青は大内に言われたことを思い出して、コーヒーを入れるため背を向けた瞬間に小さく溜め息を吐いた。
まだカフェでのバイト中、お客様の前でそんな姿を見せるわけにはいかなかったから。
…斉賀社長の裏を暴いたところで、一体何になるというのだろう。
何度も言うが、もう終わったこと。
今更、俺にどうしろって言うんだ。
抽出されるコーヒーをカップに注ぎながら、自問自答しても答えなど見つかるはずもなかった。
カフェの営業時間は店舗にもよるが、周りにオフィスなどが多い3号店は朝7時から夜10まで、シフトもバイト仲間の都合に合わせて組んでいたけれど、青の場合はほとんどがフルで入っていたから早い時は準備から始めて朝6時頃から休憩を何度か挟んで夕方4時か5時くらい。
午後から入って遅い時は片付けなども含めると夜11時ということもあったが、そんな日は葉月が店の側までこっそり迎えに来てくれる。
よく考えてみれば、若い女性社長と会社をクビになったアルバイト店員の恋など、まるでドラマにでもなりそうな設定に我ながら感動したりして。
…葉月には感謝しなければいけないよな、こんな俺をずっと好きでいてくれて、支えにもなってくれて。
あの時、あの場所で彼女に出逢わなければ、今頃自分はどこで何をしているのだろう。
こんなふうにバイトをしたりなんてことは、恐らくどころか絶対にあり得なかったに違いない。
階段を順調に上りつづけていた自分が堕ちることなど、神様しか知りえないことだったはずだから。
「青。ごめんね、遅くなって」
カフェから少し離れた雑居ビルの壁に寄り掛かって考えごとをしていた青の耳に、車のエンジン音と共に明るい声が飛び込んできた。
彼女だって相当疲れているはずなのにそういうところを絶対に見せない。
…俺なんかより、よっぽど葉月は強い女性(ひと)だよな。
「俺もたった今、来たばかりだから」
葉月は愛車ボルボから降り立ち、「お疲れさま」と周りをチラっと見てから青の唇に軽く触れる程度にくちづける。
この瞬間が実は青にとって一番の癒しというか、ホッとする時でもあった。
帰りは決まって青が運転して行くが、見掛けによらず国産車しか手を出したことがなかっただけにこれがなかなかの曲者。
彼女を助手席に乗せ、ドアを閉めると青は運転席に回りゆっくりと車を走らせた。
「ねぇ。青は、帝国アーバン・ディベロップメントのアメリカン・キッチン買収についてどう思う?」
「えっ、どう思うっていうのは?」
葉月の唐突な質問だったが、大内と杏子の接触によって彼女もまた、斉賀社長とアメリカン・キッチンの関係を疑っているのかもしれない。
これ以上深入りしない方がという気持ちが青のどこかにあったのか、わざと惚けたような言い方をしてみた。
「青が会社を辞めることになったのも、あたしとこうして一緒にいたからなのよね」
辞めた理由は自分の責任だとしか話していなかったのは、余計な心配を掛けたくなかったから。
例え理不尽なことだとわかっていても、葉月だけは巻き込みたくなかったし、守らなければならない大切な存在だったから。
「それは違う」
「え?」
真っ直ぐ正面を見たままの青の横顔をジっと見つめる葉月。
「きっかけはそうだったかもしれないけど、遅かれ早かれ俺は会社を辞めたと思う。所栓はサラリーマン。社長の言うことは絶対で、それを受け入れられなければ去るということさ」
「青」
そっと重ねる青の手にもう一方の手を重ね、包み込むように握り締める葉月。
―――このまま、負けて欲しくない。
もしも、もしもよ?杏子の言っていたように斉賀社長が何か裏で手を回すようなことをしていたというならば…。
「あたしね、青にはこのままでいて欲しくない」
「葉月?」
「杏子が言ってたの。斉賀社長には何かあるんじゃないかって。今度のアメリカン・キッチン買収の件もきっと」
この時間はあまり走っている車もなく見通しのいい交差点の赤信号で止まった車はこのボルボだけ、前を横切った白い軽自動車と配送トラックを見過ごしながら、二人はお互いの顔を見つめ合う。
もう、この時既に時計の針は動き出してしまったのかもしれない。
「今日、元俺の部下だった人が店に尋ねて来たんだよ。同じことを言われたんだ」
「その人、大内さんて言う人?」
「あぁ」と頷くと青は、信号が変わったと同時に車を発進させた。
お互い一緒に居ながらもどこか仕事に関して線を引いていたのは、重要なポストに就いていたという責任とそれよりも前に二人でいる時だけは忘れて恋人でいたかった。
しかし、それももう必要ないのかも。
「俺が『うん』と言えば、全ては動き出すってね。仲間も集めてくれたらしい、俺なんかのために」
辞めた者のことなど放っておけばいい。
関われば自分の首を絞めることになるかもしれない、取り返しのつかないことになる可能性だってあるというのに…。
それでも、青のために動こうとしている人達がいる。
「青だからこそ、大内さんや他の人達も協力してくれようとしているんだと思う。みんな、あなたの力になりたいの。もちろん、その中にあたしもいるわ」
自分がこんなふうに思われているなんて…青は今の今まで、全然気付かなかった。
上司として部下の面倒をきちんと見ることができたのか、葉月の隣にいて男として彼女を満足させてあげることができたのか、それすらもわからない。
それでも…。
「俺は、甘えてもいいんだろうか…」
…そこまでしてもらって俺は、何を返すことができるんだ。
「いいに決まってるじゃない。そうと決まれば、早速みんなを招集して作戦会議を開かなきゃ」
子供みたいにはしゃいで、なんだか嬉しそうな葉月。
作戦会議とはテレビの見過ぎのような気もしなくもないが、この関係だってさっきはドラマみたいだと思ったのだから、あまり変わらない…か。
車内に二人の笑い声が響いていたが、戦おうとしている相手は只者ではないということを忘れてはいけないのだった。
+++
それから特に変化があったわけではなく、相変わらず青はカフェでのアルバイトに精を出していたし、葉月は社長として忙しく動き回っていたというか、機会を見計らっていたという方が正しいだろう。
事を急いで、予期せぬ事態に巻き込まれてもつまらない。
水面下でゆっくりと地盤を固めている最中とでも言うべきか。
斉賀社長は葉月と青の関係を調べさせていたくらいなのだ、今度はどんな手を使ってくるかわからないのだし。
「葉月。たった今、大内さんから連絡があって、明日にでも話がしたいそうなんだけど」
「わかったわ。でも、大丈夫かしら?あたし達といるところが、誰かに見られたりしたら…」
「今の段階では、その心配はないと思う。まぁ、何か事が起きれば、すぐ反応してくるとは思うんだけどね」
その辺のことは杏子が上手くやっていてくれるだろうから心配はなかったけれど、大内がどれだけの人を集めているのかわからない。
青を含めて一体、どこで顔を合わせればいいのだろう。
「場所は?」
「問題はそこよね。頻繁に会ったりするわけにもいかないでしょうし、ちょっと相談してみるわ」
「お願いね」
「任せて」
顔の前で、おちゃめにVサインをする杏子。
秘書という仕事だけでも大変なのに、もう一つ頼まなければならないことに葉月は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
それを口に出せば『何、言ってるのよ』と返ってくるに決まっているから、『ありがとう』と葉月は何も言わずに心の中でそう言うのだった。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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