「いらっしゃいませ―――」
「葉月」と続けようとして、口をつぐんだ青。
一応、自分の勤めるカフェの社長だし、付き合っていることも、ましてや一緒に住んでいることすらも周りの者には知られてはいなかったから、ここで名前を呼んでしまうのはやっぱりマズい。
「どう?もう慣れた?」
そんな青を察してか、葉月は小さな声でそう聞いた。
店長など、葉月が店内に入って来ただけでお客様に気付かれないように挨拶してきたし、本人はそんな気がなくても社員やアルバイトの人達は彼女を見ればどうしても身構えてしまう。
「何とかね」
「あたし、見惚れちゃった。青があんまりカッコいいから」
葉月が青の仕事振りを見に来たのは今回が初めてだったがお世辞でも何でもない、これは自然に出た言葉だったと思う。
ここ3号店の売り上げがダントツで高いのは、青がアルバイトを始めてからだというのは誰もが承知のこと。
もちろんそれは彼見たさの若い女性客が増えたからだったのだが、それよりもニッコリ笑う葉月にこそ青は見惚れてしまう。
社長であるという自信というか、威厳みたいなオーラを感じさせつつも、はにかみながらの言葉に青の前では一人の可愛い女性。
毎日一緒にいるのにそんなふうに思えるのは、お互い余程惚れているからかもしれない。
「ここでそんなことを言われると、仕事を放棄したくなるんだけど」
「え?ダメよ。きちんと働いてもらわないと」
しっかり締められつつ、彼女の一番好きなコーヒーを入れる青の手付きもすっかり慣れたもの。
そんな姿を見ながら葉月は思う。
確かに今の彼も素敵だということに変わりない、しかし第一線でバリバリ仕事をしていた頃の彼がやっぱり好きなんだなと。
だから、何としてでも斉賀社長の本性を暴き、できれば青には帝国アーバン・ディベロップメントに復帰して欲しい。
これは、葉月の願いだったから。
◇
大内と話をつけた杏子が関係者を集めたのはそれからすぐのことだったが、その場所に選んだのはなぜかファミレス?!
「ねぇ、どうしてここなの?」
葉月の問いに隣にいた青も言葉は発しないものの、大きく頷いている。
二人とも久しくこういうところへは足を運んでいなかったから、家族連れが楽しそうに食事をしている姿はとても微笑ましく思えたが…。
これから重要な話をする場としては、どうなのか。
「ここだからでしょ?」
「益々、わからないんだけど」
「まぁ、いいから」と先に店内に入ってしまった杏子の後に続いて、葉月と青も中に入る。
出迎えた可愛らしいウェイトレスに「3名さまでしょうか?お煙草は―――」と聞かれたが、杏子は店内を見回してと大内の姿を見つけるとウェイトレスにそう言ってスタスタと行ってしまう。
「大内さん、お待たせしてすみません」
「いいえ、私達もついさっき来たところですから」
大内と他3名の見知った顔が一斉に席を立ち、青をジッと見つめる。
彼らの知っている取締役時代の青とはあまりに違うラフな姿に落胆を隠せない様子だったが、それでも以前より顔色がいいことにホッとする。
大内も、同じことを言っていたけれど…
「マネージャー、お久し振りです」
その中の一人、最初に青に言葉を掛けたのは大内の部下である課長の船越。
彼は青と年齢が近かったこともあって大内よりも色々な面で相談に乗っていたから辞める時に一番心配だったのだが、元気にやっているようで良かったと思う。
「船越君、君も来てくれたのか」
「当たり前ですよ。大内さんに話を聞いた時は、居ても立っても居られなくて」
新しく青の後任にマネージャーに就いた人とはやはり折り合いが悪く、どうして青が辞めなければならなかったのか、理由を大内に問いただしたのがキッカケだったかもしれない。
そして、その横には船越と同年代と思われる男性が二人。
「私から紹介しますが、この二人は左から吉井、鴨志田と言います」
船越の紹介で吉井と鴨志田が「よろしくお願いします」と挨拶したが、確か別の部の課長だったはず。
直接的に青と関係のなかったはずの彼らが、どうしてここに…。
「二人とも私の同期なんです。日頃から社長のやり方には疑問を持っていまして、協力したいということなので大内さんと相談して来て貰いました。信頼のおける人達ですから」
そして、都合でここには来られなかった大内の下で船越と共に仕事をしていた立林という課長に秘書の女性がなんと全員協力を申し出ていると聞いてびっくり。
彼女達はずっと青の側で仕事をしてきて辞任の理由にも納得できなかったし、社長に対する不信感は募るばかり。
今回のアメリカン・キッチン買収の件もそうだが、絶対に何かあると彼女達なりに動き出していたそうだ。
皆、帝国アーバン・ディベロップメントの将来を考えてのことはもちろん、それは青に戻って来て欲しいという強い思いに他ならない。
それを聞かされて、青は胸が詰まる思いだった。
これだけの仲間がいれば必ず…。
ただ、現状では斉賀社長についての疑惑があるだけで、何も根拠がない。
どうやって、戦えというのだろうか…。
「みなさん、はじめまして。ヴェンティセッテの中野と申します。橘さんが会社を辞めることになった原因の一つは私にもあると思っています。ですが、そこに真実でないことがあるとするならば、私はどんなことがあっても彼のために最後まで戦うつもりです」
ここにいる大内を始め帝国アーバン・ディベロップメントの面々は彼女に会うのは初めてだったが、その言葉に圧倒されてしまう。
ヴェンティセッテのことは誰もが知っているし、社長にしては若いということももちろん感じないわけではなかったが、秘書の女性達といい女は強いなと思わずにはいられない。
「それでは、食事でもしながらゆっくり話しましょうか。ちなみに私は中野の秘書をやってます、大野と申します。みなさんも、お腹が空いたでしょう?ここのお店、なかなか美味しいんですよ」
「ファミレスだからといって侮れないんですよ?なんたって、唯一うちのコーヒー豆を入れているお店ですしねぇ」などとちゃっかり宣伝も欠かさない暢気な杏子に拍子抜けという感じもしないでもなかったが、このファミレスを選んだ理由は斉賀社長の周りにいるような人は絶対に来ない場所だったから。
それに初めから堅苦しい話をしてもどうにもなるものではないし、彼女にとっては『腹が減っては戦はできぬ』というところかもしれない。
とにかく情報源の元は、一番近くにいる秘書に頼ることが大きいのは確か。
ヴェンティセッテやアメリカン・キッチン買収の件は既に終わってしまっていることなので、恐らく斉賀社長は次のターゲットに焦点を定めているはず。
そこをさり気なく彼女達に探ってもらうことにするが、絶対に無理だけはしないように念を押して。
コーヒーを何杯お替りしても、散々居座っても気兼ねなく過ごせるファミレスは作戦会議を行う場所としては御誂え向きの場所だった。
◇
「随分、長居しちゃったわね」
「そうだな。なんか、会社を辞める前を思い出したよ。あんなふうに夢中で話をするのって」
みんなと別れて葉月と青は家路についたが、時計を見て3時間近く話していたことに驚いた。
時間を忘れて会議に没頭することは会社を辞める前までは当たり前のことだったのに、すっかり忘れていた青にとっては新鮮だったと言っていい。
「早く戻れるといいわね」
「俺は戻ろうなんて」
「何、言ってるの?コーヒーを入れてるあなたも好きだけど、あたしはスーツ姿でビシッと決めてバリバリ会議で発言してる青が好き」
「葉月…」
『私はどんなことがあっても彼のために最後まで戦うつもりです』
…そう言ってくれた葉月のために俺は戦わなければいけないんだ。
何かを決めた青の目はとても輝いていて、思わず葉月はくちづける。
「葉月、俺を誘ってるのか?」
「えっ、あたしは頑張ってねって意味で―――」
なんて、言葉が届くはずもなく…。
急いで家に帰った葉月と青だった。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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