「新しい仲間を紹介します」
ヴェンティセッテ・カフェでバイトをしたいとの青の申し出に葉月が選んだのは、ヴェンティセッテ本社に一番近いところにある3号店。
記念すべき1号店にと思ったけれど、あそこは彼が勤めていた帝国アーバンディベロップメントに近いこともあり、心情を考えて葉月は敢えて自分に近い場所を選ぶ。
というのは建前で、すぐに逢いに行けるからというのが一番の理由だけど。
「今日からみんなと一緒に働いてもらうことになりました、橘さんです」
葉月がバイトのみんなに青を紹介すると、年齢のこともあっただろうし、何よりその容姿に驚かされた様子。
白いシャツに黒のパンツ、カフェエプロンを身に着けた彼は、まるでモデルのようだったのだから。
「橘です。よろしくお願いします」と挨拶する青に若い女子大生アルバイトの目が輝いた。
それを見逃さなかった葉月だが、社長らしくここは大人の女性を装うことに徹する。
「橘さんはこういう仕事は初めてなので、慣れるまでみんなで助けてあげて下さい」
「はい」と元気に答えたのは、やはり女性達。
―――やっぱり、心配よね。
ここで、『青は、あたしの彼氏なんだから』と宣言できればどんなにいいか…。
「じゃあ、せ…橘さん。初めは、コーヒーの入れ方から覚えて下さい」
「わかりました」
つい、青と呼んでしまいそうになって慌てて言い直したが、なんだかものすごくやりづらい。
出掛けの本人はとてもやる気満々で、今までの重責から解放されたのか、はつらつとした表情だったのが葉月には救いだったかもしれない。
そんな彼の側に一日付いているわけにもいかず、重要な会議も入っているし、葉月は心配ながらも本社へと戻らなければならなかった。
「あたしは本社に戻るから、ゆっくり焦らずに」
「あぁ、ありがとう」
周りに気付かれないよう小さく囁くと、葉月は店を出て行った。
◇
「橘さん、どんな感じ?バイトは」
「なんか、バイトの子の視線がねぇ」
「気になるのよ」と本社に戻って会議に出ても、青のことが気になってあまり集中することができなかった。
社長たるものが、こんなことではいけないのだけど…。
葉月は机に突っ伏して、大きく溜め息を吐いた。
「ウフフ…」
「何よ、その笑いは」
腕を組んで意味深な笑みを浮かべる杏子に、葉月は顔だけを彼女の方へ向けて言う。
そんな口を尖らせた葉月を見て、杏子はまたまた意味深な笑みが。
「だって、葉月のそんな姿を見られるとは思わなかったから」
青がカフェでバイトをしたいのだと葉月に聞かされた杏子は、『あの彼が、バイト?!』と信じられなかった。
大企業で取締役にまで上り詰めた人物が、いきなりバイトとは想像つかなかったから。
考えてみれば、そういうところが彼の素晴らしいところだと思ったし、葉月も惚れたのだと。
しかし、あれだけ素敵な彼が人前で接客するとなれば女性達の注目を浴びることは間違いない。
さぞかし葉月も気掛かりだろうと思ったが、それは予想以上だったかも。
「本当はバイトなんてって思うんだけど、青には何か考えがあってのことだろうから」
「そうそう。帝国アーバンディベロップメントの斉賀社長、うちがダメだったからって今度はアメリカン・キッチンに買収を仕掛けて上手くいったらしいわ」
「え?アメリカン・キッチンを?」
驚きで、葉月は反射的に体を起こす。
アメリカン・キッチンと言えば、若者をターゲットにして急成長を遂げているハンバーガーショップ。
―――斉賀社長は、あのアメリカン・キッチンを買収したとは…。
「無防備だったみたいね。まさか、買収されるなんて思ってなかったでしょうし」
「今頃は、うちがそうなっていたかもしれないわ」
とても、他人事とは思えない。
杏子がいなかったら、今頃ヴェンティセッテが買収されていたかもしれないのだ。
「それとね。これは、葉月の耳に入れてもいいのか迷ったんだけど…」
言い掛けて、口篭もってしまう杏子。
―――何か、悪い話なのかしら?
「どうかした?」
「うん。斉賀社長、うちが買収防衛策を取ったのは橘さんが葉月に話したんじゃないかって。二人の関係を調べたみたいなのよ」
「えっ?」
杏子には、青が買収に失敗したというだけの理由で辞めさせられたことがどうにも腑に落ちず、密かに内部情報を入手していた。
そこで二人の関係を知った斉賀社長が、買収失敗の責任を青に押し付けて自分は逃れたのだと聞かされた。
その後のアメリカン・キッチンの買収により、彼の地位は不動のものになったが、裏でそんな事実が隠されているなんてことは誰も知るはずがない。
「ヴェンティセッテの買収計画を主導したのは斉賀社長なのよ。橘さんは、それを命じられただけ。本来なら責任者である社長が辞めるべきなのに二人の関係を突き付けて、橘さんだけに責任を押し付けるとは」
「許せないわね」と興奮気味に話す杏子。
「そんな…」
―――青が、あたしのせいで辞めさせられたなんて…。
葉月でさえも聞かされていない話、きっと彼は言うことなんてできなかったのだろう。
一人、苦しめてしまったことに葉月は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
それにしても杏子は一体、どこからそんな情報を入手したというのだろうか?
「あたしね、どうしても納得できなかったから、橘さんの下にいた部長の大内さんって言う人に聞いたの。その人も、個人的にその件で調べていたみたいで」
自分は探偵にでもなれるんじゃないか?そんなふうに思ったりするほど、杏子の勘は鋭くちょっとしたことにもすぐに反応する。
こっそり社内の噂を聞き入れて、斉賀社長に不満を持っている社員が少なくないということを耳にした。
そんな中でも部長の大内という人物が青のことをとても尊敬していたと知り、接触を試みる。
彼は彼で独自に動いていたようで、青の辞任の背景にこんなことがあったのかと怒りを露にしていたのだ。
「杏子、そんなことまでしてくれてたの?」
「勝手に調べたりしていいのかなとも思ったんだけど」
彼女である葉月は、そんなことを考えもしなかったというのに…。
―――これじゃあ、彼女失格じゃない。
何もしなかった自分が恥ずかしい。
「ううん、ありがとう。杏子には何から何まで、お世話になりっぱなしね」
「何、言ってるのよ。葉月は社長なんだもの。余計なことは考えなくてもいいの」
こんなに頼れる秘書がいてくれることを感謝しなければ。
でも、ここまで調べたということは杏子のこと、まだ何かしようとしていないだろうか?
無茶なことをして、厄介なことに巻き込まれたりしなければいいけど…。
「あの社長このとだから、アメリカン・キッチンの買収にも何か裏があるような気がするのよ」
「ねぇ、杏子。ありがたいんだけど、それ以上は」
「大丈夫。上手くやるから」
『大丈夫だから』という杏子の言葉を受け入れてしまった葉月。
果たして、アメリカン・キッチン買収の裏に何かあるのだろうか…。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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