「彼はヴェンティセッテを買収できなかった責任を取ってというより、その責任を押し付けられたんです」
「斉賀社長に?」
「えぇ。斉賀社長はうちが買収防衛策を取ったことで、あたしとの関係まで調べて。青は何も言わずに全部一人で抱え込んでいたんです」
「きっと、ものすごく苦しんでいたに違いないんです」と暗い表情で話す葉月を怜音(れお)はただ、じっと見つめていた。
全く無防備なら別だが、このご時勢、買収防衛策を取る企業は増えている。
日本では自分の会社が買収されるかもしれないという危機感がほとんどなかったが、それも“何でうちが?”というような無名の企業が外国からの投資ファンドの進出などでいつどこから狙われるかわからないからだ。
そういうことで言えば、ヴェンティセッテだって例外ではないだろう。
こんなに若くて綺麗な社長なら業界でも注目を浴びるのはわかる気がするが、彼女の実力はそれだけではなかったということ。
さすが、青が選んだ相手だけのことはあると怜音(れお)は思う。
しかし、斉賀社長は二人の関係までも調べ上げてその責任を青一人に押し付けたとは。
だいたい、帝国アーバン・ディベロップメントのここ数年の飛躍の一端を担ったのは誰のおかげだと思っているのか。
確かに斉賀社長の采配は評価も高いが、その裏で青の功績が大きかったことをみんな知っているはず。
それなのに…。
「そうですか。でも、橘は辞めただけで済んで良かったのかも」
「え?」
―――青は何も悪いことをしていないのに辞めて良かったなんて。
深澤さんは、どうしてそんなこと…。
怪訝そうな葉月に怜音(れお)は、慌てて言葉を繋げた。
「あぁ、誤解しないで下さい。いくら買収しようとしている相手と親しい関係だったとしても、あいつは絶対にその事実をあなたに話したりしないでしょう。ですが、斉賀社長がもし、橘があなたに情報を漏らしたということを公にしたとしたなら。今頃は、犯罪者の汚名を着せられていたかもしれません」
不正な取引があったと言われてしまえば、例えそうではなかったとしても、無実を証明するのは並大抵のことではなかったはず。
青にとっては不本意な結果に終わったかもしれないが、あの斉賀社長が二人の関係まで調べ挙げておきながらそうしなかっただけ、今は良かったと思った方がいいのではないだろうか。
「深澤さんの言う通りですね」
―――そんなこと、考えもしなかった…。
斉賀社長のやり方が許せなかったけど、もしかしたら…それは、あの人の中にあったほんの少しの優しさだったのかもしれない。
ただ…。
「橘とは、どこで知り合ったんですか?」
怜音(れお)の唐突な質問に葉月は首を傾げながらも、なぜかわからなかったが人の心の奥深くまでも見抜いてしまう力のようなものを感じていた。
「バーです」
「バー?」
「仕事で色々あって、ちょっと無理な飲み方をしてたんです。そうしたら『あちらの方からです』って、バーテンダーにノンアルコールのカクテルを前に置かれて」と話す葉月に怜音(れお)は、ちょっと、いや、かなり意外だった。
…あの、橘が?
あいつはモテたけど、そんなバーで女性に声を掛けるようなやつじゃなかった。
『無理な飲み方をしてたんです』と言っていたところをみると、よほどヒドイ飲み方をしていたとか。
それとも、何かこうなる運命だったのか。
「あいつも隅に置けないなぁ。こんな美人を捕まえるなんて」
「そんなこと…」
「職を失ったって、あなたを失わなかったことが、何より良かったとあいつだって思ってるんです。迷いがないと言ったら、嘘になるでしょうが」
大都会の歩道の真ん中で夕暮れ時の空を見上げる青を見た時、その理由が何だったのかを。
「こういう時間も必要なんですよ」
「そうだと、いいんですけど」
今の青を見ていると、やはり自分が側にいてはいけないような、葉月はそんなふうに思えてならなかった。
そして、いつか彼は遠くに行ってしまうのでは…。
「だからか」
思い出したように怜音(れお)は、足元の自分の鞄に入れてあったA4サイズの封筒を取り出した。
それは青が持っていたものだが、酔っ払ってしまったから無くしてはいけないと預かっていたのだった。
そこには確か、不動産屋の名前があったような…。
家を越したと聞いていたのにおかしいとは思っていたのだが…。
「やっぱり。あいつ、部屋を探してたんだ」
不動産屋の名前が書かれた封筒の中に入っていたのは、アパートの間取り図と家賃や他の経費など細かい事項が書かれた書類。
「えっ、部屋を?」
「聞いていないんですか?」
「全然」
―――青が、部屋を…。
悪い予感は的中してしまったのだろうか、何も言わずに黙ってあたしの前からいなくなるつもりだったの?
この家に一緒に住むのは、嫌になったのかも。
彼にとっては全てが重荷だった…。
「ったく、何考えてんだ。酔っ払ってなかったら、一発打ん殴ってやるところだぞ」
彼女の家に居候することに抵抗があることもわからなくもないが、だからといって一人で勝手に部屋を探して出て行こうとするというのはどうなのか。
『いいわけないだろ』
そう言った青は、一体どういう思いだったんだろう。
「あたしが側にいては、いけないんですね。彼に負担を掛けていただけなのかもしれません。これは、見なかったことにします」
「後で、深澤さんから青に渡しておいて下さい」と話す葉月は、半ば諦めのようにも取れた。
これから、元同僚達と一丸となって戦うはずだった。
それすらも、諦めてしまうのでは…。
彼の支えにも力にもなってあげられなかったのかと思うと、情けない思いでいっぱいになる。
いっそ、これ以上関わらずに新しい道を歩んで行く方が、彼のためなのかも。
「こんなものっ」
「なんだっつんだ」と怜音(れお)は、それをぐちゃぐちゃにひねると、近くにあったゴミ箱に投げ捨てた。
一見、爽やかな彼のどこにこんな熱いものがあったのか。
「深澤さん」
「中野さん、ダメですよ。橘をしっかり捕まえておかなければ」
「もう、あたしには無理です」
「あなたがそんなことで、どうするんですか。ちょっと待ってて下さい」
言うや否や、怜音(れお)は青が寝ている部屋に向かって行ってしまう。
「あの、深澤さん」と葉月が急いで後を追い掛けても…。
気持ちよく眠っていたはずの青は、怜音(れお)に叩き起こされて散々説教をくらわされたが、まだ酔っていたのか、さっぱり耳に入っている様子はなかった。
それでも、「ごめんな葉月、勝手なことして。側にいるって言ったことは、本当だから」と言ってくれた彼の言葉が嬉しかったし、それだけは信じていたかった。
※ このお話はフィクションです。実在の人物・団体とは、一切関係ありません。作品内容への批判・苦情・意見等は、ご遠慮下さい。
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