翌日、青は辞表を提出すると、何事もなかったように事務的に受理された。
ヴェンティセッテ買収に失敗した責任を取っての辞任に関して役員達の間では何の異論も出なかったが、後になって知らされた社員達は突然のことに驚きを隠せない。
若くてやり手の上に信頼も厚く、独裁者的存在の現社長に不満を抱いている者には今回の件に納得はいかなかった。
「本当に辞めてしまうのですか?」
青の元でずっと仕事をしてきた部長の大内は、悔しさを隠し切れない様子。
彼は年齢的にだいぶ上だったが、青にとっていつも力になってくれた一番信頼のおける人だった。
「仕方がないさ。少なからず、会社に損害を与えてしまったのは事実だから」
デスクを整理しながら、口調はどことなく寂しそう。
30そこそこで取締役になった青が、この席に座ったのはほんの数年のことだったけれど、もっと長く座っていたかったと思う反面、これで良かったと思う自分がいるのも確か。
社長を恨むなどというつもりは毛頭なく、それよりも一番大切なはずの葉月に何もしてあげられなかったことの方が今は辛い。
結果的に彼女自身が防衛策を取ったことで買収という難は逃れたが、青はただ指を咥えて見つめていただけ…。
自分の無力さに嫌気が差した。
「私にはとても、マネージャーがヴェンティセッテのような小さな企業を買収するとは思えないんです。社長に何か…」
「それはない。これは、全て俺自身でやったこと。社長には、関係ないんだ」
「でも…」
やはり、大内には納得できないし、これは社長の差し金だったに違いないと確信している。
「大内さん、今度飲みにでも行きましょう」
「マネージャー…」
「俺はもう、マネージャじゃありませんから」
「申し訳ありませんが、後は処分しておいてもらえますか?」と、一人静かに部屋を出て行く青の姿を見送りながら大内は思う。
『こんなふうに去って行くような人じゃない。マネージャーこそが、この会社を未来へと導いていくのに…』
不本意な決定に怒りを覚え、こぶしを握り締めた。
+++
―――青、どうしたのかしら…。
落ち着くまで彼に逢わないようにしていた葉月だったが、買収問題も一段落ついたこともあってメールを入れたのに返事が返って来ない。
電話をしても、出てくれないし…。
そんなことを考えていると、ノックと共に杏子がコーヒーを持って入って来た。
「社長。たった今、帝国アーバンディベロップメントから独占契約について、白紙にして欲しいという連絡が正式にありました」
葉月も杏子も、これを聞くと『やっぱり』という思いが強い。
それでも、こうして落ち着いていられるのは全て杏子が素早い対応を取ってくれたから。
でなければ、今頃どうなっていたか…。
「全て、杏子のおかげ。ありがとう」
「何、言ってるのよ」
面と向かってお礼を言われたのが恥ずかしかったのか、杏子は慌てて自分のコーヒーカップを手に取った。
「あたしは会社の責任者のくせに何も気付かなくて、社長失格ね」
帝国アーバンディベロップメントが株を大量買いしていることも気付かなかったし、コーヒーの輸入や店舗を増やすということに目を向け過ぎて、会社を守るという肝心なところが抜けていた。
社長は全てに於いて、注意深くなければならないはずなのに。
「そんなことない。葉月は、きっちり社長としてやってるじゃない。一人で全部やろうって思うから、ダメなんでしょ?何のためにあたしや、他の人がいるのよ」
みんな、葉月の力になりたいと思ってる。
一人で完璧にこなせる人間なんて、そうそういないのだから。
「杏子」
「ねぇ、ところで橘さんとは、何か話したの?」
何も話してくれなかったのは、帝国アーバンディベロップメントがヴェンティセッテを買収しようとしていた事実を知っていたから。
きっと彼も苦しかったはず…。
「ううん。それが、メールを出しても返事が返って来ないし、電話にも出てくれなくって」
―――逢って、話がしたい。
二人の愛に嘘はなかったわよね?
◇
青は、葉月に合わせる顔がなかった。
もちろん、想いは今も変わらない。
でも、自分が置かれていた立場や、今のこんな姿を見て、どう思うだろう…。
…軽蔑するかな、いや優しい葉月のことだから、今まで通り接してくれるかな。
昼間っからいい大人が街をブラブラしていれば、人は怠けてると見るのだろう。
まさか、自分がこうなるとは思っていなかったけれど、ずっと走り続けてことへの神様が少し休みなさいというご褒美なのか。
いい方に受け取ることにして、ふと目に入ったのはヴェンティセッテカフェ。
…こんなところにも、OPENしたのか?
『今年中には10店舗目指して頑張るつもり』と言っていた葉月を思い出し、その目標に向かって頑張っているのだろう。
夢に一歩一歩、近付こうとしている葉月が羨ましい。
無意識のうちに青の足が、カフェへと向いていた。
「いらっしゃいませ」
その元気な声は、青の周りをベールのように包んでいたわだかまりを一気に吹き飛ばしてくれそうだった。
「葉月…」
社長自ら店に立つその姿は、凛々しくさえも見える。
「青、どうしたの?こんなところで」
メールも返って来ない、電話にも出なかった彼が、この店に現れるなんて…。
―――それになんだかとってもラフな格好だし、今日はお休みなのかしら?
「まぁ」
「それよりメールの返事もないし、電話にも出ないから心配したのよ?」
「ごめん」
「青?」
歯切れの悪い言い方が気になって、急に不安になる。
―――やっぱり、あたしにはもう逢いたくないのかも…。
「ご注文がお決まりでしたら、お伺いいたしますが」
「じゃあ、自慢のコーヒーをもらおうかな」
「はい。当店自慢のコーヒーをお一つですね」
それでも、今まで通り振舞う葉月に青の心は揺れ動く。
全てをさらけ出して、もう一度。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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