携帯に入ったメールを確認すると、文章は短い返事を返してパタンっと閉じる。
それは、愛しい相手からのはずなのに随分と呆気ないように見えるのは気のせいか…。
「いいのか?帰らなくて。彼女、待ってるんじゃ」
残業時間もだいぶ過ぎた頃だったが、平田がずっと携帯を覗き見ていたことに全く気付かなかった文章は「勝手に人の携帯を覗くな!」と抗議するも、彼の言う通りなんだと妙に納得したりして。
あの日から、文章は彼女の部屋には行っていない。
仕事が忙しいということもあったが、そんなことは理由にならないことを本人が一番良くわかっていたし、敢えてそれを口実に足を向けないようにしていたのだから。
「どうしたんだよ」
「喧嘩でもしたのか?」と心配そうな平田に無言で首を左右に振る文章。
やっと結ばれた二人が喧嘩なんかするはずないし、日に日に募っていく想いを抑えることができないでいるというのに…。
「彼女が一人暮らしをしたいと言った時、僕は真っ先に反対したんだ。でも、『結婚したら、そういう経験もできないし』という彼女の気持ちを最終的には受け入れた。もちろん、行きたいのは山山だけど、彼女が一人暮らしをしたことをいいことに入り浸るのは…」
その後、『うちの親、いちいちうるさいんです。文章さんとデートなのか?どこへ行くのかって。これじゃあ、自由に逢えないから』と続けたのは麻衣だったが、文章の本音でもあったし、このことは敢えて平田には言わないことにする。
確かに彼女が一人暮らしをすれば、誰に気兼ねなく二人だけの時間を過ごすことができる。
だからこそ、結ばれたわけだし…。
「二人は将来結婚することが決まっているんだから、別にいいだろ入り浸ったって。今時、そんなことを気にするヤツなんて、お前くらいじゃないのか?」
自由になるということは、責任を持つということ―――。
そう、心に誓ったのは文章だった。
このまま、彼女の部屋に行ってしまえば、きっと手歯止めが利かなくなる。
自制することはある意味、文章自身のためでもあるのだ。
「結婚が決まっているからこそ、簡単に行かない方がいいんだ」
「そういうとこ、お前らしいっていうか。でも、あんまり無理しない方がいいぞ。体に良くないから」
「最後は、余計なんだよ」
文章は笑って返したものの、さっきから平田は痛いところをついてくる。
無理していないと言ったら嘘になるが、彼女をを支え、守ってあげなければいけない立場の文章が欲望を満たすためだけに彼女の部屋に行くことは…。
+++
―――あの夜から、文章さんが部屋に来なくなった。
私があんなふうに…思い出しただけでカーっとわけもなく体が熱くなって、麻衣は慌てて周りを見回した。
―――誰もいなくて、良かった。
友達のあえかも今は教務課に行っているからカフェテリアで一人待っていたが、この時間にしては珍しく人がいない。
昨晩、父からの電話で、本当なら一人暮らしをする条件として挙げられていたのに後回しになっていた婚約パーティーの詳細を決めたいからと週末、彼を連れて家に来るように言われたけれど、果たして来てくれるのだろうか…。
忙しいというのは口実で、もしかしたら麻衣に愛想を尽かしたのかもしれない。
考えれば考えるほど、溜息しか出てこなかった。
一日重い気持ちを引きずりながら大学を終えて、麻衣は週一回の料理教室へと向かう。
習ったものは必ず彼に試食してもらっていたが、今日の料理はいつ食べてもらえるのだろう。
もしかしたら…。
それでも、この料理教室に来ると大学のお友達とは違う様々な職業、年代の人達と知り合いになれるのが楽しみだった。
中には年齢を問わず男性が混じっていたのを最初は不思議に思ったりもしたが、奥様や彼女に腕を振るうのだと聞いて逆に羨ましかったりもして。
「あっ」
そんな時に思わず声を上げてしまったのは、麻衣の見知った顔があったから。
先生が適当にその日の参加者でグループを作るのだが、その中に文章の従妹であるマリの姿が…。
「えっと、失礼ですけど、もしかしてどこかで会ったのかしら?ごめんなさいね、覚えてなくて」
と話すマリは、よく見れば文章に似ていなくもない。
勘違いして文章さんには迷惑を掛けてしまったが、教えてくれた石田さんも『俺は彼女の彼氏に二股かけてたのかって、家に怒鳴り込まれたことがあるんだ。まぁ、君はそこまではしなかったようだけどね』と顔を強張らせていたのを思い出す。
「いえ、あの…」
「今日から、この教室に通い始めたの。料理なんてやったことなくって、だけど今のままだと私の作った食事で彼が病気にでもなったら困るから。それにイケメン先生だし」
「色々ご迷惑を掛けると思いますが、よろしくお願いしますね」と握手を求めたマリは、彼と腕を組んで歩いていた姿からはもう少し軽い女性(失礼な話だけど)かと思ったが、とても礼儀正しくてそれにチャーミングな人。
麻衣も「こちらこそ、よろしくお願いします」と手を重ねた。
「あの、文章さんの従妹さんですよね」
「あなた、文章のこと…ってことは、もしかして麻衣ちゃん?」
「えっ…あっ、はい」
「わぁっ、あなたが麻衣ちゃんなの?会わせてって何度言っても文(ぶん)ちゃんったら、言葉を濁すから」
「ぶんちゃん?」
「あぁ。私だけ、小さい時から彼のことを呼ぶ時は文ちゃんなのよ」
「長くて呼びにくいから」と話すマリは麻衣に会いたかったと言っていたが、それは…。
いくら親の決めた結婚とはいえ、彼女は自分のことをどう思ったんだろう。
それより、どこまで麻衣のことを知っているのか。
「思った通りっていうか、それ以上に可愛らしいわね。文ちゃんが惚れるのもわかるわ」
「そうでしょうか」
「ん?どうかした?」
「いいえ、何でも」
つい、彼とのことを思い出してしまい一瞬、顔色が曇ったのをマリは見逃さなかった。
しかし、同時にマリが言っていたイケメン先生が入って来たことで話は中断させられてしまう。
「ねぇ、せっかくだから、今夜食事でもどう?美味しいお店を知ってるから」
「でも」
「いいから、いいから」と既にきらきらと輝くマリの瞳の中には、イケメン先生しか映っていないようだ。
これを見たら、彼はなんと思うだろう。
その前に麻衣も、実は文章にイケメン先生に料理を習っていることを言っていない。
言えば、彼のことだから…。
◇
「疲れたぁ…」
はぁ…とグったりしているマリに「大丈夫ですか?」と声を掛ける麻衣だったが、どうやら初めての本格的な料理作りに付いていけなかったらしい。
麻衣も人のことは言えず、彼女と同じだったけれど、これもすぐに慣れるだろう。
「麻衣ちゃん、よくこんなの続けられるわね」
「何回かこなせば、慣れますよ」
「そう?今まで何もやらなかった報いだとは思うけど、大変だわ」
マリが連れて行ってくれたのは、最近有名なレストランから独立したばかりの若きシェフが開店したというおしゃれなイタリアンのお店。
彼女は車で来ていたので麻衣は乗せてもらったが、颯爽と真っ赤なスポーツカーを運転する彼女を見て、自分も乗せてもらうばかりではなく教習所に通いたくなった。
そして、免許が取れたら一番最初に隣に乗るのは…。
またまた文章のことを思いつつ、麻衣もまだ未成年だということで今回アルコールはなし。
「麻衣ちゃんが二十歳になったら、飲み明かしたいわ。その日まで楽しみに待ってる」
「はい」
ジュースで乾杯したが、麻衣もその時が来るのが楽しみだった。
「やっぱり、料理は人に作ってもらうのが一番だわ」と冗談混じりに話すマリだったけれど、そこは料理教室に通い始めたからなのか、シェフにちょこっとレシピを聞いたりとすっかりハマっているようだ。
大学で経営学を学ぶマリは将来企業家になりたいらしいが、歳の離れた弁護士の彼のために料理を習いに来るあたりは健気だなと思う。
「麻衣ちゃんは一人暮らししてるなんて、すご〜い。私ったら見ての通りだし、文ちゃん心配でしょ。よく許してくれたわね」
「初めは反対されましたけど、何とか」
「やっぱり」と文章のことをよく知っているだけに、その時の様子が目に浮かぶ。
マリの場合は彼氏の方が一人暮らしをしているから、しょっちゅう家に行ったりしているが、文章はどうなんだろう?
心配症の彼のこと、毎日チェックに行っていそう。
「今夜も文ちゃん、麻衣ちゃんの家に行くんじゃないの?ごめんね、無理に誘っちゃって」
「えっ、いえ、そんなこと。それに彼は…」
さっきと同じ表情にマリは何かを感じ…。
かなり長い時間、話をしてしまったが、二人はすっかりメルアドも交換して意気投合。
「今日はありがとうございました。本当に奢っていただいて、いいんですか?」
「いいわよ。どうせ、支払いはお父様だもの。それと敬語はなしね。私達、友達なんだから」
家の前まで彼女に車で送ってもらい、食事までご馳走になって悪いと思いつつも、こんな言い方が彼女らしい。
「はい。えっと、マリさんって呼んでもいい?」
頷くマリにもう一度お礼を言って車から降りると、そこには…。
「文章さん…」
「麻衣、お帰り」
もう、来てくれないと思っていた彼がどうして…。
「ただいま。文章さん、お仕事は」
「今日は切り上げてきたよ。マリに大事な麻衣を取られないようにね」
「え?」
そっと麻衣が彼女の赤いスポーツカーに目を向けると、マリはニッコリと微笑んでアクセルを踏んだ。
見えなくなるまで見送り、文章は麻衣の腰に腕を回して存在を確かめるように抱きしめる。
…久し振りの感触、麻衣の匂い。
「麻衣の手料理が食べられると思ったんだけど、今夜は無理かな」
「いえ、材料はありますから。すぐ作りますね」
習ったばかりの料理は、家にある食材で作れるだろうか?
急いで冷蔵庫の中身を思い出しながら、嬉しさのあまり頬が緩む麻衣だった。
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