まれるように…。
「あの…泊まって行って、くれませんか?」
麻衣は無意識にそう、言葉を口にしていた。
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